The Changing Same 1

 仕事は順調だった。明日の金曜日の朝イチで行われる、プロジェクトの取引先や下請けとの会議資料も、一日かけてほぼ完成した。最後の推敲を終えると、越野は大きく伸びをする。腕時計を見れば、六時半を回ったところだった。この時間ならば、一般的な時間には家に着いているだろう。遅い夕食を仙道と食べるのだろうと考えたが、食事中は事務的な世間話に尽きる最近の自分達の姿を思い浮かべて、気が重い心地がした。疲れが一段と強くなった気がして、デスクにはぁ、とうな垂れる。そのときぽん、と肩に手が置かれた。
「おつかれさまっす!これ、山さんのお土産、食います?」
 柏崎だった。もぐもぐと口を動かしながら、「伊豆」と大きく書かれた箱を差し出した。最近結婚した同僚の山中のハネムーンの土産らしかった。結婚式のときには「ヨーロッパに」などと言っていたのだが、最近の仕事の忙しさで、泣く泣く近場の伊豆に大きくランクダウンをしたと聞いていた。
「うわ、これ…まっず」
 越野が一口食べて思わずそう言うと、二列向こうの山中が振り返って睨んだ。饅頭なのかモナカなのかも分からず、これがなぜ伊豆土産なのかも分からなかったが、わりぃわりぃと苦笑して越野は仕方なく全部飲み込んだ。
「え?これうまくないっすか?」
「じゃあ全部食べて。だあれも文句は言わないわよ」
 きょとんとする柏崎に、横から一つ上の月原がすかさず声をかける。どうやら味覚がおかしいのは柏崎だったようだ。え、いいんすか?と本気で喜ぶ姿が笑いを誘って、一時オフィスは和やかな雰囲気になった。
「伊豆ならもっとうまいもんあるでしょ、山さん」
「綺麗な海だったよお〜、ほんとに。すっごく素敵だったなあ〜」
 越野のごくまともな問いかけなど全く聞こえていないかのように、山中がえらく夢見がちに言った。どうやらヨーロッパに優雅にハネムーンと言う幻想に破れた自分を慰めようとしているらしかった。
「まあ、伊豆もいいところっすよね…、」
 そんな姿が哀れになって、思わずそう慰めの声をかける。しかしその自分の台詞は、大学生の頃に仙道と伊豆に旅行に行ったことを否が応でも越野に思い出させた。
『うわあ、俺こんなペンション別荘に欲しい!』
『…夢ならもっといいところにしろよ、ハワイとか、グアムとか…』
『うっせえなアホ、俺はこういう、ここぞ日本!ってとこがいんだよ』
『…ふうん。じゃあ、プロになったら一軒買ってプレゼントしてやるよ』
『ぶ!バーカお前!』
『そしたら、毎年ここに来ようぜ』
『まあ、考えとくわ』
 そこまで思い出して、越野は何かを取り払うように頭を振った。
「あ、それプレゼン用のファイルすね。一応第三でテストしときましょう」
「──ああ…だな。よし、もう一仕事すっか」
 柏崎の提案に相槌を打つ。第三というのは、第三会議室の略であり、すぐ隣の部屋である。プロジェクターと投影用のPCが備え付けてあるためもっぱらプレゼンに使われるのだが、旧型の機器で、社内ネットワークに繋がっていないのが難点だ。越野は作ったばかりの資料を仕事用のUSBメモリにそのまま上書きすると、急いで席を立った。
「その前にトイレ行ってくるわ」
「あ、越野さん、俺もー」
 連れ添ってトイレに行く越野と柏崎に、後ろから「どんだけ仲良しだよ、お前等ぁ」という山中の間延びした声が聞こえた。

