アブソリュート・ブルー 4
『あら、うちから朝練に行けばいいじゃない。洗濯なんか、一人分も二人分も同じよ。ね?』という越野の母親の言葉に甘えて、その日仙道は北鎌倉の越野の自宅に泊まることになった。歩いて十分の近所に夫と住む碧は、夕食前に名残惜しそうに帰宅した。『子どもができたら、格好良くなるように彰って付けるわね!』なんて言っていた言葉が本当ならどうしようかと思いながら、仙道は越野母の見事な出来の手料理をご馳走になったのだった。夕食の席で仙道は越野家についての新しい情報を手に入れた。大阪に出張中だという父親がまさしく昌明と瓜二つであること、宏明が小学校時代はサッカーに夢中だったこと、また、碧が結婚するときに彼がちょっとべそをかいたこと。
「…もうやだ俺。喋りすぎ、うちの家族」
あー、と唸りながら、越野は何かを払拭するように枕に頭を埋めた。その姿に、濡れた頭をタオルでわしゃわしゃと掻き回しながら仙道は噴き出した。
「越野が相当なシスコンだってことは分かった」
「うーるーせー。十歳以上離れてりゃもう親だよ、親!」
「そうだよなあ、ひろちゃん」
「殺すぞテメエ」
越野がようやく枕と決別して、仙道を威嚇した。
「でも、お兄さんも優しそうだ。越野とは違うタイプだけど。越野が俺にあれこれ世話焼いてくれんのは、ある意味あの兄貴のおかげだったんだな」
仙道は、自分のために越野母が敷いてくれた布団にどさりと身体を預けて、目を閉じながら饒舌に言った。こんなふうに浮かれた気分になるのは、久しぶりのような気がした。釣りもだいぶ有意義な気分転換であるが、こんな非日常もたまには悪くない、と仙道は思う。
「優しいんだよな、基本的には…」
「え?」
「……優しいのが…あーと、空周りするっつーか、逆効果になるときって、ねえか?」
「うーん……」
仙道は閉じていた眼を開いて、ベッドの上の越野を見た。
「あー別にどうでもいいんだけど…」
眼が合うと越野はそう言って気まずそうにそれを逸らす。その視線の含みに、仙道はふと気付いた。なにか重要な類のこと──彼自身に関わること──を越野が話そうとしているのは明らかだった。生返事でそれを終わらせてはいけないという直感が働かないほど鈍くはない。仙道は小夜の言葉を思い出した。目の前に現れたものこそ、小夜の言っていた、『高くて厚い』それなのかもしれない。仙道は慌てて口を開いた。
「良かれと思ってしたことが、相手を逆に傷つける、とか?」
「──そう。それ」
「…お兄さんがそうなの?」
「いや…まあ、俺がそんなふうに思うのは、すげえ勝手かもしれねえんだけど…」
「うーん」
「しかも兄貴のことだから、ぶっちゃけ俺には関係ないんだけどさ。でも、なんつうか」
「うん」
「俺も口を出したくなる部分もあって……。あー、まあそれはどうでもいいんだけど」
「うん」
越野の迷うような物言いに、頭を傾げたり頷いたりしながらも、仙道はすでに何となく腑に落ちていた。
「なんつうか…ちょっと、ずるいんだよ。たぶん、相手も自分も、同じだけ可愛いんだと思う。そういうとこあるんだ、兄ちゃん。相手のため、とか言って自分のためだったり、…その逆とかも」
「それで恋愛相談に乗ってたんだ?」
「まあ」
「……。……でも、その兄ちゃんの恋愛の相手を、越野が好きになっちゃった?」
ぎくり、とあからさまにそんな顔をして、越野が仙道の方を向いた。仙道は今や、身を起こして越野の話を聞いていた。『話しすぎた』といった表情で自分を見る越野を見て、仙道は胸中で舌打ちをする。
「…越野さ。俺らって親友じゃねえのかよ。俺さ、フツーにもっとお前のこと、聞きたいんだけど」
夕食の席での話を思い出して、その後に、「お前から直接な」と仙道は付け足した。
「……」
仙道の言葉に越野は、まるで地球の反対側の外国人を相手にするような顔をして呆けた。
