有楽町線ラヴ・バラッド
学生の身でブランドなんて、と思ったのだけれど、自分には身の程違いのそのパスケースは、黒く染められた質の良い皮がなめらかに光沢を帯びていて、きっと仙道が持てば憎らしいほど似合ってしまうだろう。そう思った瞬間には、店員に声をかけていた。自分が持つには上品すぎるブランド名の刻印も、その恋人が懐から出すのなら全く嫌味にはならない。それが越野のひそやかな誇りでもある。仙道の20回目の誕生日、一ヶ月間バイトに明け暮れ贈ったそのパスケースは、今や新しい持ち主から片時も離れずに、いつでも仙道と一緒に居る。越野が風呂から上がってリビングに戻るとき、仙道が時折それを大事そうに眺めているのを見るたびに、越野はとても暖かい気持ちになる。そうして一緒に不安にもなる。この恋人を、離したくないと強く思う。こういう感情はたいてい、幸せなときにこそ頭をもたげるのだ。
20:52 池袋のサンシャイン通りを抜けたところ、銀行裏の路地
大学とバイトを終えて帰るその道の途中、仙道から一本の電話が入った。吐く息も白い12月、心なしか池袋のサンシャイン通りの人並みも先を急いでいるように見える。パチンコ屋から流れる浮かれた音楽に片耳をふさぎながら、越野は仙道からの着信にもう一方の耳を傾ける。
『越野、ごめん。今日ちょっと遅くなりそう…』
電話口からは焦ったような、困ったような仙道の声がする。謝るときはたいてい、こんな風に情けない声になるのだ。声のうしろで、チリン、と鈴の鳴るような音と、車道を走る乾いたタイヤの音が聞こえてきた。
「そっか。いいよ、どんくらい?」
『分かんねえ…でも、できるだけ急いで帰るから。本当にごめんな』
続けざまに何度も謝って、急いでいるのだろう、仙道はそのあとすぐに電話を切った。越野はふうと息をつく、その息がふわりと舞い上がっては、周囲の賑やかさのなかに消えた。笑顔のカーネル・サンダースの隣で、そのファスト・フードの店員が揃いの赤いコスチュームを着て、道行く人にチキンのセットを売っている。いいや、あれは整理券を配っているのだ、その脇の小道には店内に入りきらないほどの長蛇の人の列がみな一様に頬を染めていた。
『急がなくてもいいから、気を付けてな。池袋で茶でもしてる。』
嘘と本音が半分ずつのそんなメールを送信すると、越野は人でごった返すサンシャイン通りから抜け出した。鼻の頭を掠めていく冷たい空気が心地よいから、地下ではなく地上を通って池袋駅へ向かう。先ほどまでの歩調を緩め、ゆったりと歩きながら駅前の横断歩道で立ち止まれば、銀行裏の路上からやさしいギターの音が聞こえてくる。
──時の流れ いつでも駆け抜けてゆくから……
ウィスパー・ボイスに引かれるようにして、もう営業を終えた銀行のシャッターの前の小さな人だかりに加わった。ギターひとつで歌うこのシンガーは、時々こうして現れて、絵本のような優しい声を聴かせてくれる。
交番の横に立つ大きな時計を見上げれば、21時を指している。仙道と会えるだろうか、この24日の間に。今日はイヴだから、特別な日だから。越野はそこにしゃがんでまた息をつく。それをふと見たシンガーが囁くように歌いながら、にこりと微笑んだ。
──優しさだけ 忘れずに 抱き締めていよう……
道端のクリスマス・ライヴに響くその曲は、越野もいつか歌ったことのある、明日という名前のついた歌だった。
21:36 駅のオープン・カフェ、有楽町線のホーム
二十歳の誕生日からもう二年が経ち、二人は大学を卒業する年になっていた。越野は都内の出版者から内定を貰い、インカレでも華々しい成績をおさめていた仙道は、バスケ推薦で日本企業に就職を決めた。渡米という選択肢もあったが、それについては散々話し合い何度も涙を流しながらも、最終的に日本での活躍を望んだのは仙道自身だった。一生分ほども悩み尽くして決めたことだ、これについてはもう何も言わないと一度は二人で決めた。物理的に近くに居て、触れることができる。アメリカには行かないとそう伝えられたとき、最も嬉しく思ったのは間違いなく自分だろう。けれども、仙道がバスケットを一番に選び取らなかったことを、最も悲しんでいるのもまた、越野だった。
