The Changing Same 4

 午前中から雲に覆われていた空は、夜中になってしとしとと秋雨を降らせた。長雨になりそうだ、と越野はカーテンを開けて音を聞く。風呂上りの頭にタオルをかけて、ベッドに深く腰をかけた。サイドボードから、煙草を一本取る。その最後の一本に火を付けて、空き箱を手に取った。
『俺は煙草なんて吸わねえ、一生だ!』
『はは、そんなこと言って後悔するぞ』
『しねえったらしねえよ』
『じゃ、一生見張っててやるよ』……
 ──ガチャ、と玄関が開く音がした。びくりと震えた手の平は、煙草の空き箱を握りつぶしていた。それをゴミ箱に投げつける。しかしそれは、壁に当たって床にかさりと落ちただけだった。
 寝室のドアを静かに開ければ、仙道がびしょ濡れで立っていた。そこまで強い雨でもないのに、どのくらい外に居たのか、立てた髪はほとんど濡れて下がっていた。その眼に表情は無く、ただ越野を見ているだけだった。その濡れた頭に、越野は自分のタオルを乗せ掛ける。仙道何も言わず、少し下を向いた。タオルに隠れて、その表情は見えなくなる。
「……仙道」
「……」
「──俺、他の男と寝た」
「……そうか…」
 仙道はその一言以外、何の反応も示さなかった。怒りの言葉のひとつさえ吐かなかった。越野は仙道の声を、どうしてかその声を、久しぶりに聞いたような気がした。
「…終わりにしよう、仙道」
 仙道は何も言わない。怒りの言葉も、謝罪の言葉も、捨て台詞のようなもののひとつすら口にしようとはしない。
 それほどまでに、お前は俺に興味を失っていたのか。
 10年連れ添って、こんなあっけない終わり方なのか。
 怒られ、なじられることを自分は期待していたのだろうか。それとも引き止められることを望んでいたのだろうか。考えても分からなかったが、もう考えても意味がないことだけは分かっていた。
 ピンと張った静寂が切れたように──そのとき、バタンと大きな音がした。その音がドアの閉まる音だと気が付いたのは、仙道に引き寄せられてドアにぶつかった反動で、背中がひどく痺れたときだった。
「──っ…」
 何も言えないまま上げた顔に、仙道の口唇が噛み付いた。深く深く、痛いほどに強く唇が押しつけられていく。息も吸えないほどのキスに、越野の目尻に生理的な涙が浮かぶ。越野の頬を掴む仙道の手の平が、驚くほどキンと冷えていた。角度を変えては、一方的なキスが繰り返されていく。
 ようやっと仙道は唇を越野からゆっくり離すと、そのままその腕をぐいと引っ張って、その身体を乱暴にベッドに押し倒した。仙道の着ているシャツが、雨で身体に貼り付いている。仙道の大きな身体の下から、越野の白いタオルが床に落ちているのが見えた。部屋が暗くて、仙道の顔がよく見えない。──見えなくても、良かった。越野はゆっくりと眼を閉じた。


 *


「は、…あっ、あっ──」
 もう何時間が経っているのか、到底分からなかった。一体自分が何度果てたのかも、仙道が何度自分の中で熱を出したのかも覚えて居ない。あんなにも気持ちは冷え切っていたのに、身体は焼けるほど熱かった。
「も…、仙道ぉっ、──ア、ァッ…っ、」
 感覚もないほどに痺れているのに、どうしてまだ全身が震えるのだろう。越野は絶頂を迎えた後の白い意識の中でそんなことをぼんやり考えていた。背中には、汗で湿ったシーツの感触を感じる。首筋に仙道の頭が押し付けられるのを感じた。肩で息をしている越野の身体に、自分のものでない別の感覚が触れていた。感覚の先を辿ると、仙道の頭が見えた。越野の肩口にうずめたきり、仙道は顔を上げない。
「…仙道…?」
 震えていたのは、自分ではなく仙道だった。その肩が、頭が、全身が、越野の上で小刻みに震えている。
「仙道」
 ただ名前を呼ぶことしかできなかった。眼の前の光景に、自分の声も震えている。仙道が泣くのを、越野は初めて見たのだった。
「……お、俺、は…っ」
 仙道が、言いながらゆっくりと頭をもたげた。目は暗闇に慣れ、仙道の表情が見えるようになっていた。視界に入った仙道の頬から、涙がすうと流れ落ちる。今降っている秋雨のように、音もなくそれは零れ落ちていった。越野は呆けたようにそれを見ていた。
 ぐうっと、そのとき不意に強い圧迫感が越野を襲った。首が、仙道の両手の平によって強く強く締め付けられていた。バスケットボールを軽々と片手で掴める、大きな大きな仙道の手。プレーのときにボールを守るその手の平が自分を優しげに撫で、愛しげに触れるのが、越野はかつてどうしようもないくらい好きだった。
「っ……ぐ──」
 喉をきつく締められ、絶え絶えな息で仙道を見上げたとき、越野の頬に仙道の涙が数滴こぼれ落ちた。手の平は氷のように冷たいのに、涙は切ない程に温かかった。
「こし、の……俺は……っ」
 う、と言葉に詰まりながら、仙道はその両手の力をいっそうと強くする。越野の目からも涙が溢れる。顔の上に零れたそれは、もうどちらのものか分からなかった。
「俺は……っ、お…お前を……っ」
「…ウ、ぐ…っ、──せ、」
 仙道の目からとめどなく涙が零れ落ちて、その全てが真下の越野の頬に触れていく。仙道、と名前を呼ぼうとしたが、それは叶わなかった。
「──失う、くらい、なら…っ」
 仙道がぐっと指に力を込めた。もう息ができない。音も聞こえない。視界は、徐々に虚ろになっていく。白い視界のなか、目の前にはただ仙道の泣き顔だけが見えた。その表情を見て、初めて気付く。
 ──こんなに、苦しんでいたのか………
 ごめん、という言葉は、仙道に届いていたのだろうか。それを確かめる術もなく、越野は意識を手放した。