The Changing Same 5
シュッと音を立ててゴールにボールが吸い込まれる。ナイッシュ、と後ろから声がかけられる。ダン、ダンというボールの弾む音と、聞こえてくるのは中庭の蝉の声だ。振り向くとそこに見える、汗に貼り付いたTシャツと、仙道の笑顔。空は青く、海は蒼く。浮かぶ江ノ島はいつもそこにあって、それを見て笑い合う二人は幸せだった。……
その記憶は遠く遠く、もはや持ち主の手からも見捨てられ、今はどこかを切なげに彷徨っている。
*
目を覚ましたとき、仙道は居なかった。虚ろな意識で部屋を見回せば、タオルケットは肩まで掛けられてあり、昨夜散乱していた越野の服はひとつにまとまって部屋の隅にあった。時計を見ると、もう昼の一時を回っていた。越野はゆっくりと立ち上がり、のろのろと服を着る。身体が鉛のように重かった。着替えると、またベッドに腰をかけて、自分の首に手を当てた。その後、頬をそっと触った。昨夜ここに、仙道の涙が零れ落ちたのだ。
ピンポン、と出し抜けに来客のベルが鳴った。越野は弾かれたように顔を上げ、ばたばたと玄関に走る。仙道が、戻ってきたのかもしれない。そうに決まっている。もし仙道だったら、自分は──。
しかし、ドアを開けたとき目の前にあったのは、柏崎の笑顔だった。それを見た瞬間に、昨日の約束を完全に失念していたことを思い出す。
「……誰かを、待ってたんですか?」
柏崎がそう呟くのを、殆ど聞いていられなかった。抑えていた何かが、堰を切ったように流れ出した気がした。
「──っ…」
越野はその場に崩れるようにうずくまり、声を殺して泣いた。胸がどうしようもなく、ぎりぎりと痛む。或いは自責の念、或いは後悔かもしれなかった。抱えきれないほどの沢山の感情が自分のなかに埋まっているような気がする。けれども、そうやって泣きながらただ明確に浮かぶのは、昨日最後に見た仙道の悲痛な表情だった。
「…落ち着きました?」
コーヒーをそっと越野の前のテーブルに置いて、柏崎がそう言った。頷く越野を見るその顔は、いつもの笑顔だった。
「…みっともねぇとこ見せて、ごめん」
「いいんすよ、そんなん」
ソファに座る越野のそば、ベージュのラグの上に腰を下ろして、柏崎が下から越野の顔を覗きこむ。
「…何かあったんですか?」
「……」
「あんな風に俺と寝たのも、さっき泣いたのも……同じ理由?」
「……」
「その相手って、仙道彰、なんでしょう…?」
「……なあ、柏崎…」
あんなに涙を流したのに、頭の中はまったくクリアになってはいなかった。自分の気持ちが、仙道の気持ちが分からない。セックスでしか繋がっていないと思っていた仙道が、初めて涙を流した。全身を震わせ、わななかせて、幾筋もの涙を頬に滑らせて泣いていた。
「……人を想う気持ちって、変わっちまうのかな…」
「越野さん…」
「時間が経てば、変わっちまうのかな…」
ずっと変わらないと思っていた高校生の頃。毎日バスケに明け暮れて、日が沈むと仙道と抱き合った。気持ちが無くなることなんて、微塵も考えずに居られた日々が確かにあった。誰にも読まれることなく忘れ去られた本のように、しかし今では、記憶は固く閉じられたままだった。
「あいつは──、仙道はもう、俺に愛情なんて持ってないんだと思ってたんだ…」
柏崎が俯いた。けれど越野の言葉に真摯に耳を傾けようとする姿勢が、その表情に現れていた。
「俺は…疲れてた。あいつの女関係に嫉妬するのも、それが嫌で無感動になってく自分にも…。もう考えるのにも疲れちまって、俺を抱きだけに来る仙道との関係を……終わらせたかった」
しとしとと、外ではまだ雨が降っていた。風はなく、地面を撫でるように降る秋雨の、ほんの微かな音だけが聞こえてくる。
「だから昨日…俺が、終わらせたんだ…。別の男と寝たって、そうあいつに言って。……なのに」
「……」
「なのに…、あいつの最後の泣き顔が、ずっと頭から離れねえんだ…あいつが、仙道が俺に初めて見せたあの涙が、ずっと…っ」
「…越野さん…」
越野は無意識に自分の頬に触れた。そこには今や、自分の涙が伝っていた。涙腺が壊れたかのように、次から次へと溢れている。バスケの試合で負けたときだって、こんなに涙は出なかった。そうだ、10年前に、湘北に負けて、全国への夢が断たれたときさえも。
