The Changing Same 6/エピローグ(完結)

 五日も続いた長雨が、ようやく止んだところだった。夕方の空気は秋めいて、車を降りれば、長袖のTシャツでも少し肌寒い風が吹いていた。実家から車を走らせて、伊豆まで来た。その位置や道を忘れるはずがない。越野自身が行きたいと言いだした場所なのだった。
 車を留めて少し歩くと、見覚えのある建物が眼に入った。平日のシーズンオフで、人は誰も居ない。このペンションは一戸一戸が離れていて、小ぶりな別荘のようになっている。自分達が泊まった建物があの日の姿そのままで、目の前にあった。もう七年も前のことだというのに、思い出そうとすれば記憶はこんなにもその門戸を開いてくれるのだ。しかし、もう夕暮れだというのに、そのペンションの明かりは点けられていなかった。
 少し焦りを覚えてあたりを見回すと、仙道の車が確かにあった。高級車の悪目立ちを恐れたのだろうか、専用の駐車場ではなくペンションの裏手に停めてある。シルバーの車体が夕日に照らされて、紅く光っていた。神に救われたような思いで、それを見つめる。
 ペンションの前で待つ気には、到底なれなかった。越野はばっとペンションの奥から伸びる山道を見る。あそこを上れば、眼前に海が広がっていた。夕日が奇跡みたいに美しい、黄金崎と呼ばれる岬だった。そこから見える海を見て感動し、別荘に欲しいと言ったのだった。
 考える余裕なんてなかった。一目散に走り出す。もつれる足も気にせずに、雨でぬかるんだ土を踏み締めて、力の限りその坂道を駆け上がる。そうして見えた先──海と海のあいだ、紅い景色に包まれるようにして、仙道はそこに居た。
「──っ、仙道ォっ!」
 息せき切って、絞り出すようにその名前を呼んだ。海に反射した夕日で、どこもかしこも紅色に光っている。越野の声に、仙道の肩が大きく揺れて。スローモーションのようにゆっくりと、越野を振り向いた。夕日が逆光になっていて、その表情が見えない。あの夜には見えなくていいと思ったその顔が、今はこの眼で見たくて仕方がなかった。越野はのきばうつように、仙道へとまた走った。走って、ついに仙道に抱き付いた。
「こ、しの………」
 仙道の身体がぐらりと揺れて後ろに倒れた。そのまま、二人でその場に座り込む。越野は決して、抱き締めたその自分の腕を仙道から離しはしなかった。
「仙道、仙道…!」
「どうして……」
 見上げると、仙道が眼を見開いて、幻を見るような目で越野を見ていた。髪の毛はいつものように立ってはおらず、生えるままに下ろしてある。
「馬鹿野郎、お前言っただろうが…っ、俺にここ、買ってやるって」
「──…」
 一瞬まさかという顔をした仙道だが、その顔はすぐに表情を失くした。その瞳だけが、越野の首筋に視線を移し、その途端悲壮に歪んだ。
「越野──ごめん」
「…せん、」
「ごめん、ごめん…っ、俺あのとき…お前を、」
「仙道、」
「お前を、この手で──」
「──仙道!」
「っ、」
 色を失って取り乱す仙道の名前を呼んで、その両頬に、越野はそっと自らの両手を置いた。慈しむように。今でも夢に見るほどに、名前を呼んでしまうほどに嬉しかった、あの仙道の神聖な手振りのように。その左手の薬指には、あの金色の指輪があった。
「……謝らないでくれ。お願いだから、謝んな…っ」
「越野…っ」
 ただお互いをじっと見つめる。陰さえも、お互いの涙さえも、紅く鮮やかに光る。今や仙道の瞳は、しっかりと越野の視界のなかにあった。
 伝えたいことがあった。ぶつけたい感情が、確かにあった。
「仙道、俺……お前を信じられなかった…信じようとも、しなかったんだ」
「っ、…それは、俺が──」
「違う!俺だって──俺の方が、悪かったんだ…っ、心閉じて、考えることから逃げて、昔の綺麗な思い出も忘れようとしちまってた…っ」
 仙道は言葉なく、ただ食い入るように仙道を見つめる。その全身は、やはり小刻みに震えていた。越野も大きくしゃくり上げて、けれど、言葉を続けるのを止めなかった。
「馬鹿だ、俺……自分の気持ちさえ見失って、む、昔に囚われて…っ、」
「……しの」
「い、今の…、」
「越野」
「今のお前は、ここにちゃんと居たのに…!」
 それきり涙でとうとう何も言えず、眼を閉じて、ただただ、仙道の首にしがみ付いた。仙道も、う、と低く呻きながら越野をぎゅうと強く強く抱き締めた。
「あの手紙に──さよならだけは、書けなかった…っ」
 仙道が耳元で絞り出すように言った。涙で、最後の方は殆ど聞こえない。それでも、もっと聞いていたいと越野は思った。もっと声が聞きたい、もっと顔が見たい、もっともっと。
「──なあ仙道…っ、ずっと、ずっと一緒に居よう」
「…ずっと…?」
「そう、」
”死ぬまで”──。
 そう言ってやっとの思いで眼を開けば、眼前には、ただ紅く染まった海だけが大きく大きく広がっていた。宙に浮かんだままだった仙道との未来が、過去と一緒に、そこに見えたような気がした。




