アブソリュート・ブルー 5
しばしの沈黙のあと、ごめん、と越野が小さな声で呟いた。
「いや…謝る意味、わかんねえよ…」
「だってよ、お前の彼女だし、やっぱいい気持ちはしねえだろ」
「別にそんな昔のこと気にしねえよ」
「だっておまえ、そんな…」
「……」
「……。言うんじゃなかったよな、やっぱ」
それきり越野は神妙な面持ちで、口をつぐんでしまった。仙道は呆然として二の句がつげなかったが、頭の中では思い浮かべる。15歳の越野は、その腕で奈緒を抱いていた。幼いふたりのセックスは、どのようなものだったのか。仙道はいつのまにか一歩遅れて越野のあとを歩いていた。その目線を、目の前の腰元に移す。岡辺小夜の告白のときにも感じた、越野に対しての違和感を思い出した。小夜と越野が並んで歩く、その姿を見て想像したのは──スポーツと言う健康的な行為でのみ形作られていた越野の認識が、急に生々しいものに変わる、この感覚だった。
『ごめんね。親友のそういう話、あんまり聞きたくなかったかな』
小夜の儚げな声を思い出した。仙道はその言葉に、あの午後よりももっと深く、心から同意した。
すでに山道を抜け、ふたりは線路沿いに歩いていた。この横須賀線の線路を越えれば今小路に出るが、そのまま鎌倉駅の方にしばらく進んで行く。奈緒の自宅は滑川の近くに在るので、そこから丁度真西にあたるコンビニが待ち合わせの場所だ。店のわきの、狭く人気のない公園に到着すると、まだ奈緒は来ていなかった。越野は奈緒が通ってくるだろう小町通りの方を見ながら、落ち着かない様子で居た。仙道はひっそり溜息をついて、越野に話しかける。
「越野さ」
びくり、とまでは行かないが、そんなふうに越野は仙道を見た。
「あそこでポカリ買ってきてくんね? 喉乾いちった」
「パシリかよ」
「ポカリ一本とお菓子奢るよ」
「…行く」
仙道はすこし安心してふっと笑い、ジーンズの後に入れてあった千円札を渡して、越野の後を見送った。越野がコンビニに入っていくのを見ると、右手をちょっとあげる。小町通りの方ではなく鎌倉駅の方から、俯きがちに奈緒が歩いてきた。未だ制服のままである。
「見てたと思うけど…越野も居るんだ。ごめんな」
「…何となくそう思ってた。歩いてくって言うから、もしかしてって…」
「…そっか。そうだよな…」
「……宏君から、なにか聞いたの?」
宏君、と奈緒がそう言うのを聞いて、仙道は思わず奈緒をまじまじと見てしまう。それに敏感に気付いた奈緒は、目を僅かに伏せて唇を噛んだ。
「いや…聞いたのは、奈緒と越野が知り合いだったってことくらい」
仙道が嘘をつくと、奈緒は悲しそうに笑って、二、三度頷いた。仙道も少し微笑んで、それからまた奈緒の顔を見る。
「…今日、どうしたの?」
「……」
「さっきの声、おかしかった」
「……」
「何かあったんだろ、だから電話かけてきた」
「……。別にね、何かあったわけじゃないの」
「……本当に?」
「…ただ声が聞きたかっただけで…」
「俺の? ……じゃあ、誰でもいいから会いたいくらい、辛かったんだ?」
「……」
押し黙った奈緒に仙道は困ったように笑って、優しく問いかける。
「……ごめん。でも俺、これでも心配してる」
「うん…」
「冷たい人間だと思ってただろ? 俺のこと。他人に全然興味ない男だって。いつもそう言われて振られるんだ……まあ、俺もそう思ってたけどな」
おどけたようなその言葉に奈緒は口元だけで儚げに微笑んだ。そうしてしばらく黙り込んだあと、ゆっくりと口を開く。
「……今日、人と会ったの」
「……そ、」
「──それって」