「明日過ぎれば、ようやく本格的に動くんすねえ」
 頑張って良かったあ、と柏崎が手を洗いながら感慨深げに呟いた。鏡に映る柏崎は、多少疲れた顔をしているが、相変わらずの好風貌だった。柔らかそうな色素の薄い髪を横に軽く流して、それが知的で優しそうな印象を作っている。前髪をすべて下ろすとガキっぽくなるから、と以前聞いた事があった。どことなく親しみのある奥二重の眼や、薄いけれど形のいい唇だとかは、女性社員にしてみれば憧れの的だろうな、そんな風に思いながら、洗った手を拭こうとハンカチをポケットから取り出した。そのハンカチを胸のところまで持ってくると、微かに何かが引っかかったような感触がした。しかし、気付いたときには遅かった。ハンカチに引っかかったUSBメモリが、洗面台にカランと落ちた。その衝撃で接続部分のカバーが勢いよく外れる。
「──あっ…!」
「え?」
 慌てた越野は、USBメモリに被せるようにハンカチも取り落としてしまう。その瞬間に、それらに反応した蛇口から自動で勢いよく水が出た。小さなUSBメモリは排水溝のみぞに引っかかったまま、無情にもその瞬間に水浸しになってしまった。バッと手を伸ばして急いで手に取るも、カバーのない接続部分にはぼたぼたと水が滴っている。中のデータは絶望的だった。もはや役に立たなくなった小型機器を握り締めながら、越野と柏崎は青ざめた。
「…うっそ…」
 顔を青くして呟く越野に、柏崎がはっと思い着いたように口を開いた。
「あ、でも、デスクのパソコンの方にバックアップ…」
「──今日の分、とってねえ……」
 家での作業用にUSBメモリに移していたのものを、そのまま上書きしてしまっていた。完成した時点でどうしてPCにもコピーしておかなかったのか。初歩的なミスで、今日一日の自分の仕事がパァになってしまった。自分が信じられないような思いで、越野は呆然とする。やってしまった、と思った。
「…今日は徹夜っすね!」
 と、先に口を開いたのは柏崎だった。未だにショックから立ち直りきれていない越野は、恐る恐る柏崎と眼を合わせる。越野の表情に反して、まるでいたずらをした子どものようににかっと豪快に笑っていた。
「…お前は帰れ…俺のミスだ」
「や、大丈夫すよ!まだ若いんすから」
「……そういう問題じゃ」
「図表は俺に任してくださいね!だいじょーぶ、時間は朝までたっぷりあるスからね」
 そう明るく言うと、柏崎はくるっと踵を返してトイレのドアを開けた。慌てて越野も追いかける。
「で、でも──」
「それに…越野さんも人間だって分かったから、いいんすよ」
 その言葉に思わず「はあ?」と言えば、柏崎はくるっと振り向いて「にひひ」と変な笑い方をした。
「なんだよ、それ」
「俺ずっと、ね。越野さんって何でそんなに完璧なんだろうって、不思議に思ってたんです」
「え?」
「年だって俺とさほど変わんねえのに、すげえなこの人って。でも、……」
「…何だよ」
「よく見てると、何だか張り詰めてるっつか。心配になるときも、まあ…あるんです」
「──」
「…ま!それよりも憧れの方が強いんすけどね!」
 からりとそう言うと、また変な笑い方をして、柏崎はさっさと先に戻ってしまった。オフィスの前の廊下で、越野ひとりがぽつんと立ちつくす。「張り詰めている」と、自分は──またそう言われてしまった。
 …"また"…?今しがた自分がそう考えたことに違和感を覚えてしばし思い直すと、その根拠にようやっと思い当たった。再びあの既視感が越野の中で頭を持ち上げる。
『お前が頑張ってることは分かってる。だからそんな張り詰めんなよ』
『……』
『お前は、うちのエースガード。…頼りにしてる』
『…仙道…』
 瞬間、越野は手をぎゅっと握った。そして尻ポケットから携帯電話を取り出すと、「今夜は帰れない」とだけ打って、それきり電源を切った。
 そうだ、思い出せないのではなく、思い出したくないのだ。



 *



「俺と越野さんの熱い頑張りに、乾杯っ!」
「……。カンパイ」
 柏崎は嬉しそうにビールをごくごくと飲んで、ぷはあと豪快に息をついた。あまりに豪快すぎて呆れながら、しかし五臓六腑に染み渡るような喉越しの良いそのアルコールを、越野も気持ち良く飲み込んだ。
「まあ、俺は結局寝かせてもらっちゃいましたけどね」
「バカ言え。後輩にそこまで世話になれっかよ。俺の立場がねーもん」
 結局その日は、「手伝う」と言う山中と月原を帰して、どうしても引き下がらなかった柏崎と二人で資料を完成させた。柏崎の仕事は越野が彼の年だった頃より素晴らしく的確で、思ったよりも早く見通しが立ったので、3時すぎには柏崎を仮眠させたのだった。「タクシー代を出すから帰ってベッドで寝ろ」と言ったのだが、寝付く寸前まで「何かあったら起こしてください」と言っていた柏崎は、それを頑として承服しなかった。
「まあ、俺も2時間は寝れたしな。お前のおかげ。サンキュな」
 越野が心からの感謝を込めてそう言うと、柏崎が複雑そうな顔をして照れた。


