アブソリュート・ブルー 2
日曜日は、神奈川の端の高校と、県予選前の最後の遠征試合だった。ゲームの後も練習があるが、今日は移動距離が長かったせいか、午後四時には練習が切り上げられた。そこから数人残って一時間ほど個人練習に励み、魚住と池上が帰りがけに「お先」と声をかけて行ったころ、最後まで残った仙道と越野も練習を終えることにした。
「あー、やべえ疲れた…」
荷物をぎゅうぎゅうに詰め込んだドラムバッグの上にどさりと腰を沈みこませて、越野が大きく息をつく。
「でも今日の試合、越野動き良かったじゃん。今年一番かも」
「まー、さすがに微調整の時期だからな。動けねえと困るって」
「その調子なら大丈夫だって」
「お前みたいに年中万全な奴に言われたくねー…」
そう言うと、「あー」と低いうめき声を出しながら眠そうに自分のひざに頭を埋める。毎度のことなので何も言わないが、越野は着替えの遅い仙道を待っているのだった。
「なあ越野、そんなに眠ィなら今日うち泊まる?」
「え? でも」
「いいよ。だって明日練習ねーし、洗濯も必要ねえだろ」
「前田は…」
「来ねえって」
「んー…、じゃあ泊まる…」
言いながらあくびをする越野が本当に今にも眠ってしまいそうで、仙道は慌てて脱いだTシャツをドラムバッグに詰め込んだ。
高校男児というのはおそらく人生の中で一番カロリーを消費し、またカロリーを摂取している時期なのかもしれない。仙道と越野は今日費やしたカロリーの分に十分に見合った量の栄養を摂り、あまつさえビールを一缶ずつ嗜んでいた。
「あー、何か酒飲むと逆に目が冴える…」
「ああ、これぐらいなら逆にそうだよな」
「お前ザルだよな、顔からして」
うはは、と越野が笑う。そう言う越野も家族中が酒豪で、彼もまた酒は強いはずなのだが、今日は疲れのせいか頬が軽く赤らんでいた。時計を見れば十二時を回っている。明日は練習がなくとも授業はあるのだった。
布団を敷いて電気を消しても、いつもならすぐに聞こえてくるはずの越野の寝息は聞こえなかった。そのかわりに、ベッドの横に敷いた布団の上でまるでアザラシのように寝返りを打つその衣擦れの音だけが何度も重なる。
「眠くねえの?」
「あ…ごめん、やっぱ目ぇ冴えた」
「俺も」
仙道は仰向けのままそう言って、天井をじっと見た。しばらくは寝れないと高をくくったのか、ぱかり、と携帯を開く音がする。
「メール?」
「ああ、兄貴。来週こっちに帰ってくるって」
「そうなんだ」
茨城の大学院に在籍する越野の兄を、一度だけ見たことがある。一年の盆に、帰省していた彼が越野を車で陵南高校まで送って来たときだった。門の前で車を降り一服しながら越野を見送っていたところを見ていたが、越野の外見とはあまり似ていなかったことだけは覚えている。思い出そうとしたが、結局ぼんやりとした人影が浮かんでくるだけだった。仕方なく、仙道は隣の越野を思い浮かべた。ブルガリの香りが未だ漂っている部屋で、こうして越野と並んで眠っているのが、どうしてか不思議だった。そうして、岡辺小夜を思い出す。透けそうに白い肌と、笑うと柳のように垂れる奥二重の目を持つ彼女は、越野にどのように話しかけていたんだっけ。仙道は目を閉じて思い浮かべようとしたが、どうしてか違和感を覚えてうまく出来なかった。仕方なく斜め下の越野にはじめて目を向けた。ちょうど目が合って、越野が口を開く。
「…明日ってどこ行くんだろうな」
「さあ…」
「つうか俺らが考えるべき?」
「いいんじゃねえ、ノリで。っていうか、越野何気に…」
「あ? 何?」
「…いや。遊びに行くのも久しぶりだよな」
「まあ、気分転換だな。…つーかお前さ、前田とは大丈夫なの?」
「そういうこと全然気にしないんだよ。興味ないんじゃねえかな」
「そんなことはねえだろうよ」
そう呟いて目を閉じた越野の頬に、カーテンの隙間から差した月明かりがちらちらと照っていた。仙道はそれをしばらく眺めていたが、いつの間にか眠ってしまっていた。