仙道が問おうとしたとき、横から声がした。奈緒と仙道が振り向くと、コンビニのビニール袋を持った越野が歩いてきた。その袋をやや乱暴に仙道に押し付けると、奈緒に向かう。奈緒は一瞬わずかにたじろいだが、すぐにいつもと変わらない綺麗なドールフェイスで、越野を見た。
「…久しぶり。…こないだはごめんね。あたし、驚いて…」
「そんなことどうでもいい。今言ってた、今日お前が会った人って──」
「越野」
仙道が口を挟むが、越野は止まらない。
「それって、兄貴、なのかよ…?」
「……」
「兄貴なんだろ?」
「……そうよ」
「──」
その一言に、越野は、自分で要求した結論にも関わらず複雑な顔をして、一瞬口ごもった。その隙に、仙道が間に入って越野の胸に手のひらを置いた。バスケの試合で越野の緊張をほぐすときに、仙道がよくする仕草だった。
「落ち着いてよ、越野。奈緒もびっくりしちまうだろ」
「……お前さ」
仙道の制止で一度落ち着いたかと思われた越野は、しかし、視線の強さは全く変えず奈緒を見つめて口を開いた。
「兄貴のこと、まだ好きなんだろ」
「……」
仙道は、越野のその言葉に奈緒の手先が揺らぐのを見逃さなかった。
「ずっと好きなんだろ? ……兄貴だって、きっとまだお前のことが好きなのに……何なんだよ、二人して。兄貴は大人ぶって平気な顔して、お前はそんな地獄みてえなツラして…! ヨリを戻しゃいいことだろ!?」
「…できないよ」
「なんでだよ! 会いたいのは仙道じゃねえんだろ? だったら兄貴のところに行けよ!」
「行けないよ!」
「──っ」
「……行けるわけ、ないよ……」
「……どうしてだよ…なんでそんなに、意地…」
「意地じゃないよ! 意地なんて張ってない……。……宏君、あたしがどうして、昌明と別れたか、分かる…?」
「え…?」
「今日だって、どうして、こんなに……こんなに──」
「…分かんねえよ…俺、だって…」
越野の言葉は途中で立ち消えた。しかしそのまま眉根を寄せて、奈緒をじっと見た。奈緒の口から出る言葉を待つような、恐れるような表情をしていた。仙道は奈緒を止めたいと思ったが、結局できずにいた。
「──今日、『宏とはうまく行ってる?』って言われたの」
奈緒の口調は落ち着いていたが、声はひどく震えていた。
「え…」
「『お前は宏と幸せになって』って──そう言われて、別れたの……」
そう言うとついに奈緒の眼から涙がぽろりと幾粒か落ちた。これまでに見たことのないような泣き顔だった。憎々しげでもなければ、ヒステリックでもなく、氷のような無表情を浮かべた頬にただ一筋涙が伝う。その涙は、奈緒が悲しみの感情を胸の内に完璧に押さえ込んでも、それでもなお溢れた発露のように思えた。そのせいか、その一滴が奈緒の深い悲しみをいっそう際立たせていた。
そう言って、奈緒は白魚のように細いその右手で目の下を拭い、越野から顔を背けた。ふっと振り返るとゆっくりと歩いて行く。背は高いが線の細い華奢な背中が、小町通りの方に消えて行く。その間、越野はその場所で身じろぎ一つしなかった。姿が完全に見えなくなってから、越野がぽつりと口を開く。
「……俺のせいだったんだ、やっぱり」
「……」
「…兄貴にさ、茨城に行くとき、『奈緒をよろしく』とか言われて…俺、そういう意味だって知らなくて──兄貴は、俺があいつのこと好きだって、知ってたんだ。知ってたから、奈緒と別れたんだよ。それなのに俺、一人で納得できなくて、奈緒んとこ行って…」
「越野」
「慰めに行くって、はは。聞いて呆れるよな……兄貴にそう言われたらあいつは断れねえのに、俺は、奈緒を、」
「越野のせいじゃない」
「……」
「越野は悪くない。お前は、奈緒のことも、兄貴のことも同じくらい好きだったのに、それを兄貴が勝手に空回りしただけだろ」
