The Changing Same 3

「あ、越野くーん、ちょっとちょっと」
「何すか、月原さん」
 午前中の仕事を終え、いつものように柏崎とチームの他の者と昼食をとってオフィスに戻ってきたところで、まだ昼休みが残っているというのに忙しない月原に声をかけられた。
「越野くんって、地元湘南の方って入社のとき言ってたわよね?」
「ああ…はい。藤沢出身ですけど」
 柏崎も興味深そうに首を傾げた。
「えー、越野さんあっちの方なんだ。じゃあ…」
「柏崎ウルサイ。でね越野君、今度小さいけど鎌倉メインの企画やるのよ、旅行関係でね。それでちょっと聞きたいことあるんだけど、協力してもらっていいかな?細かいところは下請けに出すから、プロットだけ作りたいんだけど…」
「ああ、はい。俺でいいなら手伝いますよ」
「ありがとー!今度奢るからね」
 ほっとする月原に、いつでも声かけてください、と言ってデスクに戻る。社内でも有数の美人の月原にああやって頼まれれば、できませんとはとても言えない。あれで仕事もできるんだから敵わねえよな、と苦笑しながらごちた。
 藤沢か──地元には久しく帰っていないが、たまに帰っても東京と実家の往復に尽きてしまう。そういえば、大学の時には頻繁に開かれていた同窓会も、ここ数年は話も持ち上がっていない。越野は、デスクの自分のパソコンを眺めた。そのデスクトップには、青い海の写真が広がっていた。
 地元を思い浮かべるとき、いつもそこに確かに鎮座して動かないイメージがある。あの七里ガ浜の、青い海だ。地獄の浜ランで見たうだるように暑い夏の海も、息も白い真冬に眺めた凍り付くように冷たい海も、いつだってそれは青く在った。そして今でも同じようにそこに在るものだった。ずっと変わることのない湘南の海が、越野は好きだった。海の前でなら、過去の思い出も、厭うことなく頭に浮かべることができるのだろうか。越野はそこまで考えると、自嘲のような笑みを浮かべて席を立った。煙草が吸いたくなったからだった。
 喫煙室は、珍しく誰も居なかった。昼休みだから、いつもここで吸う連中もきっと各々出払っているのだろうとぼんやり考えながら、ソファに腰をかける。タバコを口に含んで火を付けて吸えば、口じゅうに苦い香りが広がった。
 やおら後ろのポケットから携帯電話を出して、受信メールを見る。昨日の夜、仙道から来ていたメールをまた開いた。
「明日の夜、部屋に行く」
 昨日風呂から上がると、仙道からの一件の不在着信と、そしてこのメールがひっそりと越野の元に届いていた。それを見て、ああ、そのときが来たのだ、とそう思った。返事をしなかったときには、いつも仙道は来なかった。それは、このメールに了解の返信をしたときに、最後の逢瀬が決定事項になってしまうということを示していた。
 まだ返信はできずにいる。次に会うのが最後だと思っていたから、それを確かなものにするのは自分なのだった。越野は手を止めたまま、仙道の短いメールをじっと見つめた。
 そのときかちゃりと入ってきたのは、柏崎だった。あわててかぱっと携帯を閉じ、またポケットに入れ直す。越野を見て笑うのが、犬のようだった。
「何だ、お前タバコ吸わねーだろ」
「まあまあ、そう仰らずに」
 調子良く言って、柏崎は越野の隣に座ってソファに背を預ける。越野は少し前かがみに、前のサイドテーブルに肘をついていた。それきり、越野も柏崎もしばしぼんやりとタバコの煙を見る。
「…うまいすか、それ」
 ぽつん、と柏崎が言った。
「…何その中学生みたいな質問」
「だって俺、一度も吸ったことないすもん」
「うっそ、まじで?」
 少なからず驚いて振り向く越野に、まじっす、と柏崎が返す。
「じゃ、今吸ってみる?」
 にやりと笑って越野が言った。いきなり10mgのタバコを肺に入れれば、初めてならきっと咳き込むだろうと思ったからだ。越野の企み顔を見て柏崎も笑って頷いたので、ほれ、と右手に持っていたタバコを柏崎に手渡そうとした。その途端その腕をぐいっと引っ張られる。
「う、わっ」
 ソファの上で半身を柏崎の胸に抱きとめられた形になって、反射的に柏崎の顔を向く。10センチもないような至近距離にその顔はあった。
「こっちにしときます」
 満面の笑みでにかっと笑った後、柏崎は越野に口づけた。この間の夜のような一瞬のものではなく、舌と舌との深いキスだった。逃げる越野の舌を柏崎のそれが追いかける。歯列をなぞられたとき、喫煙室の外でかすかに足音がした。慌てて、ぐいっと左手で柏崎の胸を押しのける。