「なに?」
「…お前に親友って概念があったことに驚いた」
「……。いや、俺もびっくりしてるよ」
仙道は急速に恥ずかしくなって、どさりとまた布団に身を投げ出した。自分の口から出た思いがけない言葉に驚嘆していたが、それを振り切るようにまた起き上がる。越野と目が合うと、ふっと笑われた。
「…それで、」
越野が言いかけたとき、その枕元で、唐突に携帯電話がヴァイヴレイションを鳴らした。畳とその振動の不調和音が部屋に鈍く響く。
「それ電話だろ、出ろよ」
「んー」
ディスプレイは表側にもあるので、名前は越野にも見えてしまったようだ。越野は何でも無さそうに言ったのだが、瞬間、目を逸らしたのを見ていての生返事である。
「あほか。気遣うな、いまさら。出ろよ」
「…分かった」
仙道は携帯電話を掴んで、部屋を後にした。手のひらに伝わるヴァイヴのリズムが、どうしてか焦燥を誘った。後手に引き戸を閉め、廊下で電話の通話ボタンを押した。少し音量を押さえた声で応答する。
「…奈緒?」
『……うん、あたし……今、大丈夫かな』
仙道はすぐに異変に気付いた。けれども同時に、躊躇した。仙道は洞察力に優れているが、人との関係を保つ際に一番に優先するのは、意識的な無関心だった。むしろ、この年齢に似つかわしくない洞察眼を持っているのは、その目的をいつも頭の端に置いているからこそなのかもしれなかった。それは、まず相手の気質や彼らが置かれている状況を把握して、それから、無関心と言える程度の距離の取り方を考えるということだ。仙道は周りのことに無関心に見えるが、何も知らないわけではない。知っていて、距離を保っているのだ。無関心というポーズを周りに提示しておくのである。今や仙道は、その過ぎた「思慮分別」を、ごく自然に身につけてしまっていた。
だからこそ、電話口の奈緒の揺れに気付いても、一瞬戸惑ったのである。本来ならば、越野の家に泊まりに来ているという事実こそが、奈緒に示す最大のポーズになっただろう。それを一言口にすれば、電話の相手は簡単に、その身の内を自分に曝け出すのを止めることを仙道は分かっている。恋人同士と言われる関係でも、仙道と奈緒の距離はそのくらいに保たれていた。けれども今日は、背中に越野が確かに居る、その状況が仙道に新しい他の影響を与えていた。今までのような相手への洞察だけでは、どこか物足りなさが残る気がしたのだ。それは観客としてバスケットの試合を見ているときの物足りなさにも似ていた。ふいに浮かんだそんな奇妙な感覚が、仙道に口を開かせる。
「──何かあった?」
『……っ』
電話の先で、言葉に詰まる声が聞こえた。泣いてはいないようだったが、少なくとも仙道は、奈緒が心を乱している姿に初めて触れた。そうでなくとも、奈緒は仙道と同じくらい、自分の心情を吐露することがない。自分との違いは、それが意識的ではないことなのだと、仙道は越野の言葉で知っていた。
「……今どこに居る? 家、鎌倉だったよなあ。地元?」
「うん…」
「そうか。じゃあ…今から行くよ。ちょうど今、近くに居るんだ。歩いてく」
そう言うと、奈緒は途端に言い淀んだ。
「でも、朝練は…」
仙道は苦笑する。こんなふうに、努めて冷静に自分よりも相手の状況を優先してしまうということが、越野の言う「感情を外に出せない」という奈緒の気質なのだろう。
「…話聞いてる時間くらいはある」
そう言って簡単な待ち合わせをすると、仙道は静かに電話を切った。ここ越野の自宅は、横須賀線の北鎌倉の駅から、鎌倉街道を八幡宮の方面へ10分以上歩いたところにある。仙道は、昼間鎌倉で見た古道の地図を思い出した。街道から南へ折れれば、鎌倉駅まででも2キロ半といったところか。運動部に所属している高校男児にとっては、部活のランニングよりずっと容易い距離だった。今から少し出る、と言っても越野なら追求はしないだろう。仙道には、けれども、ずっと気にかけていたことがあった。
