The Changing Same 2

『…越野、触ってもいい…?』
 頷くと、仙道はまるで儀式のように越野の左手を握った。その薬指にゆっくり嵌められたのは、金の指輪だった。そうして、何かを恐れているように見えるほどの神聖さで、そっと越野の両頬に触れる。
 誰かにこれほど大切に、慈しまれるように愛されたのは初めてで、これほど誰かを愛したのも初めてで。
 高ぶった感情にただ涙が出て、仙道、と名前を呼ぶのが精一杯だった。
 そんな風に涙を流したのも、最初で最後だった。
 あのとき貰った揃いの金の指輪は、もうどちらの指にも見当たらない。




 *




「…越野さん」
「……」
「越野さーん」
「……!」
 眠い意識の中に割り込んできた違和感に、ぱちっと瞼を開ければ、柏崎がにこりと笑った顔が視界に広がった。思わずがばっと起き上がってしまい、柏崎の額に自分の頭を勢い良くぶつける。自分の上半身が目に入った。分かってはいたが、裸だった。
「っだぁ!なんすかぁ、もう」
「……や、だって、き、昨日……」
 掠れている上に酷くどもってそう絞り出せば、相手はぶっと噴き出した。柏崎の方は昨日着ていたワイシャツに越野の部屋着のスウェットを履いていた。
「あ、下だけ落ちてんの借りました」
「いや、それはいいけど、…」
 それきり言葉が続かなくなった。気まずさと羞恥、そして自己嫌悪が頭の中を過ぎ去ってはまた生まれる。
 昨夜、確かに柏崎に抱かれた。酔ってはいたが、自分の言動ははっきりと覚えている。否、自分から誘って抱かれたのだから、忘れられる筈がなかった。
「朝飯できたっすよ、食べましょ!ね?」
「…ああ、サンキュ…」
 押し黙った越野に元気にそう言って越野の返事を聞くと、柏崎は寝室を出ていった。越野はのろのろと手近にあったTシャツと予備の部屋着に着替える。部屋を出る前に、ふいに自分の頬に温かみのようなものを感じた。その感触を追ってはいけないような気がして、振り切るようにドアを開けた。

「いただき、ます…」
「どーぞ、ってまあ、越野さんちの食料すけど」
 そう言う柏崎をちらりと見つつ、目玉焼きにウインナーとサラダ、そして焼かれた食パンが並ぶ朝食に、越野は手を合わせた。二日酔いはほとんどない体質なので気分も悪くはなく、腹もそれなりにすいていたが、頭の中は朝食どころではなかった。
 謝らなければ。
 男の身体の生理現象は十分理解している。刺激されれば否が応でも反応するものなのだ。萎えさせさえしなければ、セックスはうまく行く。越野はその方法が分かっていた。しかし自分が女ならまだしも、男を抱かせるなんて正気の沙汰ではない。柏崎には合わせる顔がないというのが本当だった。
「あのさ、柏崎…」
「──すいませんした」
「っ、あぁ?」
 ごめんと言おうとしたのは自分なのに、相手に急に頭を下げられて、越野は驚きの余り持っていたフォークを取り落としそうになってしまった。
「何でお前が謝んだよ? 大体俺が…」
「越野さんに何か理由があるんだってことくらい、分かってました」
「…え」
「だって、何もなくあんなこと言う人じゃねえもん、越野さん」
 今まで明るすぎるくらいだった柏崎が、初めてバツが悪そうに若干俯いた。
「だから…断ろうとしたら、断れたんすよ、俺」
「柏崎、それは…」
「でも越野さんを抱いた」
 身も蓋もなく言われて、越野は恥ずかしさにぐっと押し黙ってしまう。柏崎はそれを見てちょっと笑った。
「……俺、本当は下心満々だったの気付いてました?」
「は?…何だって?」
 突飛な柏崎の発言に聞き間違いかと、越野は自分の立場も忘れて思わず聞き返した。対面の相手は、それに動じる様子もなく言葉を続ける。
「徹夜付き合ったのも、家まで送ってったのも…」
「え、ちょお待て、それってどういう…」
「──だから!昨日のは俺にとっては、願ったり叶ったりだったってこと」
「………」
「越野さんを、好きだってこと」
 です、と続けて小さく柏崎が言った。奥二重の目を少し申し分けなさそうに歪ませて、昨日したように神妙な顔で越野をじっと見つめていた。普段から陽気な人間だが、今は大真面目に話しているということは分かりきっていた。その真剣な眼に一瞬恐怖のような感情を覚えて、越野は少し怯んだ。
「でも俺──昨日のことは、忘れます」
「…え…」
「俺に気持ちがあって抱かれた訳じゃないってことは、分かってるから…」
 そう言って悲しげに眼を伏せた柏崎に、思わず違う、なんて否定の声をかけそうになる。けれども、柏崎の言っている事はまったくもってその通りだった。
「越野さん……だから、これから好きになってもらえませんか」
 付き合ってほしいんです、と、一言を噛み締めるようにゆっくりと柏崎が言った。越野は言葉のひとつも発せられず、その真剣な眼を見つめている事に耐えられなくなり、俯いた。
 電源を切ったままの携帯電話が、もの寂しげにダイニングテーブルの隅に置かれているのが見えた。



