アブソリュート・ブルー 7

 練習に明け暮れる初夏は存外に早く過ぎていく。ブロック予選の決勝はもう二日後の土曜日に迫っていた。陵南はシード校なので、ブロックから勝ち上がってきた高校と四回戦という形で対戦する。今年の対戦相手は秦野北で、近年になって力を伸ばしている高校ではあるが、まだまだ格下と言えるだろう。しかし陵南にとっては事実上の初戦になるので、気を引き締めなければならない。しかし頭ではそう思っていても平素の怠惰を突然改められるはずもなく、仙道は今朝も、遅くもなければ早くもない時間に陵南高校の坂を歩く。下から見上げると傾斜がきつく見えるが、歩き慣れていればそうでもない。
 一年生の春、朝練に遅れずに参加する習慣がどうしてもつかなかった仙道は、三日に一度は寝過ごして田岡の血圧を上げていた。それを見かねた越野が、先輩から促されたこともあり、夏の大会前には毎日部屋まで迎えに来るようになっていた。始めこそ面倒なことになったと思ったのだが、じきに、毎朝きっちり同じ時間にインターホンが鳴るのが楽しみになっていた。歯磨きを済ませて越野が来るよりも先に玄関のドアを開けたときの、越野の驚いた顔が忘れられない。遅刻したときに般若の顔でなじるのと同じくらいの正直さで、越野は仙道をよく褒める。仙道のファイン・プレイを見逃さず、必ず気付いてくれるのだ。驚いた顔が満面の笑みに変わるその瞬間、それを見るのが好きだった。そうしてその後にかけられる褒め言葉に何気なく応えながら、内心でしたり顔をしていたのだった。仙道はそれを思い出して、自分の単純さに苦笑した。
 越野が迎えに来なくなったのは、いつからだったろう。朝練に何とか間に合う範疇に目を覚ます癖がついたころ、多少の余裕が出来た仙道は、その時々の彼女を部屋に連れ込むようになっていた。いわゆる二股や浮気など校内で悪評が立つような真似はしなかったので、越野も仙道の女関係については何も言わなかった。しかし早朝の玄関先で、部屋に泊まった彼女と鉢合わせしてしまったときなどは、顔を赤らめて俯き、仙道を置いて一人で練習に行ってしまうのだった。そういう日は大抵、朝練でよく睨みつけられたものだ。
 一年生の秋頃に、年上の大学生と付き合っていた頃があった。彼女が出来ても一ヶ月持てばよかった方の仙道が、めずらしく三ヶ月ほども続いた女性だった。理子という名前の、年上らしくさっぱりした印象の女性で、134号線沿いのレストランでアルバイトをしていた。バイト帰りの彼女がコンビニの前でタバコを吸っているところに、ポカリを買いに行った仙道が声をかけた。神奈川の地元から都内の大学へ通っていると話す理子は、「高校生って知ってたら着いていかなかったのに」などと言いながら、化粧っ気のない顔でよく豪快に笑った。その理子から、大学が忙しくなるからもう来ない、とあっさり告げられたときには、さすがの仙道も何となく寂しくなり、それから数日間、腰越漁港に釣りに通ったものだ。
 越野が迎えに来なくなったのは、確か、その理子と付き合っているときだった。仙道にしては入れ込んでいた方だったと自分でも思うくらいだから、遠慮をさせてしまったのだろう。思えばわざわざ迎えに来て貰っている身で、失礼なことをしていたものだ。仙道はその事実にほとんど今初めて気付いて、頭を掻いた。過去の自分を恨めしく思う。自分では勘がいい方だと思っていたのだったが、意識していなければ、おそらく自分は色々なことに気付けていない。越野のことを今になって知りたいと思っても、過去に遡ってまで容易に聞き出せるものではない。
 そんなことを考えながら体育館に入ると、朝練はまだ始まっていなかった。早く来て掃除とボール出しを済ませた一年生に、明治や植草がシュートフォームを教えている。普段なら来ているはずの姿が見えないことを不思議に思い、ストレッチをしていた彦一に声をかけた。
「…越野は?」
「おはようさんです! 越野さんは今日お休みやそうです!」
「……休み?」
「風邪らしいでっせ。珍しいから心配ですわ…でもまあこの時期やから、無理せんと休みはった方がええんですよね」
「……。だな」
 越野が風邪で練習を休むことは滅多にない。一年のウィンターカップを終えたあと、バスケ部じゅうでインフルエンザが蔓延したときだって、越野はぴんぴんして毎日練習に参加していたのだ。昨日も一昨日も、特に変わった様子は無かったのに。あかりと小夜が体育祭の準備で忙しく、二人だけで昼食をとったのだが、そのときの越野はいつもより口数が少なかっただろうか。昨日の帰りはいつも通り踏切前の曲がり角で別れたが、具合が悪いそぶりなど見せていなかった。仙道はふと思い当たって、振り返りかけていた踵を返す。
「誰に連絡来た? ……越野から」
「あ、植草さんが言うてはりましたよ。メールが来たそうで」
「…そっか」
 考えないようにしていたが、やはりあの奈緒と会わせた日から、越野は仙道を微妙に避けているのかもしれない。余計なことをしたということは、仙道にもよく分かっている。