「……にがいっす」
「たりめーだ、アホ」
 越野は言いながら立ち上がり、右手から落としてしまったタバコを床から拾って備え付けの灰皿で潰す。不貞腐れながら柏崎を睨んでやれば、やった、という顔をしてにっこりと越野を見ていた。お前なあ、と口を開きかけたところで、喫煙室のドアが開く。山中がタバコを持ってのっそりと歩いてきた。
「あー、越野ここに居たんだ。何か呼び出しかかってたみたいよ」
「え、まじで?すぐ行く」
「あ、俺ももう戻ります」
「きみらホント仲いいねえ」
 そんな山中の言葉にニッと笑う柏崎を睨みつけながらオフィスに戻れば、昼休みもそろそろ終わる頃で、人の数も通常通りに戻っていた。しかし心なしか、そのざわめきがいつもより大きい。越野さん、と女性社員に呼ばれると、同僚達がいっせいに越野を見た気がした。
「越野さん、あの、面会したいと言う方が…」
 内線電話を片手に、その社員が少し動揺しながら言った。
「え、俺に?…先方、どちら様?」
 今日は人との面会の予定は無かった。そもそも自分一人が呼び出されるようなことはめったに無い。越野は眉を潜める。
「それが、あの……仙道彰さんということで…、もう下にいらっしゃってるそうなんです」
 越野は耳を疑った。仙道、と言う名前が聞こえるような場所ではないことは確かで、その非現実さにめまいさえする。頭には疑問符ばかりが浮かんでいたが、すぐに状況を思い出し、慌てて2,3回頷いた。
「…分かった。五分後に行くから」
 ようやっとそれだけを言って、受け付けに伝えるように合図する。女性社員が電話を切った途端に、周りが大きくざわめいた。
「ねえ!仙道って、あのバスケの仙道彰でしょ?ね、何で何で?」
 月原が目を輝かせて越野にくいついた。女性社員は一様に月原と同じような目をしていた。それだけではなく、突然のスーパースターの登場に、オフィスの社員達は仕事を忘れて越野に好奇の目を向けていた。それが仙道でなければ、自分もこんな風な態度をとっていたに違いない、と越野は頭の隅で思う。
「いや…まあ、用事は知りませんけど…」
「ていうか越野さん、仙道彰と知り合いなんすか?」
 今度は後ろから、柏崎が問いかける。なぜだか少し後ろ暗い感情が生まれて、振り向いたが目は合わせなかった。
「…高校んときの友達」
 それを聞いた途端、「えー!」だとか「まじで?」だとか言う声があちこちから聞こえてきたが、越野はそれらから逃げるようにオフィスを出る。出たはいいものの、のろのろとエレベーターに乗った。足取りは重い。
 下に仙道が居る。どんなに非現実的であっても、これは現実のことらしい。心臓が一度きり、どくんと鳴った。


 越野が近づくと、見慣れた背中が振り向いた。サングラスも帽子もしていないせいで、ロビーに居る人間からはすっかり注目を浴びていて、立ち止まったり携帯電話で写真を撮っている者まで居る始末だった。しかし本人は気にする様子もなく、ゆっくりと越野に近づいた。
「……」
「突然ごめんな」
 何も言わない越野に、仙道が申し訳なさそうに言って、少し微笑む。
「どうしたんだ」
 それには答えず、越野は短くそれだけを言った。仕事中に来るなんて、という非難も込めたつもりだった。
「いや…」
 仙道は言葉を濁す。そのまま二の句を継げず顔を越野から背けると、その顔が向いた方に居た女性社員2、3人がきゃ、と高い声を上げた。それに曖昧な笑顔を向けて、仙道は困ったようにまた越野を見る。越野は「ちっ」と小さく舌打ちをすると、仙道に、自分に着いてくるように合図した。見せ物になったまま会話をするなんて、冗談じゃない。仙道のスクープ写真が、脳裡によぎった。
 屋上のドアを開ければ、そこは緑化計画によって芝生や庭園があり、ちょっとした公園のようになっていた。そういえば、入社した時の社内向けパンフレットにここの写真が載っていたっけ、と思う。今まで一度も足を踏み入れたことのなかった自分にひっそりと驚いた。自分達以外に人は居らず、端の方にあるベンチに腰をかける。仙道は座らず、ぼんやり景色を見ていた。秋の涼しい風がさあっと吹いた。
「で、どうしたんだよ」
「……」
 聞くと、観念したように眉尻を下げて、仙道は立ったまま越野を見る。その形のいい厚い口唇が、はあ、とひとつ息をついてから、口を開いた。
「メール、返事くれなかったから…」
「──はあ?」