『ごめん、まだ帰れそうにない。でも、必ず今日中に帰るから。』
30分後に来た仙道からの返信に、わかった、と返しながら、越野は駅のカフェで日替わりのコーヒーをすする。メトロポリタン・プラザに面したテラス席からは、待ち合わせに使われる白い噴水が見える。携帯画面を嬉しそうに見つめながら待っていた女性が、今日これから共に過ごすだろう男性に手を振って駆けて行く。白いコートの裾がはためきながら視界から消えた。越野はマフラーに口元をほとんど埋めて、暖かいコーヒーをまた一口すすった。
仙道は今日の夕方から、内定先の企業の社長と会食の予定が入っている。イヴなのは、その場が会社主催のミニ・パーティだからだ。各方面の関係者だけを集めた内輪のパーティで、言うなれば、社長が勝ち取った仙道彰というスター選手のお披露目も兼ねているのだ。会社の持つレストランバーで開かれているそのパーティは、仙道にとって大切なイベントになるだろう。その邪魔をしたくはなかったのだけれど、と越野は思う。それでも、傍で待っているくらいは許されるだろう。
池袋から銀座は遠いが、日本とアメリカほどではない。越野は真冬の空気に冷やされたシルバーの椅子から腰を上げると、右奥に見えていた地下鉄の改札へと向かった。頭の中には、さきほどのスロウ・テンポのバラードが流れている。二番を聞く前に青信号を渡ってしまったけれど、声と同じくらい優しく微笑んだあのシンガーの歌を、また聴くことができるだろうか。
「tomorrow,tomorrow...」
ホームで並ぶ他の客に聞かれないくらいの微かな声で、越野は歌の続きを口ずさんだ。新木場行きの電車の到着する音に、それはすぐに掻き消された。
22:08 銀座、夜の中央通りのダイニング・バー
銀座一丁目の駅からコンコースを歩いて外に出ると、乾いた冷たい空気がひゅう、と頬を撫でて行った。夜空を見上げても雪が降る気配はないのに、どうして
こんなに寒いのだろう。夜更けの中央通りはそれでもやはり人が多く、シャネルの店舗がクリスマス限定のライトアップで、ガラス張りの壁面をいっそう華やか
に飾っていた。聞いていた会場のレストランは、銀座によく似合う煉瓦造りで、重厚な中にもハイセンスな装飾が施されている。レストランというよりはバーに
近い雰囲気で、窓はあまり無く、中の様子は分からない。越野はダウンジャケットのポケットに手を突っ込んで、近くの真鍮の車避けに腰をかける。こんなとこ
ろで待っているのを、仙道に知られたくはなかった。けれども同時に、こんなにも帰りを待っているのだと、知って欲しくもある。言葉では何を言っても伝わら
ないほどの思いは、仙道だけではなく自分の中にもある。越野は、ポケットの中でぎゅうと拳を握りこんだ。手のひらのなかの小さな決意が、暖かいダウンジャ
ケットの中で揺れている。
じきにダイニングバーのドアが開いて、中から白のシャツと黒のエプロンをつけた初老の店員が出てきた。そうして、店先のランプとネオンのついたサイン
ボードを両手で抱えて、店の中へ運び込もうとしている。越野はそれを見て、慌ててその店員に声をかけた。チーフと刻印されたネームプレートをつけていて、
越野は訳もなく緊張した。
「あの!」
「はい?」
「ええと…こちらで開かれているパーティなんですが…。今もやってるんですか?」
「ああ、オーナーのパーティですね。そちらのご予定は、一時間ほど前にすべて終了しておりますが」
「え…、そうなんですか?」
ええ、と一礼して、店員はサインボードをもう一度上に持ち上げる。
「あれ」
「え?」
店員が間の抜けた声を出したので、越野も思わず振り向いた。店員が持ち上げたサインボードと壁の間に、見慣れたパスケースが落ちている。GUCCI、と
刻印されたそれは、間違いなく自分が仙道にあげたものだった。
「あっ、これ…仙道の」
「ここにあったのかあ」
ほとんど同時に言葉を発した二人だったが、お互いがお互いに驚いてしばし呆然としたあと、店員がそのパスケースをゆっくりと拾う。そうしてそれを開いて
中身を一度確認したあと、人好きのする笑顔でにこりと笑った。