  *



 あの夜と、その翌日の柏崎の告白から、もう二週間が経った。どんどん季節は秋らしくなり、チームのプロジェクトも問題なく進んでいく。柏崎の態度は、仕事でもそれ以外でも、特に変化はなかった。いつものように仕事では越野のサポートをし、呼べば人懐っこい笑顔で近づいてくる。上がりの時間が合う日は、常日頃のように途中まで一緒に帰ったりもしていた。

 ──あの日の朝は、朝食を食べてその後片付けをしたあと、柏崎はすぐ自分の家に帰宅した。
『返事はいつでもいいっすから!』
『…分かったよ』
 いつもと同じようににかっと笑って元気そうに言うその言葉に、越野は内心ほっとした。
『…そういえば、』
 越野の顔からすこし目線を外して、ふいに柏崎が口を開く。
『越野さん、さっき寝てるときに──』
『ん?』
『……や。やっぱいいっす。じゃあ…』
 けれどもそう言ってまた笑い、柏崎は玄関から静かに出て行った。帰り際のそんな短いやりとりにも少し疑問を覚えたが、越野にとってはそれよりも、柏崎の告白の方が重要事項だった。それは真剣に考えるべき問題だった。

 自分が、仙道以外の男と付き合う。いや、仙道以外の「人間」と付き合う。仙道とは、高校二年生のときに告白されて以来、いわゆるそのような関係が続いていた。ここ数年間、他の人間と新しい関係を築くということも考えなかったわけではない。もう27にもなる。両親には、早く結婚しないのか、相手は居ないのか、そんなことを帰る度にせっつかれていた。
 自分が仙道を離れ、他の人間との未来をつくる。
 そう、考えなかったわけじゃない。けれども、その未来はいつだってぼんやりと宙に浮かんだままだった。しかしそれは、今や越野の前に現実的な選択肢として鎮座している。
「……付き合う、か…」
 自分と仙道の関係とは、一体何なのだろう。越野はベッドのサイドボードに置いてある煙草の箱から一本取り出して、火を着けた。煙草はやらない、と高校生のときから煩いほど言っていたのに、社会人になってから吸い始めた。そのタールの量は年々増えていき、今では2桁になってしまっている。そんな自分に何だか苛々しながら、テレビのスイッチを入れた。
「…仙道選手、仙道選手、Mさんとの交際についてお聞かせ下さい!」
「頻繁に会っていらっしゃるんですか?」
「いつからお付き合いを始めたんでしょうか、仙道選手…」
 それをつけた途端、サングラスをかけた仙道の姿が眼に飛び込んできた。いつもの練習場へ着いて車から降りたところを、カメラにキャッチされたようである。もう何度も繰り返し報道されてきた仙道のスキャンダルだと言うのに、スクープに涎を垂らしたメディアが飽きずにまた騒ぎ立てている。小さな箱の中の仙道は、大きなサングラスで表情は見えない。まとわりつく記者の質問には全く答えず、唇を固く結んで急ぎ足で練習場に向かっていた。
「仙道選手、結婚のご予定は──」
 結婚?ふいに聞こえてきた単語に、越野は思わず苦笑する。そうだ、いっそ結婚してしまえばいい。そんな風に考えて、すぐにはっとする。仙道が結婚すれば、自分はどうなるのだろうか。それは、遠い未来ではなかった。仙道も自分も、27なのだ。それは、現実感を増しながらすぐそこに迫っていた。仙道がどこかの女と結婚し、家庭を作り、子どもを育てる──。
『…越野、ずっと一緒にいような』
『バーカ、ずっとって、いつまでだよ』
『そんなの、決まってるじゃん』
『言えよ』
『死ぬまで』
『…死ぬまで』
『そう、死ぬまで』
 思い出したくないのは、もう、失くしてしまった過去だから。二人にはもう、共有されることのない気持ちだから。
 ──だから、終わらせるために、柏崎に抱かれたのだ。
 液晶の向こうに見える仙道の姿が、足早に建物の中に消えて行く。それは皮肉にも、二週間半前に見た仙道本人よりリアルな姿に見えた。
 恋人だった。自分と仙道との関係は、かつて、恋人だった。
 今ではもう、呼び名すら見つからない。