 思わずそう聞き返すと、仙道は肩をすくめて眼を伏せた。越野は「信じられない」という様子で、眉をひそめその様子を見つめる。仙道は何かを言いたそうに口を開けたが、結局それは紡がれることなかった。諦めるように押し黙った仙道は、少し越野を見て、再び口を開いた。一瞬、その瞳が歪んだように見えた。
「悪かった。…帰るよ」
 その様子が却ってますます越野の苛立ちを誘う。何のつもりなんだと、叫んでしまいたいところをぐっと抑える。そうして、何も言わず急にすくっと立ち上がって、屋上のドアの方に歩いて行った。越野、と仙道が後ろから声をかける。その言葉には、足を止めない。
「仙道、今夜来いよ」
 ドアの前まで来たとき、仙道を初めて振り向いて越野が突然告げた。少し湿り気を帯びた風が、またひとつ越野の髪の毛を揺らして行く。仙道は身じろぎひとつしなかった。
「…今夜で、終わりにしよう」
 吐き捨てるようにそう言うと、仙道の眼が今度は決定的に歪んだ。その眼から自分の視線を外して、屋上を出る。バタン、と背後でドアが閉まる音だけが響いた。



 オフィスに戻ると、先ほどの応酬の続きが待っていた。間断なく質問を浴びせかけてくる同僚達に全く取り合おうとせず、ただ仕事をこなしていく。そんな越野を見て、仙道のファンらしい月原は明らかに気落ちしていた。それには悪いと思ったが、さすがに仙道への浮かれた質問に答える気には今はなれなかった。柏崎が心配そうな眼をして見ていたのにも気付いていたが、越野はあえてそちらを向かずにいた。そうやってルーティンワークをしているうちに、就労時間は無情なほどあっと言う間に過ぎていく。気付けばもう、7時を過ぎていた。
 今日は金曜日だということで、周りにはぽつぽつと飲み会の予定などを話す声も聞こえる。それらに加わることもなく、帰る準備を済ませてオフィスを出た。
「越野さん、越野さん」
 一階まで降りてきて会社を出る寸前に、ぱたぱたと後ろから柏崎が追ってきた。
「なんだよ」
「今日、飲んでいきません?」
「わりいけど、今日は無理なんだ」
「…仙道さん?」
 その名前に反応してしまい、思わずばっと振り向いて相手を見れば、柏崎は真顔でじっと越野を見ていた。その真剣な表情が、すぐにいつものくしゃりとした大振りな笑顔になる。しかしそこには、微かに寂しさのようなものも浮かんでいるように思えた。
「……すいません。俺、関係ないっすよね」
 そんな風に申し訳なさそうに言って踵を返した柏崎の、その腕を思わず越野は取ってしまった。弾かれたように柏崎が振り返る。
「越野さん…」
「…関係あるよ。関係ある。だってあの夜、俺がお前を巻き込んだんだから……俺が悪いんだ」
「そんな風に言わないで下さい。俺は嬉しかったんですから」
「……」
「張り詰めた糸みたいだ、って言いましたよね、俺。そんな越野さんが俺のこと頼ってくれて、嬉しかったんすよ。例え、酔ってても、やけっぱちでも、……誰かの代わりでも」
「──そんなこと…」
「物の例えです。…とにかく、巻き込んだなんで言わないで下さい」
 眼を細めて笑う柏崎の、自分より少し上にあるその顔を見上げたまま越野は何も言えなかった。目じりにしわの寄るその大きな笑い方は、人を安心させるものだった。仙道のするような、どこまでも静かで穏やかな笑い方とは違う。
 柏崎は自分を好きだと言う。その気持ちを知らなかったとはいえ、自分はそれを利用しているようなものだった。仙道との関係を終わらせるもっともらしい理由をつくるためだけに、自分は柏崎を誘って抱かれたのだ。その行為は、彼を巻き込んで利用した以外の何者でもなかった。
 けれども、もしあの場に居たのが柏崎でなければ──山中や他の同僚だったら、あるいは女性であったなら。自分は同じことをしていただろうか。越野はその仮定を思い浮かべようとしたが、うまくいかなかった。柏崎に、柏崎という存在に、自分は知らず知らず甘えていたのだろうか。柏崎だからこそ、あのような行動をとったのだろうか──。自分がよく分からない、と思った。考え始めれば、出口の見えない真っ暗な場所に投げ出されるような気がして怖かった。仙道とのことも、自分はもしかしたらよく分からないまま続けてきたのだろうか。越野はそれすらも考えたくなかった。
「…越野さん。明日、会いませんか」
「え…」
「土曜でしょ。昼過ぎ頃、迎えに行きます」
「明日…」
「ええ。…デートしましょう」
 そう言いながら自分をじっと見つめる、柏崎の真剣で切実な眼差しを見れば否が応でも分かってしまった。明日、告白の答えを出してくれと。柏崎はそう言っているのだ。
 越野は少しの沈黙の後、その誘いにゆっくり頷いた。