「……」
「越野は悪くねえよ」
重ねるその言葉に、越野はただ俯いていた。仙道はしゃがみこんで、越野の足元にいつのまにか落としていた、コンビニのビニール袋を拾う。そこにはペットボトルのポカリが二本と、ミルクティが一本入っていた。仙道は何とも言えない感覚に襲われ、頭を二、三回振って立ち上がろうとした。
「……っ」
声と同時に、公園の土の上に落ちたものを、仙道は愕然として見た。見上げると、越野は斜め下を向いたまま、声を堪えて泣いていた。仙道はそのとき決定的に、狼狽した。立ち上がるものの、何も言えずにただ見つめる。
「…それでも、俺がいなきゃうまくいってた…っ」
越野は手のひらをぎゅうと握る。人は悔しいとき、あるいは悲しいとき、本当にこんなふうに痛いほど拳を握るのだと、仙道は意識の端でぼんやり思う。そうして同時に、人を心から救いたいと思っても、それが叶わないことがあるのだと知る。いまだかつて、こんなにも人の涙に狼狽したことは、この仙道にはなかったのだ。
「…仙道」
「…?」
「奈緒んとこ、行ってやって…あいつ、歩くの遅えから…」
「……俺じゃ意味ないよ。それに」
「……」
「越野の方がつらそうだ」
言うと仙道は、自分の知る限りもっとも有効な慰め方をした。つまり、越野を抱き締めた。仙道は本当に、それ以外に何もできなかった。越野の身体は温かく震えて、腕に抱くと、思っていたよりも華奢だった。越野は抱き返すことももたれかかることもせずに、ただ立って歯を噛み締めていた。震える頭の脇から、地面に落ちたままのミルクティをじっと見つめる。背中の線路で、横須賀線が走り去る音が聞こえた。
*
翌朝仙道が眼を覚ますと、越野はもう朝食を食べ終わっていた。奇跡的に二度寝をすることなく、越野より20分遅れで茶の間へ向かった仙道に、越野母がにこやかに笑いかけた。
「あら、彰君、寝起きいいじゃない。宏の話と違うのね」
いつのまにか呼び名は仙道君から彰君になっている。
「おはようございます。俺、実は朝はけっこう得意なんですよ」
本当は眠りが浅かったせいですぐに起きられたのだが、仙道は愛想よく答えた。すると後から、うそつけ、と呆れたような声がする。見れば越野が既に制服に着替えて立っていた。仙道はいつもの調子で、にへらと笑った。越野が息をついたのを見て、仙道もひっそりと安心した。
越野の母が洗濯をし、アイロンまでかけてくれた制服のシャツに着替えて家を出ると、もうすぐ梅雨に入るというのに、眩しいほどの快晴だった。いつもは不精して朝練にジャージで行く仙道だったが、ぱりっとしたシャツに身を包むとなるほど気分も悪くない。抜けるような青い空に、一瞬、昨日のことが夢だったのではないかとまで思ったが、夢だったらいい、とは思わなかった。
兄の昌明とは、結局会わないまま家を出た。仙道と似ていると越野に言わしめるだけあって、朝はずいぶんと遅いらしい。低血圧っぽい顔だ、と仙道は自分を省みずに思う。彼は、昨日の夜中に自分達と奈緒が会って話したことを聞いたら、一体何を思うのだろうか。昨日の昼間、仙道達が越野の家に着くその直前に、彼は奈緒と会っていたのだ。そんなそぶりは微塵も見せなかった昌明が、仙道は意外だった。これが越野だったら、そんなふうにはいかないだろう。直情的とまではいかないが、越野は基本的に、自分の気持ちに嘘はつかないのである。それは自分にも他人にも誠実だということなのだと、仙道は昨日の彼を見て改めてそう思った。それこそが、彼が苦しんでいる理由に違いないのだが。
「そろそろ紫陽花だな」
