アブソリュート・ブルー 1

 腕の中にでもすっぽりとおさまってしまいそうな細い肩が、細かく震えるのを見た。決して出張るタイプではない、けれど浮かんでくる顔はいつも笑顔で、クラスメイト達のぼんやりした記憶の中では珍しく、仙道は鮮やかにそれを思い出せるのだった。笑顔しか見たことがないからといって、その人間が笑顔以外の表情を持ち合わせていないわけではない。それでも仙道は、岡辺小夜がこんなふうに肩を震わせることを意外に思った。
「あかりにも言ったんだけどね。あのね、仙道君…」
 初春の柔らかな風が小夜の髪を揺らしていた。日が傾きかけて少し影をつくっている。バスケ部もそろそろ練習が始まっている頃だろう。
「あたし、こ、越野君が、ね…」
 頬から耳まで、よく言う林檎のように赤く赤く染まっていく。真っ白な肌だから余計目立つのだ。確か、と仙道は思う。確か、クラスメイトの冗談に身を捩らせて笑うときも、こんな赤い頬をしていたっけ。垂れ気味の奥二重の目を細めて、顎を突き出して笑う仕草が印象的だった。
「…どっか、行く?」
「え…?」
「いや、どっか遊びに。越野と、岡辺で…」
 ぼ、と音が立ったように顔全体を燃え咲かせて、小夜が首を振った。同時に右手をぶんぶんと胸の前で左右に動かしている。ぱくぱくと口だけを動かしているのを見て、仙道はふっと噴き出した。
「わ、笑わないでよ…!」
「ごめんね」
 ようやっと声の出た小夜がちょっと口を尖らせて、けれどまた恥ずかしそうに口を開いた。
「あの…、四人で…は?」
「四人?」
「そう、あの、越野君と仙道君と、あかりと、…あたし」
「ああ。いいよ」
「…!」
 顔は赤いままだったが、今度は眼を細めて流れるように笑う。見慣れたものとはほんの少し違う笑顔。その笑顔に仙道は確かに、可愛い、とそう思った。