「次カラオケね!」
アイスティの蓋やハンバーガーの包装紙を几帳面に分別してゴミ箱に入れながら、あかりがそう言った。小夜が笑いながら「わーい」と声を上げる。仙道が昨晩越野に言った通りに、今日の放課後の予定は女子二人がしっかりと心積もりしてくれているようだ。自分はデートのプランを考えたことなんてあっただろうか、そんなことを考えながら仙道はとりあえず三人について行く。見ると、あかりと越野が何か楽しそうに話しているが、小夜はただ笑っているだけのようだった。そのうち、小夜がくるりと振り返って、足を遅らせて仙道と並んだ。
「仙道君、カラオケ大丈夫だよね?」
「ん、全然いんだけど…いいの?」
「ん?」
「越野と喋れてなくね?」
「……」
小夜は押し黙って少しうつむいた。前を行く越野は、いつもの調子で楽しそうにあかりと喋っている。
「…あかり、すごく気をつかってくれてるんだけどね…」
「はは。だろうな」
「うん…話題ふってくれたり」
「さっきもマックの注文、二人に押し付けてたしな」
仙道がそうおどけたように言うと、ふふ、と小夜が笑った。小夜は小柄なので、いつも隣にいる越野より、顔がさらに頭ひとつぶん下にある。その肩が、溜息ですこし揺れた。
「……何だかね、喋れないっていうか」
「ん?」
「話すことが、ないのかも…」
「……やっぱり合わねえかなあ、みたいな?」
仙道がそう問うと、小夜はまた少し押し黙った。「思っていたのとは違った」、女の子がよく言うようなそんな台詞を岡辺もまた口にするのだろうか。そう口にしたら、自分はどうするのだろうか。そう仙道はぼんやりと考える。上から見た小夜の睫毛は、薄くて長く、春の陽光に少し透けていた。
「ううん…。話したいことはいっぱいあるのに…話せないんだ」
「話せない?」
「顔見て笑ってるだけで、精一杯、かな。……だめだ、好きすぎる…」
そう言うと小夜の顔が茹で上がったように赤くなる。そうして仙道を見て、両頬を手のひらで押さえて恥ずかしそうに笑った。仙道はひとつ息をついて、肩をすくめる。可愛いと思うのは二度目だった。
カラオケを終えて、ファミレスで夕食をとりながら話しているうちに気付けば九時を回っていた。朝練がある身で夜更かしをするのは自殺行為なので、自然にお開きになる。四人とも藤沢からの帰り道は違うので、そこで解散となった。
「あ、やべ」
二人と別れた後、仕事帰りのサラリーマンが行き交う駅構内だというのに、ふいに越野が立ち止まる。
「ジャージの上!お前んちに忘れた…」
「あー。風呂あがりに着てたな」
「そう。寝るときに脱いで、入れんの忘れてた…」
「明日持ってこうか?」
「…いや、つーかお前ぜってえ忘れるからよ。めんどくせえけど今取りに行くわ」
持ってくる、と言って仙道が持って来たためしはほとんど皆無だった。それを十分知っている越野は、めんどくせえ、とまたぼやきながらさっさと江ノ電に乗り込んだ。トロッコのように小さな電車に乗って何を言うともなく見慣れた陵南高校前で降りる。もうすっかり空は黒く、海風は冬のそれよりも春めいて、少し湿っていた。
「てかさ、今日思ったんだけど」
仙道のマンションが見えてくる頃、やや早足で歩きながら越野が口を開く。仙道は「んー?」と間延びした声で答えた。
「小夜って絶対仙道のこと好きだよな」
「え?」
越野の口から出るには少し意外な言葉だったので、仙道は少し驚いてその顔を見た。
「やべえじゃん、彼女いること知ってんのかな」
「や…岡辺は違うと思うけどなあ」
「いやいや! 絶対そうだって!」
「…ふうん」
越野がひひひ、と笑って茶化す。自覚がまるで無いのだろうが、軽口のようにそう言う越野に仙道は僅かに苛立ちを覚えた。ふいと目線を逸らして、しばらく無言のまま歩く。そのまま、最後の角を曲がったとき、向こうから歩いてきた人影と一瞬かち合った。その姿を見とめて、仙道は思わず声をかける。
「あれ、奈緒?」