「いや、失礼を致しました。仙道様が、こちらのパスケースをずっと探していらしたんです。私どもでも店内をくまなく探したのですが、見つからなくて。仙道
様も先ほどまでいらっしゃったのですが、駅から当店までの道を探してみると仰って、つい15分ほど前にこちらをお出になりました」
「……」
「…仙道様のご友人の方でいらっしゃいますか?」
「あ! はい、ええと、じゃあ…それおれが受け取…あ、み、身分証とか…」
越野はごそごそとバッグの中身を漁り出して、免許証を見せた。と言っても、自分の身分証では仙道の友達だと言うことを証明できるはずもない。それに気付
いて伺うように店員を見れば、優しい顔をしたその相手は、孫を見るような顔つきで微笑んだ。
「いいんですよ。先ほど仙道様がお電話されていた相手の方ではありませんか?」
「え?」
「いや、さっきね。掃除に出ましたら、こちらでお電話されていたのを拝見したもので」
「…多分そうだと思います」
「でしたら、これ、仙道様にお返し頂けますか?」
「…いいんですか?」
「ええ、勿論。越野様になら」
「はあ…有難うございます」
店員はにこり、と笑って、また看板を持ち上げた。店のドアを開けたとき、チリン、と鈴の音が鳴った。そうしてそれを閉める前にひょっこりと顔を出すと、
「メリー・クリスマス」
と、笑いかけた。
22:35 銀座一丁目駅のホーム、池袋
『ごめん。今から急いで向かうよ。とりあえず池袋に向かってる。それから、謝りたいことがあるんだ。許してもらえるかどうかは分からないけど…』
ホームに着いた頃に届いたメールに、越野は思わず吹き出してしまった。そうして返事のメールを打ち始めたが、思い直して携帯を閉じる。森林公園行きの電
車に乗り込めば、あと20分で池袋だ。
いつもと変わらないような、また少し違うような。乗り慣れていない路線だからなのか、今日がイヴだからそう見えるのか。少し色合いの違う、しかしいつも
通りに混み合う車内で吊革に掴まりながら、越野は仙道を思い浮かべる。越野と電話をしていて、越野から貰ったパスケースを落とした仙道を思い浮かべ、また
それを必死に探し回る仙道を思い浮かべる。思い浮かべては笑顔になり、それを隠すために口元に手を当てる。今日はイヴだけれど、プレゼントはそれだけでい
い。そうして仙道に会うことができたら、それだけでいいと思う。越野はまた、癖のようにポケットの中身を探る。
──次は、池袋、池袋です…──
アナウンスの後、プシュ、という音と共に車内の半分ほどの客がホームに飛び出した。その流れに乗るように、エスカレータの右側をほとんど小走りで上って
いく。ピッ、という電子音が改札口から聞こえるころ、ジーンズの尻ポケットで携帯が震えた。
「はい。…仙道?」
「…ごめん…」
「はは、何がだよ。おれも今、池袋に居るよ」
「…どこに行けばいい?」
「……」
「越野?」
「……銀行裏、三越んとこ」
越野の頭の中で、あのウィスパー・ボイスがまた優しく音楽を紡ぎ出した。
23:05 銀行裏の路地、ウィスパー・ボイスのシンガーの前
二時間ぶりだが、そのシンガーはまだそこで歌っていた。池袋の繁華街の方から続々と帰る人の群れの先、背の低い華奢な女性がスタンドマイクの前、少し背中を丸めて歌を歌う。手書きのボードには、「Merry
X'mas!」と書かれていた。幾人かのカップルや、仕事帰りの会社員が立ち止まって、一心にその歌を聴いている。語りかけるような声に、誰もが目を伏せて何かを思っている。仙道も例外ではないようだった。
「仙道」
「…越野」
「おつかれさん」
笑いかけながらシンガーの向かい、ルイ・ヴィトンのショー・ウインドウのあたりに移動する。路地を駅に向かって歩く人々を眺めながら、越野は仙道の顔を見た。目が合うと、仙道は途端にうな垂れる。
「ごめん、越野。おれ、お前から貰った…」
「はい、返す」
「……え……」
「こんな日に、いつまでもそんな顔させらんねえから。ほら、さっさと受け取れよ!おれがやったパスケース!」
「……何で…」
「うーん、エスパー?」