『ごめん、仙道、ごめん…』
『…どうして、謝るの』
『俺…っ、ガードなのに…お前の力を生かしてやれなかった…っ』
『──越野のせいじゃない』
『仙道…』
『次は、一緒に行こう。俺、越野と一緒に全国に行きたいんだ』
「──っ……」
記憶の中の仙道は、いつも自分に笑っていた。いつまでも一緒にと、そう言っていた。過去が現在に襲いかかる。綺麗な思い出を綺麗なまま、笑って思い出せないのはどうしてなのだろう。
「越野さん……眠りながら、言ってたんです」
涙を流し始めた越野を、静かに見つめながら柏崎がふいに言った。下を向いたまま、一言一言を噛み締めるように。
「……え…?」
「…『仙道』って。あの日の朝、確かにそう言ってました…」
「…夢に、見たんだ…」
その朝、幸せな夢を見た。慈しむように、自分の手に頬に触れる仙道の手を、まだ明確に思い出すことができる。それは、昔の夢だった。
「越野さん、泣いてた。寝ながら…涙流してたんです」
「……俺が…」
「越野さん……仙道サンの前で泣いたこと、ありますか…?」
「……」
「さっき泣いたみたいに、仙道サンに感情をぶつけたこと、あるんすか…?」
「感情を、ぶつける…?」
「そう。…昨日仙道サンが涙を流したみたいに、そのままの感情を」
「──そんなこと、できるわけないだろ…!」
できる訳がなかった。しないと決めたのだ。──仙道に、捨てられないために。
越野が声を荒げると、柏崎が顔を上げた。膝を床についてソファに近づき、越野の腕をぐっと強く握って越野を見仰いだ。越野は息を飲んで、柏崎を見つめた。
「変わるものもあります。でも、変わらない気持ちもあるんです」
「……」
「逃げないで下さい。逃げないで、自分の目で相手に確かめて来てください」
「……確かめる…?」
「だって……恋人って、そういうもんでしょ?」
力強い目が、その瞬間、くしゃりと笑って細くなった。柏崎の言葉が、頭の中で何度も何度も反芻される。それはひどく衝撃的であり、逆にごく自然なような気もした。初めて見るのに懐かしい光景のような、そんな感情が胸を埋めていく。
「恋人……」
「うん」
「──恋人」
そう、言葉をなぞるように、自分の口が確かに動いた。あんなにも拒んだその「恋人」という一言が、今はごく自然な言葉のような気がした。越野の眼から、静かに涙がぼろぼろと溢れた。頭をガンと殴られたような衝撃のあと、撫でられるような優しさがある。流れるその涙を頬に受けながら、越野は言葉なくただ、ああ、と思う。ああなぜ、こんなにもとめどなく流れるのか、その理由を言葉にはできないけれど。それでもこの涙は、ただただ溢れていく。
──ああ、仙道は。仙道は、どんな形になっても越野の恋人だった。たとえあの頃のような、焦がれるほどの恋情や無邪気に互いを想い合える幼さを長いこと忘れてしまっていたとしても。
「柏崎……」
「…はい」
「……俺、あいつに伝えてねえこと、いっぱいある……」
「そうみたいっすね」
「……もう一度、仙道と話すよ……」
「…それでも玉砕してきたら、そのときは越野さんをまた口説きますから」
──ね、と、柏崎が、笑いながらひょいと肩をすくめた。越野はそれを見て、情けなさそうに泣き笑いの表情を浮かべた。
しばらくして、柏崎がすっと立ち上がった。日は落ちて、外は薄暗い。時間はもう夕方だった。
「帰ります」
そう言うと、柏崎はジャケットを羽織って早足で玄関に向かう。
「……おう」
「──あ、越野さん、一本だけ」
玄関へ向かう途中、寝室のドアの前で柏崎がちょっと立ち止まってふいに言った。
「ん?」
「……一本だけ、タバコ下さい」
「……」
「吸いたい、気分なんです」
声は掠れていたけれど、振り向いた柏崎は笑っていた。
分かった、と軽く頷いて言って寝室に入る。今柏崎の顔を見たら、悪いような気がした。サイドボードの上を見て、もう煙草が無かったことに気が付いた。越野が吸うのはいつも同じ銘柄のものなので、1カートンを購入している。サイドボードの一番上の引き出しに、それは入れてあった。何の疑問も無く、そこを開ける。
見慣れた煙草が並ぶその引き出しの中には、見たことのない4ッ折りの紙切れと──見覚えのある、金の指輪が置かれていた。胸騒ぎのようなものが胸をさっとよぎって、越野はその紙切れを急いで開けた。