「…!」
「部屋来てたんだ」
まさしく仙道のマンションの方から歩いてきた前田奈緒は、二人の顔を見ると目を見開いて、持っていた携帯電話を取り落とした。ブルガリのリングのついた革のストラップごと、コンクリートにぶつかって軽く音を立てる。
「どうした?」
仙道は言いながらその携帯電話を拾おうと腰を下ろしかけたが、先に伸びたのは越野の腕だった。奈緒はその瞬間に顔を歪めると、越野から携帯電話を乱暴に受け取ったが早いか、二人の間をするりと抜けて唐突に走り出す。すれ違ったとき、やはり青いパフュームが香った。
「奈──」
「奈緒!」
耳に大きく響いたのは自分の声ではなかった。越野はそう呼ぶと、仙道をちらとも見ずに奈緒を追って走り出そうとする。その瞬間、自分の手が覚えずに越野の腕を掴んだ。
「越野!」
越野は気付いたように立ち止まり、仙道を振り向く。眼が確かに揺れていた。
「悪ィ!」
一度きりそう言うと、仙道の手を払って駆け出した。公園の街灯の下に越野の背中が消えるのを、仙道はじっと見つめて溜息をつく。奈緒が携帯を越野から受け取るとき、彼女の指先が細かく震えているのを、仙道は確かに見ていたのだった。
*
ひとつあくびをして、仙道はグレイのTシャツを被ってジャージを羽織った。あまり気に入っていないTシャツだったが、昨夜は洗濯を忘れて寝てしまったので仕方がない。早朝だと言うのに春の空気は随分暖かく、ジャージは要らないくらいだった。朝練の開始時間を15分も過ぎているので部室には誰も居ないが、仙道は特に急ぐこともなくロッカーの扉をゆっくり閉めた。
奈緒、と呼んでいた。名前を呼び、逃げる彼女の後を走って追いかけた。それが意味することは言わずとも分かるが、越野はそれを意図的に言わなかったのだった。
『つーかお前さ、前田とは大丈夫なの?』
『そういうこと全然気にしないんだよ。興味ないんじゃねえかな』
『そんなことはねえだろうよ』
ちらちらと動く月の影を思い出した。仙道の家に泊まったその夜そう言ったとき、越野は目を瞑っていたから、その表情は分からない。しかし過去に彼女と何かあったのならば、奈緒のことを知ったように話す自分に、内心腹を立てていたのかもしれない──そこまで考えて、仙道はふと息をついた。どちらにしろ、何も知らなかった自分には関係のないことだった。元来、人の内面やプライベートな問題に立ち入ることを苦手としている仙道である。それが過去の話なら尚更だった。奈緒を気に入っていたのも、互いの交友関係に口を出さないという暗黙の了解が成り立つ相手だったからなのだ。
奈緒の、感情のないドール・フェイスを思い出す。昨夜は、けれども、顔をひどく歪ませていた。まるで奈緒の吸う細長いタバコの先に灯る火のように、瞳がゆうらと揺れていた。
「”青いふりして、本当は赤い”…」
仙道は呟くと、部室のドアを開ける。頭の中の奈緒の白い無表情が越野のそれに変わったところで、白い光がぼんやりと瞼を照らした。
ジャージ、と越野が呟いたのを一瞬認識できず、「え?」と聞き返した。数秒の後にそれが昨日持ち帰り損なった越野のジャージだと気付いて、ああ、と間延びした声を出した。今日は苦手な文型科目が続いていたので、授業中にずいぶんと寝てしまい、気付けばもう昼休みになっていた。朝練中は越野と話す機会も無く、クラスが離れているため、余程の用事がない限りは休み時間に会うことはない。昼休みになると、越野とあかりが二人で仙道と小夜のクラスにやって来るのが常だった。越野は仙道の机とすぐ前のそれを合わせて、弁当を開け始める。教室は明るく、開け放した窓から爽やかな風が入り込んでカーテンをふわりとめくっていた。
「二人は?」
「お茶買いに行った。仙道寝てたから、お前のぶんの昼メシも買ってきてやるってさ」
「あ、まじで…」
言葉が続かず、仙道も越野も押し黙ってしまう。数秒の沈黙がやけに重く、仙道は肩をすくめるともう一度口を開いた。