仙道がそんなことを考えていると、左隣でぽつり、と越野が言った。ん? と問い返すと、うん、とちょっと緊張したような顔で越野が言葉を続ける。
「あじさい寺。すぐそこなんだ。毎年行ってる」
「ああ。ええと、なんとか院」
仙道はまたもや、うすぼんやりした地図を思い浮かべる。
「明月院だよ。行ったことねえのかよ?」
「ないなあ。つーか大仏しか見てねえの、俺」
「げー。お前もったいねえよ」
「行く暇あるかよ、あの練習で」
「まあな」
そう言って苦笑する越野に陰りは無く、すでにいつも通りだった。安心したはずの仙道はちょっと肩をすくめて、昨夜と同じように、越野の一歩後を歩く。昨夜の暗い、けれどいくらか開放的な雰囲気とはまた違う、明るくて健康な日差しが越野のシャツに照り注いでいるのを仙道はじっと見た。鎌倉街道から、じきに北鎌倉の駅が見えた。
普段の日曜日であれば練習はやや早く切り上がり、全日の練習で疲れがたまった翌日月曜がオフとなる。しかし、ブロック予選、そして決勝リーグまで一週間を切り、総当たり戦の終了までは、昨日のオフが最後の休みになった。一年で最も重要な大会を前にして、部員達も根詰めて練習に励んでいる。越野も例に漏れず、徐々に集中力が増しているようだった。陵南のスタメンを早くから任されているだけあって、越野のバスケに対してのモチベーションはかなり高い。並大抵のことでは、その情熱に陰を落とすことはないのだろう。昨夜のことをまるで忘れたかのように練習に励み、日も段々と落ちて扉の外がうす暗くなってきた今は、植草とのパスの細かい合わせ方を熱心に確認している。ふたりは基本的に相性はいいのだが、足が速い越野と慎重な植草とで、オフェンスの際のパスのタイミングが合わないことが往々にしてあるのだ。
「越野へのパスは、気持ち半歩前だよな」
仙道はタオルを首にかけたまま、越野の背から二人の話に加わった。振り向いた越野と目が合ったが、その視線は特に意味を持たない。越野は二、三度頷いて、植草に笑いかけた。
「ああ。さっきのよりもちっと速くても、多分追いつけっと思う」
「そっか。じゃ、思い切っていっちゃうよ」
「おう」
そう言って右手で植草の背をぽん、と叩くと、越野はそのまま体育館から出て行った。近くの水道で顔を洗いに行ったのだろうと、仙道はその背中を追いかける。外に出ると、明るい体育館よりずっと空気が淀んでいた。雨が降る寸前で押しとどまっているような暗い空にふうと息をついて、辺りを見回す。練習ももう終わる頃だが、仙道は待ちきれずに越野を探した。
「越野」
ちょうど水道に向かう途中の越野が、仙道の言葉に振り向いた。
「何で追いかけてくんだよ」
「いや、何となく」
なんだそりゃ、と笑いながら、越野は足を止めずに水道に向かって、勢いよく水を出して手を洗う。いつもと同じ越野との掛け合いを確認すると、仙道は水道に寄りかかって越野を覗きこんだ。
「何だよ」
「…え、ああ、何となく…」
ぐっと睨む越野に、仙道はいそいそと背中を丸めて、頭を掻いた。無意識に追いかけてきてしまったが、これでは越野を心配していると言っているようなものではないかと、今ごろ気付いたのである。参ったな、と仙道は自分の行動に内心で独りごつ。越野は手を洗いながら、それを見て溜息をついた。呆れたというよりも、困っているような顔をしている。しばし無言が続いたが、気まずさから目線を下に落としていた仙道は、何気ない違和感をふと口に出した。
「越野さ、何で手洗ってんの?」
「…え」
「あれ、なにそれ」
越野の右手の人差し指の先に、微かに赤いものを見た気がして、仙道はその手をとった。爪でも割れたのかと思ったのだが、目の前に持ってきても、傷らしいものは見当たらない。というより、爪の間に血が詰まっているようだった。