「…越野」
ガラガラと引き戸を開けながら名前を呼ぶと、越野は気を遣ってか、テレビをつけてそれを眺めていた。部屋に入ると、立ったまま仙道もそれに視線を移した。
「おー、終わったか」
「ああ…」
「……」
「奈緒からだった」
「だよな」
「…うん」
「……。なんて?」
その言葉にすぐに仙道が顔を向けると、越野はばつの悪そうな顔をしたあと、ちょっと笑った。そうして、越野にしては珍しく、困ったように眉尻を下げた顔をして言う。
「…やっぱ気になるよなあ」
仙道はというと、その言葉に僅かな含みを感じ取ってしまい、えもいわれぬ気持ちで苦笑したのだった。
*
「…やっぱ帰る」
「越野」
「いや、だってさ…」
越野が足を止めてごねた。対する仙道は歩く足を止めず、振り向きもせずに坂道をすたすたと上っていく。そうしてわざと溜息をついて、口を開いた。
「…気になるんだろ? だったら自分の目で見ればいいじゃねえか」
「あいつのこないだの態度見ただろうが。俺と会いたくねえんだよ」
「久しぶりだったからパニクって逃げただけかもしんねえじゃん。大体、越野が一方的に好きだっただけなんだろ? もともとすげえ仲良かったわけだし、そんなに嫌がるわけねえって」
少々強引だということは分かっていた。家を出るときは「この辺りを良く知らないから、案内して」などと最もらしいことを言ってきたが、もちろんそれだけで帰すつもりはない。奈緒と越野を引き合わせるなんて、いつもの仙道であればもっともナンセンスだと鼻で笑う所業である。だからこそ仙道は越野の方を向けなかった。
「…それ、は…」
越野がたどたどしく、言葉を言い淀む。それに乗じて、仙道はさらに言い募った。
「それにさ、自分の彼女に親友がずるずる片想いしてるなんて、正直嫌じゃねえ? 俺の気持ちも考えてよ」
「──」
仙道は言ってからまた、自分のキャラクターとのあまりのギャップに辟易した。さきほど再三思ったことだったが、こういう言葉は口をついて出てくるものなのだと、仙道は初めて知った。仙道のその言で打ちのめされたのだろう、うしろから観念したような越野の足音が聞こえてきた。仙道はその足音を聞いて自分も打ちのめされそうになりながら、後付けで様々なことを考える。馴染めはしないが、嘘を言ったわけではない。少なくとも、奈緒と越野をこのような中途半端な関係にしておくのは嫌だったのだ。できれば当事者としてその解決に関わるのが──面倒だという事実を除けば──もっとも納得できる事態だと思った。単純に言えば、興味があったのである。考えてみれば勝手な話だ、仙道はそう思い至る。現在はどうであれ、二人の過去には全く関係のない自分が、望まれてもいないのにこうしてしゃしゃり出ているのだから。
仙道は苦笑して、初めて後を振り向いた。そうして2メートル後方の越野に歩調を合わせて、肩を並べる。鎌倉街道を長福寺の角から右に折れて扇が谷を通り、今小路の方へ出るその山沿いの道はかなり暗いが、男子の、そこそこガタイも良いふたりには、特に気にならない。待ち合わせには一時間あるので、余裕で着きそうである。五月末の風は、まだうっすら水分の残る髪の毛にはまだまだ肌寒い。
仙道は隣の越野を見た。快活で晴朗な高校男児である越野は、高校生にしては曲がった考え方をする自分の、このどこか矛盾している行動を、何も不満には思わないのだろうか。仙道は理不尽にも、それを僅かに不満にさえ感じた。何か一言でも抗議の声をあげてくれればなどと、あまつさえそんなことまで仙道は考えた。当の越野は仙道のそんな変貌にも考えが及ばないくらい、頭の中がひとつのことで占められているのだろう。至極まともな結論ではあったが、仙道にとっては退屈だった。だからこそ、入り込みたいという物足りなさを覚えていたのだ。けれども仙道は、その先に関しては全く考えていなかった。