「つか…悪い、ジャージ忘れちまった」
「やっぱりな」
そう言った越野が仙道を見てすこし笑ったので、仙道はほっとした。同時に、安堵する自分を腹立たしくも思う複雑な気分だったが、それを越野にぶつける気は無かった。
「…明日、持ってくるよ」
「……」
越野が何かを言おうとして口を開きかけた。そのとき丁度、教室の喧騒に紛れてあかりと小夜の声が教壇の方の入り口から聞こえてきた。仙道はそれを見とめて、右手を軽く振った。
「仙道君、焼きそばパンとめんたいとピザのやつで良かった? しょっぱいのが好きだったよね?」
小夜が、両手いっぱいのパンを机に並べながら、首を傾げて心配そうに仙道を見る。
「お、好き好き。ありがとな」
「買ってきてあげたんだからちゃんと全部食べるんだよー?」
「分かってるって」
あかりが見下ろして言うのに笑いながら答えながら、仙道はちらと向かいの越野を見た。越野は先ほどの話題など忘れたかのように、あかりと小夜の机を繋げるのを手伝っている。先ほどは安堵を感じたように思ったが、それが本当に安堵なのか仙道は分からなくなっていた。
「仙道君」
部活へ行こうと教室から出かけたとき、小夜が青い通学バッグを肩にかけながら机の間をすり抜けて小走りで近づいてきた。
「送ってってもいい?」
見上げて控えめに笑う小夜に、仙道も頷いて笑みを返した。越野がこの時間に迎えに来ていないということは、掃除場所から直接練習に行ったのだろう。廊下を歩きながら、完全に散ってしまった中庭の桜の木が窓から見えた。
「さっきさ、どうかしたの…?」
「え?」
「なんか、二人で真剣な顔してたから…。昼休み」
「ああ。……部活のこと話してたんだよ」
「そっか」
「どうかした?」
「あ…」
「何か病んでる?」
「……大丈夫だよ」
小夜がまたにこりと笑った。気にしないで、という意味の笑顔に見えるが、そこに幾許かの心もと無さも伺い知れた。笑うと眉尻がすこし垂れるその笑顔に、仙道は何だか懐かしいような慕わしさを感じている。
「あー…、10分付き合ってもらえねえ?」
「え?」
「部活の前に、あそこでジュース飲んでく」
言いながら右手の親指で、見えてきた購買前の自販機を指した。小夜がほっとしたように笑って息をついた。
陵南高校に食堂はないが、購買前にはランチルームと称したオープンスペースがあり、ちょっとしたカフェのような仕様になっている。その角に座って、仙道はコーヒーの缶を開けた。小夜もミルクティを一口飲んで、少し俯く。
「元気ないな」
「そんなことないよ」
「あれから越野と話せた?」
「……ううん」
俯いたままちょっと笑って、小夜はまたミルクティをごくんと飲んだ。そうしてひとつ息をついて話を続ける。
「越野君って、二枚の壁がある」
「…二枚の壁?」
「うん。一枚目はとっても薄いのに、二枚目はすっごく厚くて、高いの。要塞みたい」
「要塞…」
「…何を守ってるのかな…」
「……」
小夜の言葉に、仙道は思わず昨夜の越野を思い浮かべた。腕をとったとき、振り向いた越野の切実な表情。思い出せ得る限り、越野は初めて見る顔をしていた。今まで自分と越野の関係が部活一辺倒で繋がれていたせいか、仙道は越野を恋愛と結びつけたことがなかった。小夜と越野が「そう」なることを考えたときに上手く思い浮かべられず、それどころか違和感を覚えたのはそのせいかと仙道は少し納得した。
越野もかつて恋愛をした可能性はあるのだ、そう考えたとき、あの夜振り払われた腕の感触がふいに蘇った。テーブルの下で、二、三度手を握っては開く。それでも離れない感触に嫌気が差して、仙道は払うように口を開いた。
「岡辺はいつから好きなの?越野のこと」
「え?」
「聞いたらまずいかな」
「ううん、大丈夫だよ。…一年生のね、秋かなあ」
小夜は、オープンスペースをより開放的にしている窓の向こうを眺めながら、笑顔のまま話し始めた。