「あ、越野さ、一緒帰ろ」
 部室の机で日誌を付ける越野に、ロッカーを閉めながら話しかけた。越野はくるり、とペンを回して、
「いいけど。どうしたんだよ」
 と、仙道の方を向いた。
「あ? 何が?」
「ちゃんと練習に来たじゃねーか」
「しかも五分前に?」
「ぶ。そう」
 顔で笑いながら越野がまた日誌に顔を向けた。越野の機嫌が良いことに仙道は内心ほっとする。自分が練習に派手に遅刻して来た日であれば、なかなかこのようには行かないのだ。仙道がドラムバッグに荷物を仕舞い終わった頃に、よし、と越野が息をついて立ち上がった。
「あれ。それ」
「ああ、あかりに貰った。可愛いだろ」
 越野が背負ったドラムバッグのファスナーに、バドミントンのシャトルのチャームがついていた。本物の半分くらいの羽根はころころと仙道の手のひらの上で転がった。
「可愛いけど。ふつうバスケのやつ付けねえ?」
「いいじゃねえかよ。そっちはどうせ、いつもこん中入ってんだしさ」
「まあ今更だよな」
「そう。あかりもバド漬けで、いい加減ハネには飽き飽きだってさ」
 ははは、と笑って越野は部室の鍵をかちゃりと締めた。越野は女子ともよく話す方だ。姉も居るせいか、女子の扱いには慣れているような素振りも見せる。バドミントン部エースの瀬名あかりとは同じ中学で、クラスも同じである。一年生のときにあかりと同じクラスだった小夜が、その頃からよく一緒に居た越野に恋したのも頷けることだった。
「…あかりちゃんと仲いいよな」
「ああ、まあ…何つーか…」
「え? あれ、付き合ってるとかじゃねえよな?」
 越野が変な様子で頭をかいたので、仙道は越野を覗きこむ。越野はその言葉にぎょっとしたのか、慌てて首と手を振った。仙道はまた噴き出したように笑う。
「なんだよ?」
「いや何でもね…付き合ってはねえんだ?」
「全っ然。付き合うとかそういうのとは違うって。妹…でもねえけど、まあ、親友?」
「親友か」
「だな」
「お前こそ前田はどうしたんだよ」
「前田?」
「前田奈緒。お前…彼女だろーが」
「ああ、奈緒。昨日うちに来た」
「ふうん。仲いいじゃん」
 興味なさそうに越野がそう呟く頃には、正門を通り抜けていた。越野はドラムバッグと小さなシャトルを揺らしながら歩く。江ノ電の灯りがちらちらと遠く見えた。あと五分すれば、もう自分はマンションの自室に戻っている。
「あー…、そうだ越野。あのさ」
「ん?」
「月曜さ、練習休みだろ。放課後遊びに行かね?」
「いいけど、なにすんの? つーか前田と遊ばなくていいのかよ?」
「いや奈緒じゃなくてさ、えーと。俺らとあと、女子二人なんだけど…」
「え。…誰?」
「あかりちゃんと、岡辺」
「あかりと小夜?」
「そう」
「へえ。まあ全然いいけど…」
 越野が不審そうな顔で見るので、仙道は少し焦る。一年生の頃は練習がハードで、特に越野はそれどころではないという感じであったが、二年になって一ヶ月余り、練習内容にも多少の変化があり、少し余裕も出てきたといったところである。世間一般の高校男子がそうであるように、遊びに誘っても不自然ではないはずだ。
「いや、なんかな。仲いいし、どうせなら皆で外で遊ぼう、みたいな感じじゃねえ?」
「ふうん…まあ、そうだよな。俺は大丈夫だけど。お前はいいわけ?」
「いいよ。奈緒とは特に約束してない」
 というか、練習休みだって言ってない。それは言葉にしなかった。あっそ、とまた越野が言った。そして、楽しみだなー、とひとつ伸びをする。うん、と言いながら仙道は小夜を思い出した。通った鼻筋や細い肩を思い出そうとするのだが、結局浮かぶのは笑顔なのだった。



 *



 間延びした大きな声が体育館に響いた。隣で練習しているバドミントン部の休憩とバスケ部の休憩が重なったようで、座って休んでいた仙道を呼ぶ瀬名あかりの声だった。二つの領域を分かつ網のセパレーションの近くで、あかりは無邪気に仙道に手を振った。
「おつかれー!頑張ってんね」
「県予選近いからなあ」
「そだよね。半分使っちゃってごめんね」
「そういえば、バド部がこっち使うって珍しいよな?」
「うちの部長も負けちゃってさあ」
 そう言って笑いながらあかりは右手をジャンケンの形にして、左手のタオルで首の汗を拭いた。バドミントンは存外に動きの激しいスポーツで、バスケットと同様に無酸素運動に近い。その中でもあかりは敏捷で柔らかな動きと強烈なスマッシュを得意とするエースプレイヤーである。
「さっきの、すごかったな」
「え?」
「スマッシュっつうの? あんなに速いのに、ラインギリギリで急に落ちた」
「やだな、見てたんだ」
 あははは、と口を大きく開けてあかりが快活に笑う。背はすらりと高く、その目は化粧をしなくても大きく黒目がちなのが印象的である。利発そうな見た目に似つかわしく、気持ちのいい話し方をする人だ。ばし、と右手で仙道を叩くその仕草は、どうやら癖のようである。自分に対してこのように接する女子は少ないなあ、と、仙道はそんなことをふと思う。
「あれはあたし流のドロップだよ。えと、何ていうのかな、スマッシュの途中で手の角度を変えて、こう、当たる瞬間に力をふっと抜くの。結構ね、シャトルの落とし方研究したんだよ」
 こうね、とあかりは手首を上に上げて二、三度動かした。そのうちふと気付いたように、
「あ」
 とひとつ漏らして、仙道の顔を仰いだ。仙道との距離を少し縮め、よく通る声を知ってか、そのヴォリュームを小さくする。
「そうそう」
「ん?」
「越野誘ってくれたんだってね? ありがと」
「ああ、大丈夫」
「本当はあたしが誘えば簡単なんだけどね…それだと何か、みえみえでしょ?」
「ああ、かもなぁ…ていうか」
「んー?」
「岡辺は、いつから…そうなの?」
 聞こえていないといっても、部活の面々の前で「好き」というフレーズを使うのが躊躇われて言葉を濁した。
「ああ、前にね、」
「仙道!」
 仙道の後ろから越野の声がして、あかりはぱっと目をそちらに向けた。そして越野にもにこりと笑って「おつかれ!」と元の透き通った声で言う。
「おつかれさん。仙道ほら、茂一呼んでっぞ」
 見ると、体育館の端で田岡と池上が手招きをしていた。
「あ、ほんとだ。んじゃな、あかりちゃん」
 うん、とあかりが言って手を振った。
「ありがとね!」
 そう付け加えて、またにっこりと笑った。水の流れるようにさらりとした小夜のそれとは違って、華やかな、花のような笑顔だった。