「越野へ
ごめん。
乱暴なことをして、ごめん。
謝っても謝りきれないほど、越野に酷いことをしてしまった。
今とても、後悔しながらこの手紙を書いている。
本当にごめん。
いつからか、越野の気持ちが離れていたことに気付いてたよ。
俺と越野のいる場所は、高校や大学のときとは全然違ってしまって、
それでも俺は、お前を手放してやることができなかったんだ。
越野にあんなことをした今、こんなことを言っていいのか分からないけれど
俺は、越野に信じてほしかった。
欲張りな願いかもしれないけど、信じてほしかった。
俺が大切にしていたのは、昔からずっとお前一人だけだよ。
越野以外には、何も欲しくなんてないんだ。
越野に疑いの目で見られるのが怖くて、何も言えなかった。
臆病だった。
「信じてほしい」なんて人任せにしないで
俺が逃げずに気持ちを伝えていれば、みっともなくても「違うんだ」って弁解していれば、
もしかしたら、こんなことにはならなかったのかな。
越野が失くした指輪、俺の家で見つけたよ。
もう一度あのときみたいに渡して
一緒につけられればって思っていたけど、
その機会はもうないみたいだ。
好きだよ、越野。
ずっと好きだよ。
ごめんな。
長いあいだ、お前を離してやれなくて、ごめん。
俺はもう大丈夫だから、俺のことは忘れて、幸せな人生を歩んでほしい。
ずっと、越野の幸せを願っている。
仙道 彰」
*
仙道が居なくなって、五日経った。
あの日を過ぎて、仙道は月曜になっても所属しているプロバスケチームの練習に顔を出さなかった。火曜に封書で運営会社に退職届が、日本プロバスケットボール協会に引退届が送られたと報道されたときには、日本中に衝撃が走った。チームと協会の両者は話し合い、「今週中に本人が姿を現さなければ、届けを正式に受理する」というコメントを出したとニュースで聞いた。否定的な意見も、同情的な意見も、そのおのおのが日本中で飛び交った。もう木曜日になっていた。仙道は現れない。
越野は、柏崎が帰ったあとにすぐ仙道のマンションへ行った。しかし既にもぬけの殻で、仙道の姿は見られなかった。久しぶりに足を踏み入れたその部屋のリビングには、少しの家具と、ただバスケットボールだけが転がっていて。その中にぽつねんとテーブルに置いてあったアルバムからは、写真が一枚だけ抜き取られていた。そのページのその場所に貼られていた写真が、高校三年生のインターハイで全国へ進んだ試合の後の写真だったと思い出して、越野はまた少し泣いた。
越野は昨日の水曜日から会社に有給休暇を取り、その足で実家にも戻ってあらゆるところを探し回った。陵南高校や、公園や、海。けれどもそのどこにも仙道の姿は見当たらず、もしかしたら戻っているかもしれないという一縷の望みを胸に、越野は結局仙道のマンションにまた舞い戻ってきた。しかし期待は空しく、やはりその部屋に住人は居なかった。
一体どこに居るんだ、仙道──。
お前の大切にしていたバスケを、自ら手放して。
一体どこへ行くって言うんだ。
ガツン、と思い切り、仙道の部屋のマンションの壁を拳で打ちつけた。じんじんと骨に痛みが走る。もっともっと痛ければいいのに、と越野は何度も壁を叩く。
カサリ、と横で紙の擦れる音がした。見ると壁にかかっていたコルクボードが、衝撃でわずかに揺れていた。仙道はプロになっても予定をすぐに忘れてしまう癖が抜けなかったので、そのボードに一週間の予定を全てピンで留めるように、五年も前に越野が提案したものだった。もう一年以上もこのマンションに入っていなかったので、そのコルクボードがひどく懐かしいもののように思えた。
ふと、そのボードの一番左下に、小さな小さな紙切れが留めてあるのに気付く。近づいてよく見てみると、それは何かの切り抜きのようだった。カーテンを閉め切った薄暗い部屋のなか、ピンを外してその古びた紙切れを見る。それを一目見て、息が止まりそうになった。
「──ここ…だ……」
弾かれたように、越野は玄関に向かった。越野の手に握られていたのは、昔見た旅行雑誌の小さな切抜きだった。二人で行った伊豆の、あの海沿いの平和なペンションの写真が載っていた。