The Changing Same プロローグ

「じゃあ、行くから」
「…ああ」
「煙草、吸い過ぎるなよ」
「ああ」
 そう短く答えて、越野はサイドボードに置いたタバコに火を付け、煙をくゆらせた。ベッドの脇の窓の外をぼんやり眺めながらゆっくりと息を吐けば、灰色のそれが朝の光に透けてゆうらと立ち込めた。しばらくぼおっとそれらを眺めているうちに、バタンと玄関のドアを閉める音が低く聞こえてくる。情事の後の汗の残滓が、じわりと背中を伝った。下半身の鈍い疼きはいつものことだ。越野は何の表情を浮かべることなく、ただその煙にあてどない視線を向けていた。
 仙道が居なくなったマンションは、現実世界に急速に戻っていく。日曜の夜だから明日はまた早くから出勤で、それが越野の日常だった。しかしながら、仙道と会うことが非日常であるのかと問われれば、是とは言えない、そう越野は思った。一月に一度仙道から電話がかかってくれば、次の日の夜の予定を空けておく、ただそれだけのことだった。仙道は昔のように遅刻をしてくることはなく、いつも約束通りの時間に部屋に来る。それがいっそう、この関係をオウトマティックで機械的なものにしている気がした。睦言を吐くこともいつしか無くなった、この無機質な関係は何なのだろう。さっきまで一緒に居たと言うのに、交わした言葉のひとつすら覚えていない、この関係は。もはや越野は、それらを自分やその相手に問うことすら面倒になって、そうして気付けば日々の喧騒に紛れてしまっているのだ。



 *



「越野さん、デスクの伝言確認してくれました?」
 出先から会社に戻ってフロアの隅でコーヒーに口をつけたところで、後ろから同僚の柏崎が声をかけた。
「あ、まだ。悪い」
「黄色いメモです。T企画さんとの打ち合わせ」
「時間変更?」
「15時に」
 テンポよく進む会話は常のことで、数多い後輩の中でも一番出来る柏崎だが、同じチームでも最も越野と気の合う同僚でもあった。了解と相槌を打って、柏崎にもコーヒーを手渡す。にかっと笑って、どうも、と言う柏崎に、何だかほっとするような心地を覚えた。
「なんです?」
 視線に気付いて、柏崎が眉をひょいと動かす。
「いや…はは、なんかお前見てると気が抜けんだよな」
「何すかそれえ…」
 180を越えるかという大きな男が口を尖らせる姿に、越野は思わず破顔した。感情表現が豊かで元気が良く、会社の飲み会などでは調子よく場を盛り上げる柏崎には、越野もかなり気を許している。弟のような愛嬌や、それでいて仕事は抜群に出来るその要領の良さもそうだが、何よりも自分に懐いていることで彼を気に入っている部分があった。昔から周囲に「兄貴肌」と言われて久しいが、二言目には「越野さん」と言う柏崎を見ていると、自分でもそうだと認めざるを得ないときがある。そういうときはいつだって、穏やかな気持ちになった。
「プロジェクト、頑張りましょうね」
 コーヒーの紙コップを「リサイクル」と書かれたゴミ箱に投げ入れながら、柏崎が目を輝かせて笑った。クリスマスを心待ちにする子どもみたいだ、とひっそり胸の内で笑う。今秋には、越野と柏崎、そして比較的若い者達が中心になって進めている初めてのプロジェクトが待っている。決して大規模ではないが、まだ新人に毛が生えた程度の越野達には早いという声もあったところを、上司と駆け合って一任して貰えた大事な企画だった。
「まずは今日、先方と話詰めなきゃな」
 そう言って、ぽんとその肩を叩く。柏崎が嬉しそうに振り向いて、頼りにしてます、と言った。
 自分達のそんな光景に、また安心感のような、同時にどうしてかすこしの既視感のようなものを覚えて、越野は一瞬肩をすくめた。


 週の半ばを一日過ぎた木曜日が、社会人には最も疲れの溜まる日かもしれない。そんな日の朝早く、慌しく用意しながら開いた充電済みの携帯電話には、仙道からのメールがぽつんと届いていた。家を出る寸前だった足を留めて、玄関前でそのメールを開く。
『今夜、部屋に行く』
 「行きたい」、或いは「行っていいか」と言う双方向的なものではなく、ただ「行く」という決定事項だけを伝えるメール。それは今となってはいつものことだったが、しかし、最後に会ったのは4日前だ。ここ1,2年は一月に一度のペースでしか会うことのなくなった仙道だが、大方気まぐれでも起こしたのだろうと越野は溜息をついて返信をする。了解、とたった二文字、それで十分だった。
 通勤電車に乗り込めば、ラッシュのせいで朝だというのに熱気が立ち込めた。朝食を抜いたせいかちょっとくらりとしたが、手近な吊革を握りこむ。カバンを足の間に置いて体勢を整えると、ふと目の前の男性が読むスポーツ新聞が目に入った。スクープ、という下品なほどに派手なゴシック体のすぐ下に、見慣れた名前があった。
 ──仙道彰(27)、新恋人か?若手女優M(23)と都内ホテルで密会!
 その記事を見て、成程な、と合点が行った。記事にはでかでかと、仙道とその女優が向かい合っている写真が載せられてある。Mと言えばグラビアから役者に転向して、今期のドラマにも起用されていた。そのすらりとしたスタイルと思い切りのいい演技で、越野でも知っているくらい、いま注目されている女優だった。仙道は仙道で、数年前にアメリカから帰国して以来、今や「バスケの」という冠詞を自らのものにし、選手としても最も脂の乗った時期である。メディアからは、一流の芸能人と比較しても遜色の無いほどの扱いを受けていた。そんな二人にスキャンダルがあれば、仙道の住むマンションが徹底的にメディアから張られているのだろうということは、容易に想像できた。
 要するに、カメラから逃げるためのホテル代わりか。
 セックス付きの、と胸の内で付け足して自嘲した。今回が初めてではない。もう、数えるのも馬鹿らしいほどに同じ事を繰り返していた。越野はそのスポーツ新聞から興味を失ったように目を逸らして、電車の外を見た。ガタン、ゴトン、と一定の揺れを加える東京の電車は、随分先を急いでいるように思えた。昔飽きるほど乗った、トロッコのような小ぶりのあの電車は、どのように湘南の海沿いを走っていたんだっけ。そう考えるも、頭に浮かんではこない。思い出せないのか、思い出したくないのか、越野にはそのどちらだか分からなかった。スポットライトの当たる世界で女との駆け引きを楽しんでいる仙道の、気まぐれと惰性の産物で続くこの関係。終わらせたいのか、そうでないのか、そのどちらでもいいような気がした。ただ疲れていた。木曜日だからというだけではなく、仙道との関係に。