「あのさ…」
「ん?」
ふいに越野が口を開いた。山の辺の道はまだまだ伸びているらしいが、上り坂の頂点で先が見えなくなっている。その峠の方へ進むにつれ段々と道が極端に狭まってきて、仙道はまるで山肌や木々が自分に迫ってくるのではないかと思うほどだった。先ほど街道で越野に教えてもらった話だと、ここが亀ヶ谷切通しという古道なのだろう。生まれた頃からここで暮らしている越野は、きょろきょろする仙道をよそに、言葉を選ぶような口調で慎重に話し始めた。
「俺さ、こないだお前に言ったこと…。ちょっと、本当のことと違うんだ、スマン」
「え…?」
「こないだの、奈緒との話」
「ああ…」
「本当はさっき、部屋で言おうと思ったんだけどよ」
「ああ、」
「うん、奈緒からお前に電話来て、何か…ひよっちまって」
それを言うなら今も十分日和っているではないかと仙道は思ったが、それは口には出さずにいた。目が合うと、視線で話を促した。「言わなくてもいいよ」と、そんな常套文句が言えれば、どんなに自分のペースへ持って行けただろうかと、頭の端で考える。
「兄ちゃん…兄貴がさ、俺に奈緒のこと相談してたんだけど…俺は奈緒からも、色々聞いててさ。あいつの家の話とか、勿論兄貴のことも。…で、そんとき俺まだ中坊でガキだったし、奈緒が真剣に兄貴と恋愛してんの見てて、二人から相談受けて…何つうか、こいつら大人だ、何か『いいな』って…そういう憧れ、みたいな感じで、奈緒を…好きになったんだと思う」
「……憧れ」
「そう。だって俺ら、そんとき14,5だぜ? 相手のこと確かに好きだ、なんて言える根拠なんて、分かんねえよ…お前からしたら、すっげーあほくさいと思うけどよ」
「いや、そんなことはないけど」
仙道は真剣に言ったつもりだったが、越野は聞き流して続ける。本題はまだ先のようだった。
「まあでもさ、俺が奈緒のこと好きでも、ふたりはうまくいってたし。俺もさ、二人がうまくいってれば、それでよかったんだよ。半年くらい続いたのかな? 兄貴と奈緒は。……けど……中三の冬、受験のあたりからちょっとおかしくなりはじめて…兄貴がいきなり、奈緒をさ……振ったんだ。それであっという間に、茨城の大学に行っちまった」
「理由は?」
「知らねえ…大学院も、本当はこっちで決まってたんだぜ? なのに突然、筑波の院試に受かってるから、とか言って…。その頃はもう、兄貴から相談受けてなかったから、俺は全然訳分かんなくてさ。うまくいってるんだと思ってたから…蚊帳の外って感じで……だから、そんで俺…」
「……うん」
仙道は、僅かに越野の頬が紅潮するのを確かに見た。その表情を見て、訳も無く不安じみた心地がする。仙道は、急な下り坂になった道を歩く足をすこし速めた。
「…俺、悔しくてさあ。兄貴も何でそんなことすんだよって、奈緒も何で引き下がんだよって。何かしてやりたくて……。何だかわかんねえけど、少しでもなんかしてやりたくてさ……奈緒んとこ行ったんだよ。そしたら、あいつ、泣きもしねえし、怒りもしねえんだよ。ただ悲しそうにさ、『もういいんだ』ってそればっか、人形みてえに…だから」
「……」
「だから、俺さ、……」
そこで越野は、いよいよ言葉を詰まらせた。言おうとしても言いきれない態度に、仙道の頭に不穏な何かが巻き起こった。壁越しの敵を追い払うような感覚が過ぎる。そうでなければいい、と思った。だからこそ、言わなくてもいいよ、と今度こそ言いたかったけれど。
「──優しくしてあげたの? 奈緒に」
けれど口をついて出て来る言葉は、理想とは全く違うものなのだった。仙道は頭の中で、畜生、と思う。
「……、そうだ」
「………越野、おまえ、奈緒を抱いたんだ……?」
「……そうだよ」
皆まで言った最後の質問に、越野が頷くその瞬間まで、仙道はそれをとても信じられなかった。