 池上から声をかけられたのは、越野の居ない夕練も終わる頃だった。ダウンの後、皆で輪になって最終的なフォーメーションを確認する。この一週間は、士気を高めるためだろう、このような練習後の寄り合いの時間を田岡は頻繁にとっている。高校総体の緒戦、そしてリーグ戦を控えたこの時期に、練習だけではなく学校自体も欠席するようなひどい風邪をひいた越野を、けしからん、と、田岡は心配そうに言っていた。そうして練習終わりの挨拶を済ませるころ、仙道は名前を呼ばれて振り向いた。
「越野なんだけど、あいつ最近なんかあったのか?」
「……どうしてですか?」
「はあ? どうしてって、もうずっと元気ねえだろ。去年の今の時期なんて、あいつスタメンでもねえのに毎日うるせえくらいに騒いでたじゃねえか」
「…そうですね」
「もしかして、彼女と別れたのか?」
「彼女?」
 仙道はぎょっとして池上を見た。なにをいまさら、という顔をして、池上はタオルで汗を拭く。
「ほら、バド部のすげえ可愛い子。瀬名とかいう」
「瀬名あかり? 彼女じゃないと思いますけど…」
「え、だってバドの羽根つけてんじゃん。あれおそろいじゃねえの?ヒコなんか目ざとく反応してたぜ」
「…同中で仲いいだけじゃないですかね」
「ふうん…ま、とりあえずだ。フォローしてやってな」
 池上は言いながら口元でちょっと笑って、仙道を見た。それに気付いた仙道は、先輩に対して返事代わりの一礼をすると、そそくさと体育館を出る。池上は仙道の性格をよく理解しているのか、あまり大仰な言い方をしないし、周りを気遣う割には人の問題に自身で介入しようともしない。越野に朝の迎えをやんわりと促したのも池上だったそうだ。仙道は池上のそんなところに好感を持っていたのだが、勘が良すぎるところが少し苦手でもある。何となく、同じタイプの人間なのだろうと思うからだ。
 格技場の脇の渡り廊下を通って部室に向かう。月曜日から降っては止み、止んでは降る雨が、プレハブの屋根から伝い落ちている。その糸水が風で吹き乱されて、渡り廊下から仙道の頬に降りかかった。
 ──フォローなんてできるはずがない。自分はといえば、もうずっと越野を困らせてばかりだ。越野のためと言いながら、仙道を動かすのはいつも傲慢な衝動なのだということにくらい、とうの昔に気付いている。そのくせ、悲しむ越野に対して何もできずに、棒切れのように寄り添っているしかないのだった。それが自分のもたらした結果なのに、越野の泣き顔を見て、喉元がひりひりするくらいの痛みを覚えているのだ。
 それでも仙道には、越野に差し出す腕がない。支える方法が、手立てがない。

 部室に戻って携帯電話を開けば、そこに入っていたのは越野からではなく、奈緒からのメールだった。会いたい、と一言書かれたメールに溜息をつきながら、それを再びパカリと閉じた。
『奈緒とはもう別れるよ』
 日曜日に越野と水道で言い合ったときに、自分が放った言葉だった。あれからもう四日経つが、結局奈緒には連絡の一つも入れられないままだった。今までの恋人とも、もともといつからいつまでとは言えない曖昧な付き合い方をしてきた仙道だったから、今度もそれでいいだろうと高をくくったのである。自分が奈緒と別れたという事実は、越野にとっての何かしらの後押しとなるのだろうか。自分がしようとしていることは、今度こそ本当に越野のためになるのだろうか。障害が無くなってしまえば、越野はまた奈緒を抱くことがあるのだろうか。仙道はそこまで考えると、越野がしていたように、かりかりと首の後ろを右手で掻いた。癖までうつるものなのか、と自嘲気味にひとりごちると、ほとんど誰も居なくなった部室を後にした。
 ビニール傘を片手で持ちながら坂を下り、踏み切りの分かれ道で134号線沿いに行ったところに仙道のアパートがある。そこまでは歩いて十分程度だったが、仙道はその道が好きだった。照り返す夕日を浴びる江ノ島を背に帰途を行くのが特に気に入っていたのだが、今日は霧のような雨のなか、その島は灰色に霞んで見えた。こんな雨の日には潮のにおいがとりわけ強く、ざああ、という波と雨ともつかない水音と一緒に、いつまでも仙道の背中を追いかける。鉄を錆びつかせるこの潮風が、仙道は今や好きになっていた。
 そうやってぱしゃ、ぱしゃ、と水溜りを踏みながら、国道の歩道をゆっくりと歩いていく。歩いていくうちに、夜空が段々と顔を出していく。霞のような雨は空気にもやをかけるように、通り過ぎていく江ノ電の光や自動車のランプをぼんやりと仙道のビニール傘に映し出した。そこから見えた影に、見知った人がいる。華奢で儚い、抱くと香水のかおりのする人だった。
「奈緒」
「……」
「何で傘ささないの。持ってるのに」
「…ごめんね」
「何で謝るのかわかんねえよ」
 言いながら傘を差し出して、そこに奈緒の身体をおさめた。濡れたスクールバッグと、その機能を果たせていない傘を、仙道は奈緒の右手から自分の左手に持たせ替えた。相変わらずの無表情だが、顔に当たる雨粒がつい数日前の涙を思い起こさせて、仙道は思わずその細い腕をとったのだった。