 高校一年生の頃、仙道と越野は同じクラスだった。そのために、毎度毎度のらりくらりと練習に遅刻する仙道を、耳を引っ張ってでも連行する役目を越野が田岡から仰せつかったのだった。そのうち、週に何度か越野と仲の良いあかりが小夜を連れて来て、昼休みに四人で一緒に食事をとるようになった。
 仙道にとって高校生活はバスケ部の練習とほぼ同義であったが、けれども、それ以外の記憶がまるでないわけではない。今のところそのほとんどにこの三人が関わっていた。
 仙道の生活を形成しているものが他にあるとすれば、一年生のはじめから何人か様変わりしている恋人の存在だ。仙道は自分が一途だとは思ってはいなかったが、特定の彼女と付き合っている期間に浮気をしたいとも思わなかった。練習で年中疲弊している身で、浮気性を発揮する体力など残っていないからだ。恋愛関係で面倒を起こしたくない、というのも理由のひとつだった。中学時代、それで何度かもめたことがあるからだ。独立独歩の仙道でも、体育館に元恋人が乗り込んで来た日には、さすがに舌を巻いた。
 前田奈緒というのが、今の仙道の彼女の名前だった。前の彼女と違って、仙道の交友関係には全く興味を示さないところが気に入っていた。それと同様、前田、と越野がその苗字を知っていたことに内心驚いたほど、仙道も奈緒のことをほとんど知らなかった。
「もしもし」
『あ、彰。今から行ってもいい?』
「ああ、いいよ」
 越野と別れてマンションのエントランスまで来たとき、奈緒からの電話が鳴った。その15分後に、奈緒がブルガリのパフュームを漂わせてやってきた。明るいキャラメル色の髪にアーキテックな巻き髪を揺らせて、シャネルのネックレスがちかちかと胸元で光っていた。
「もう五月なのに、夜はちょっと寒いね」
「そうだな」
 人形みたいに完璧に整った顔に、しかし無表情で、奈緒は仙道の後から部屋に上がる。すとん、と置かれたクッションに大人しくおさまった。家に来る時は必ず事前に連絡をする気遣いなど、恋人然を決してすることのないこの奈緒の態度に、仙道は好感を覚える。ぼうっとしているわけでもないが、奈緒の綺麗な眼はいつも何処ともつかない場所を眺めていて、それにどこか安心しているのかもしれない。
「いいよな、これ」
「え?」
「奈緒のこの香り。なんての?」
「珍しいね、質問なんて」
「そうかもな」
「”アブソリュート・ブルー”」
「…へえ」
「海に火を灯したみたいな香りが好き。水面がゆらゆら光って、見つめると落ちちゃいそうな」
「誘うような?」
「…そう。青いふりして、本当は赤いの」
 仙道はベッドに腰をかけ、奈緒の髪を撫でながら唇を寄せた。
「そんな感じだ」