 *




 金曜日の夕方、仙道はチームと協会に姿を現し、深い謝罪と共に、出したふたつの届けを完全に撤回し、破棄した。越野もプロジェクトの途中で抜けたとあり、上司にこっぴどく叱られることになったが、柏崎がうまくカバーした分で何とか持ち直した。仙道は、チームと協会からは大目玉を喰らったが、謹慎などの処分も無く、その後はただ何事も無かったように黙々と練習に励む姿だけが見られた。メディアは「仙道彰の奇行」「スーパースターの横暴」、そんな調子であれこれと好き勝手に騒ぎ立てたが、数週間後、それらの中でも最大で最後のパニックがマスコミをひっくり返した。
 ──仙道が、男の恋人と養子縁組を結んだのだ。
 記者会見場に現れた仙道は、これまで10年に渡る仙道の女性関係に対してのマスコミ報道を全てきっぱりと否定し、その最後に、穏やかに、しかし堂々と言った。
「命と同じくらい彼が大事です。それ以外には、何も要らないくらい大切なんです。彼に比べたら、バスケなんて、ほんのちっぽけな存在なんだ」
 その言葉を裏で聞いていた越野は、会見場から飄々と戻った仙道に顔を真っ赤にして怒ったが、仙道は肩をすくめて穏やかに笑うだけだった。スーパースターがゲイだという告白を堂々としたのは日本では始めてということで、メディアはこぞって応援モードで仙道を持ち上げた。「マイノリティを越えたスター」「愛を守ったバスケの神様」そんな風に手の平を返してドラマティックに報道するマスコミに、越野は呆れて笑うしかなかった。仕事より恋人を取った仙道の態度が逆に人間らしいなどと世論に受け入れられた。また協会もバスケがいっそう注目を浴びたことに気を良くし、その年のリーグの標語には、「私達はセクシャルマイノリティを応援しています」と大きく銘打たれていた。そして仙道と越野の一件を機に、スポーツ界全体がそういったムードへ動き出したのだった。
 勿論いい面だけでは決してない。越野もメディアに顔が出たためにそのことで嫌がらせを受けるのは連日であったし、会社自体は対メディア政策で支援する姿勢をとっても、中の人間は、個人になればそう簡単に少数派を受け入れられるはずがない。しかしその逆風は、柏崎や山中、月原などの理解を得て解決することができた。近くにそんな友人が居れば、越野には十分だった。
 今二人の帰る場所は、同じマンションだ。殆ど物が置かれていなかった仙道の広い部屋に、家具が少しずつ増えていく。相変わらず白い壁で揺れるコルクボードの端には、あの切抜きが留められていた。


「…捨てんの?それ」
 皮のビジネスバッグのポケットの奥に転がっていたライターを、台所の燃えないゴミに捨てた所を仙道が笑いながら見ていた。越野はしまった、と思って仙道を振り向く。
「…ガ、ガスは出したぜ、ちゃんと」
 越野のあらぬ応答に、仙道はにやにやと笑う。それに耐えられなくなって、越野はついに声を上げた。
「…タバコはもう絶対やらねえ!」
 仙道が声を上げて笑った。そうして、
「じゃ、一生見張っててやるよ」
 と一句も違わず言ったので、越野もとうとう噴き出した。






 The changing same is...




 [end.]
 

 長編なのにザ・ベタ。ベタですみません。