「怪我した?」
「してねーよ。汚れてたから洗いに来ただけ、あっちいし」
その手を払うと、越野はめんどうくさそうに言って、今度はばしゃばしゃと顔を洗った。そうしていつものアディダスのタオルではなく汗臭いTシャツで顔を拭くと、さっさと体育館に歩いて行く。仙道は何も言わずに、その背中を眺めた。ずんずんと歩いていた歩調が一瞬遅くなり、ふいに止まる。振り向かずに、越野が口を開いた。
「…べつにさ」
「……」
「こんなこと当たり前だけど。遠慮とかする必要ねえから」
「……?」
「俺がこんなこと言う権利ねえんだけど…」
「こんなことって?」
「だからさ。奈緒と、お前の…」
「奈緒はお前に任せる、的な? ……それこそ勝手なんじゃねえ?」
仙道の意図的な嘲笑に振り向くと思った越野は、わずかにたじろぎはしたが、背中を向けたままそれを翻さなかった。
「…べつに勝手じゃねえよ。お前が彼氏なんだろうが」
「……」
仙道は押し黙った。無性に腹が立ったのだ。中学の頃から今までずっと、越野が奈緒を想い続けているのは分かっている。彼氏、なんていう言葉は、越野と奈緒が過ごしてきた時間に比べればとうてい軽い。思い出した時に会い、その場だけの睦言を交わして別れれば、あとに残るのは香水の匂いだけ、そんなことを奈緒とだけではなく、もうずっと続けてきた。けれども、自分にとっての他人はすべて、誰かにとっての大切な人なのだった。仙道は、奈緒の肩を掴んで揺らす越野の必死な表情や、小夜が越野のことを話すときの控えめで可憐な笑顔を思い出した。蚊帳の外だということには、とっくに気付いている。
仙道は思わず足を速めて、越野の右腕に手をかけた。
「……。何なんだよ」
越野はそれでも振り向かず、低い声で言った。足を止めることはできても、その手はすぐに振り払われる。
「奈緒のこと好きなら、越野が傍にいればいい」
「…ふざけんな、てめえが…」
「俺、奈緒とはもう別れるよ」
越野が初めて振り向いた。しばらく言葉が出ない様子で仙道をじっと見たが、すぐに訝しげに眉根を寄せる。
「…俺の──」
「ちげえよ。まあ…関係なくはねえけどな」
「……」
「俺じゃあ、たぶん奈緒に何もできねえし」
「んなことねえよ…」
「……する気もねえし」
「…でも」
「越野さ」
言葉を遮るように言い募れば、越野はこれから言われる台詞が分かっているかのように歯を噛み締めた。
「……。自分の大事な奴を、わざわざ誰かに譲る必要あんの?」
「……」
「ねえだろ。だからさあ、お前はお前の好きにやればいいんじゃねえ?」
仙道がそう言うと、越野は一度仙道を睨み付け、また踵を返して体育館の方を向いた。けれども、ぽそりと低く発された言葉は仙道の耳に届いていた。
「…そんな簡単じゃねんだよ」
仙道はいよいよ腹が立ったが、それを押し留めて口を閉ざす。怒りを覚えるのは久しぶりだったが、この苛立ちが正当性のあるものだと思うほど、仙道は子どもではなかった。しかし、自分の知ったような口ぶりと説教がたまらなく寒々しく思えるから、なおさら苛立ちが募るのだった。
それきり何も言わずに体育館へと歩き出した越野の背中から、仙道は静かに眼をそらす。そうして、ほの暗く曇った空を見上げた。夕方のはずなのに夜明けのようにも見える不思議な曇り空だが、あまり心地よい天気とは言えなかった。
さてどうしようか、と。ここ数日のあいだにすっかり狂った自分のペースを思い出すためという意もあって、仙道は大きく息をつく。吸い込んだ六月の空気は冷たい雨の予感を孕んでいて、その目的は果たせそうにもなかった。