 ろくな睡眠も摂らず酒を飲んだせいで、まだ終電まで二時間もあると言うのに、一人では立てないほどに酔っ払ってしまった。金曜日だからと気持ちが緩んだせいかもしれない。"花金"だなんて古い言葉を思い出して、自分もしがないリーマンなんだなあ、と、越野は思うようにならない身体でほくそ笑んだ。無事にうまくいった仕事と酒のおかげで、気分がいい。
「なーに笑ってんすか。ほら、歩いて酔っ払い。わ──おっとと、あぶねっ」
 越野の肩を支えている柏崎がバランスを崩しかけながら言った。柏崎の顔は越野と同じくかなり赤らんでいるが、足元は別段しっかりしていた。タクシーで帰るという越野を、電車が同じ方面だからと、柏崎が越野の最寄り駅まで送ると言い出したのだ。
「だぁ、わりーわりー。つーか、ここでいいぞー」
「いいすよ、どうせなら家の前まで送ります」
「そーいえばお前、酒強かったよなあ、こーんな顔して〜」
「うーっ、やべでくださいよお」
 自宅までのショートカットになっている広い公園を通りながら、握力自慢の右手で柏崎の両頬をがっしり掴んでぐいぐいと押し潰すと、柏崎がひょっとこのような顔になってもがいた。それが面白くて、ひゃははと笑う。あんまり面白い顔なので、自分の方に近づけていっそう笑ってやると、柏崎は押し黙った。支えていない方の手で越野の右手を自分の顔から離す。そうして、元より近づいていた越野の顔に、素早く自分の顔を寄せて──近い、と思ったときには唇と唇が触れていた。ちゅ、と音がして、顔が離れる。ぽかんとしている越野を見て、にへらと笑う。そして、仕返しっす、と悪びれずに言った。
「お前…先輩相手になあ」
「俺越野さんのミス徹夜でカバーしたもーん」
「だから奢ってやっただろーが!」
「俺酔っ払い送ってあげてるもーん」
「……っ」
 何も言えなくなった越野を、今度は柏崎が笑う方だった。柏崎の悪ふざけに怒る気にもなれず、仕方なく越野も笑いながら外の空気を仰ぐ。この公園を抜ければ、マンションのエントランスは目の前に見えてくる。
「あ、俺、そこのマ──、」
 もう視界に入っていたエントランスの、その前に立つ人影に気付いたのはそのときだった。過ぎるほどに見覚えのあるその長身の人影を、酒で焦点の定まらない眼をじっと凝らして見る。酔っ払っていても一目で分かったのだけれど、まさかという思いがある。
「…──せ、」
 思わず名前を呟きかけたところで、その人物は顔を越野の方から逸らして、公園の裏通りに消えて見えなくなってしまった。
「……なんで…」
 あれは仙道だった。見られたのだ、今の悪ふざけを。
「あれ、どうしたんすか?あ、マンションあそこ?」
「今──」
「え?」
「……いや、何でもね」
 どうってことないだろう。焦ったような気持ちになったのはほんの一瞬だけで、すぐにそう思い直すと越野は頭をぶんぶんと振った。きっと自宅にカメラが張っているのに嫌気がさして今日もここに泊まりに来たところを、途中で別の女に呼び出された、というような具合なのだろう。昨日の朝、電車の中で見たスポーツ新聞の記事が頭によぎった。これまで一体何度、あんな風に仙道と他の女が一緒に居る写真を見せられたのか分からない。そのたびに越野は、無感動になって行った。女のように仙道に泣いて縋ったり、嫉妬して怒ったりしたことは一度もない。昔、仙道がいわゆるこういう立場になってすぐ、かけた電話に女が出て、嫉妬で狂いそうになったことがあった。そのとき、自分が口を閉ざさなければこの関係は壊れると、越野はそう思ったのだ。口を閉ざして、一切の干渉を止める。そうすることが自分と仙道とのこの危うい関係を守るためのせめてもの手段であり、せめてもの自分のプライドだと決めたのだ。仙道も、おのずと何も言わなくなった。何も言わずに一月に一度越野を抱きに来るのだった──きっとどこかの女を抱いた後で。結局、仙道にとって自分は、気心の知れたダッチワイフ以外の何者でもないのだ。それが分かっていたからこそ、無感動になるしかなかったのだった。
 けれども、この関係を続けているのは、仙道の気まぐれだけではなかった。関係を守るために自分のとった行動が、今こうやってズルズルと、身体を繋げるだけの非生産的な関係を長引かせている。あまりに──あまりに自分はみじめではないか。
 それならば、今更仙道に対して脛の傷など有り得るはずもない。もともと、終わる筈の関係なのだから。越野はぎゅうと強く拳を握って、ごくんと唾を飲み込んだ。
「……なあ、柏崎…」
「はい?」
「お前、男抱ける、か…?」
 すぐ左の顔をゆっくり見上げて掠れた声でそう聞けば、柏崎は眉をひそめて、珍しく神妙な表情をした。支えられているその腕に、ぎゅうと自分の手の平を重ねる。
「俺を抱ける…?」
 自分の声が震えるのがどうしても許せなくて、越野は大きく息を吐いた。