言うと仙道は泣き笑いのような顔をして、それを受け取り、そうして中を開きかけてそこでふと止めた。越野はそれに、見なかった振りをする。風呂上りや夜中に目を覚ましたときに、仙道がその中身を見て穏やかに笑っているところを見たことがあった。それが仙道の秘密なら、自分が知る必要はないのだ。幸せや愛
情は、いつも知らないところで流れていることを、今日もひとつ知ったばかりなのだから。
「…そんで、これはプレゼント」
越野は何度も何度も握ったその小箱を取り出して、仙道に突きつけた。恥ずかしくて仕方がないが、それこそ仕方ない。恥ずかしいのは承知の上で、このプレゼントを選んだのだ。
「……誕生日おめでと」
「……」
24日は、イヴだから特別なのではない。今日は仙道の誕生日なのだった。仙道は無言で、その小さい箱を見つめる。ふたり吐く息を白くしながら、池袋の路上で開くプレゼント。それだけ見たならきっと笑ってしまうだろうと思ったが、聴こえて来る囁くような高音の声に、泣いてしまいそうになる。さきほど聴きそ
びれた歌の二番が、ひそやかに流れた。仙道が鼻をすすりながらその小箱を開けて、それをかざすように池袋のネオンの方へ向ける。丸い縁取りに夜をくりぬいて、まるで新月のようだ。
「”come back home.”……」
ほとんど掠れていて聞こえなかったけれど、その声はリングの裏側のメッセージをなぞる。越野はまた、ぎゅうとポケットの中で手を握っていた。今まで握りこんでいたその指輪は、今やもう仙道の手の中にある。越野はまっすぐに仙道を見つめた。
「おれは、お前が帰ってきてくれるなら、それでいい」
「……」
「お前が帰ってくるのがおれんとこなら、お前が世界中どこに居たって、おれは大丈夫」
「…越野」
「だから…、行きたかったら、行ってもいいんだ」
「……」
「本当に、いいんだ…っ」
語尾が震えるのは、寒さのせいと、その寂しさを少しだけ思い浮かべてしまったからだ。越野が俯くと、仙道は早速その指輪を嵌めて、ニヘヘ、と変な笑い方をした。緊張感の無さに、越野は思わずその顔を見上げる。上を向いた瞬間に鼻水が出てしまいそうになるのを、慌てて右手で抑えた。
「越野、ありがとう」
「……うん」
「それで、おれからのクリスマス・プレゼントは、これ」
「え?」
チャリ、という音と一緒に出てきたのは、黒いキーケースと、そこに繋がれた家の鍵だった。
「このキーケースは、おれのパスケースとお揃いね」
「いや…そりゃ見れば分かるけどよ、何の鍵だよ、これ」
「次におれらが住むマンション」
「はあ?」
「次におれらが住むマンション。まだ賃貸だけどね」
仙道がほとんど同じことを二回言ったので、越野は殴りたくなる衝動をすんでのところで抑え、さらに仙道に詰め寄った。
「どういうことだよ。おれ、今…」
「越野が言いたいことは分かったよ。本当に嬉しかった。でも、おれはアメリカには行かない」
「……」
「日本でも最高のプレイはできる。越野の傍に居たいんだ」
「……お前、いいのかよ」
涙目で睨みつければ、仙道は、ははは、と暢気に笑い出す。
「……越野もしつこいよなあ、やっと説得できたと思ってたのに。でもな、越野。おれは、お前だけを選んだんじゃない」
「……」
「もうずっと前から、おれにとってバスケは越野有りき、なんだ。分かるか? お前がそばに居てくれないと、おれはきっとバスケも何もできない」
「…んなこと」
「でも、越野が居てくれれば。おれは、バスケだって、何だってできる」
「……おまえ、ばかだろ」
「ちなみに新居は豊洲ね。…海の近くが良かったから」
笑顔で言った仙道の顔が、けれどあんまり真剣で、あんまり嬉しそうで、越野は思わず両手に顔を埋める。ううう、と言いながらうずくまったその頭をぽんぽんと撫でながら、仙道が嬉しそうに指輪を撫でるのを、越野は指の間から見た。
──tomorrow,tomorrow...
懐かしく優しいメロディーが、越野の耳に触れていく。終電に急ぐ人達が、小走りでその歌と冬の空気の中を駆け抜けていく。真冬の月に溶けて行くようなその歌声を、ただぼおっと聴きながら、ふと仙道が呟いた。
「あ、おれ、この曲知ってる」
「…おせえ」
メリー・クリスマス!
[end.]