「あたし、去年の夏休みにね。中2の初めから付き合ってた幼馴染にさ、ふられちゃって…もうね、幼稚園から好きだった人だから、新学期始まってもずーっと落ち込んでて」
「…全然気付かなかった」
「あかり以外で気付いたのは、越野君だけなんだよ」
そう言いながら、小夜は眉毛をちょっと下げて笑いながら仙道を見上げた。
「そのときに、越野君が言ってくれたんだ──恋が始まっただけ、よかったんだよって」
「え…」
「絶対に始まらない恋もあるから、例え終わっても、恋愛できてよかったねって」
「……」
越野がそんなことを言う姿が想像できずに、仙道は眉根を寄せる。小夜はそれを見てクスリと噴き出して、また続けた。
「意外だよね。でも私も、越野君がそんなこと考えてるなんて知らなかった。でもその言葉に、確かになあ、って思ったの。始まらない恋──例えば、絶対に叶わない恋をしたら、きっと、ふられるよりもっとつらい」
「…そう、かもな」
仙道はなんとなく、奈緒と越野の揺れた瞳を思い出した。
「そのときにね、越野君のこともっと知りたいって思ったんだ。それが…初めかな」
「そっか…」
「そうなの」
あはは、と小夜が恥ずかしそうに笑って、ミルクティの缶を手のひらで持ち直した。仙道も曖昧に笑い返すものの、今の話が喉元あたりに鋲で留められたかのように引っかかって離れてくれなかった。それに気付いてか否か、小夜が心配そうに
「何か…ごめんね。親友のそういう話、あんまり聞きたくなかったかな」
と言うのを、そんなことないよ、とやんわりと否定する。それでも内心、小夜の言う通りなのかもしれないという考えが頭を過ぎった。自分の気質からいって、友人との付き合いは深い方ではない。しかし越野とのそれは「親友」という範疇に入るかもしれないという意識はあったので、その初めてのカテゴリーにどのような関係性が含まれるのかは仙道にとって未知だった。だから、越野の領域にどこまで立ち入っていいのか、この話を聞いた今戸惑っているのかもしれない。仙道はそんな考えに行き着いたが、それでもあまりしっくりとは来なかった。
「でも、私じゃ越野君のそういう壁、越えられないのかも」
隣で小さく小夜が言ったのを、仙道はぼんやり聞いていた。
県予選の直前だと言うのに練習に30分も遅刻したせいで、仙道はその日、茂一を派手に怒らせた。越野も例に漏れず仙道に対してやや冷ややかだったが、自主練の頃にはようやく機嫌がなおっていた。陵南の規定上では校舎外での部活終了時刻は19時30分だが、去年魚住と池上が頼み込み、トラブルを起こさないという条件でバスケットボール部にだけ特例としてプラス一時間の練習が許されている。練習後、自主的にトレーニングをする者は仙道と越野の他にも居たが、20時半まで粘るのは二人だけだった。
4時間弱の長い練習を終えて、二人で部室に戻る頃にはもう空は真っ暗だ。部室棟に急ぎながら、仙道は先ほどの小夜の話を思い出していた。昨晩の奈緒と越野のことについては、互いに全く触れてはいないが、昼休みの会話で越野が何か言いたそうにしていたことを仙道は知っていた。しかしその話題に自分から触れるのも躊躇われ、全く別のことをあえて口にした。
「ジャージ、忘れねえようにする」
「ああ…」
あー、と、そう曖昧な声を出して、珍しく越野が応答に困っていた。竹を割ったようにはっきりとした江戸っ子気質の越野にはあまり見られないリアクションに、仙道はすこし居心地が悪い思いがする。仕方なく無言で居ると、越野も同じような顔をして仙道の方を向いた。
「…やっぱ今日取りに行かしてもらっていい?」
やはり性分は性分で、事の顛末をつまびらかにしなければ越野の気が済まないのだろう。少なくとも奈緒が仙道の今の「彼女」である以上、越野にとって昨日の出来事は罪悪感を感じざるを得ないものだったのだということは容易に想像できる。これから申し開きでもするように、すっかり改まった顔をしている越野が可笑しくて、同時にどこか別人のような違和感を感じ、仙道は肩をすくめた。