夢の終わり、祈りの行方

 越野が倒れたのは、夏の暑い日だった。練習に遅れて行く途中に携帯電話からそれを聞いたとき、仙道は遅刻したことを少しだけ後悔した。後悔はしたが、越野の倒れた理由に関しては十中八九、バスケットプレイヤーによく起こる、鉄欠乏性の貧血だと疑わなかった。電話口の植草の声も、心配そうではあったが、必要以上の感情の揺れは含んでいなかったからだ。
 越野の病気が命に直結すると知ったのは、それから三週間の後だった。いわゆる急性白血病、半年後の生存率は10パーセントだと越野の父親がうなだれながら告げた。テレビの中でよく聞くその病名の非現実さに、仙道はめまいがした。めまいがしたあと、仙道はまず悲しもうとした。なるべく悲観的な視線で、白くて清潔なベッドに眠る越野を見つめた。けれども不思議と、疑問以外のいかなる感情も湧いてはこない。そのうち、なぜ自分がそこにいるのかすら定かではなくなってきた。それが混乱だと気付いたのは、それからさらに二週間後のことだった。
 夢と現実の区別がつかなくなってきたのは、さらに2ヶ月後、秋も半ばの頃だった。仙道自身は季節など覚えていない有り様であったが、後から人にそう言われたのである。
 三年目に初めて掴んだ全国への切符だったが、陵南は初戦であっけなく負けていた。仙道が、開始から10分も経たぬうちに、バスケットをやめてしまったからである。貰ったパスに反応せず、もはやそこがコートだということも忘れたように虚ろにただ立ちすくむ、かつてエース「だった」男に、仲間の誰も怒声など浴びせられなかった。また、怒声を浴びせられる唯一の人間が不在であり、その不在こそが仙道の再起不能の理由なのだ。その頃にはもうチーム中が、越野に迫る死に、漠然とした、幼い覚悟を持ち始めていた。それは恐怖にも近い半端な感情で、彼に勝利を持ち帰るという約束を果たせなかったことよりも、いよいよ現実的になったその死が悲しくて、恐ろしくて、彼らは試合の終わったコートで泣いた。物語の登場人物のような、器用な悲しみ方をできる者は居ない。仙道を含めて、彼らはまだ、近しい人の死を経験したことがない高校生だったのだ。田岡さえも、プレイを辞めた仙道や、それを諫めない選手達を咎めることはできなかった。
 そうして夏が終わり秋も半ばになったころ、仙道は毎朝はやくに目を覚ますと、夢の続きを見ているような虚ろさで、学校ではなく病院に向かうようになっていた。その頃の越野にもう髪の毛は無く、白い顔にのせる笑顔も力弱く、仙道はそれを見るたびに──つまりほとんど毎朝──自分の命が尽きてしまうのではないかと思うくらいに、全身から力が抜けるのを感じていた。同時に、「現実」という名で仙道に襲いかかる非現実な世界と、それを拒否するために作り上げた夢の深淵に、目を開けながらもいっそう深く墜ちていくのだった。身体の内から外から、すり減るように疲弊していくのだった。それは一種の倒錯でもあったが、その頃の仙道はそれを知る由もなかった。
 現実と現実でないもの、夢と夢でないものが混じり混じり合い、悲しみすらも無秩序な混沌となっていたころのことだった。それでも必ず行き着いてしまう越野の病室で、二人はある日、ある会話を交わした。越野は身体をかろうじて起こして窓の外を見つめ、仙道はただ越野を見つめていた。その仙道の表情こそ、息をしない能面のようだということ、そんな仙道に越野がもうずっと目を合わせようとしないことに、仙道は気付かない。それほどに深く沈んでしまっていたのだ。悲しみに。闇に、狂気に、絶望に。死に。
「――なあ、越野」
「ん? …あ、ほら仙道。患者さんかな? 子どもが遊んでる…」
「越野、聞いて…なあ越野? そろそろ起きて話を聞いてくれよ」
「聞いてるよ、仙道。起きてるし、聞いてる」
「聞いてない。これは頭の中の越野だ。目の前にいる越野は眠ったまま目を開けてくれない」
「ちゃんと起きてる。窓の外を見て、お前に話しかけてる」
「ああ…目を覚ましたんだ?よかった……最近いつだって眠ってんじゃねえか、なあ越野?」
「うん…」
 仙道は捲くし立てる。越野は仙道の方に顔を傾けた。視線は下に向けたままだった。
「俺…だから、お前が」
「うん」
「お前が、本当に目を覚ますかどうか、いつも心配なんだ。心配でどうにかなりそうなんだ。怖いんだよ。毎日、毎朝、いつも。なあ…なあ越野、」
「仙道」
「…なあ本当に聞こえてんのか? 聞こえてんの、お前はまだ起きてる? 夢じゃなくて、俺の夢ん中じゃなくて…」
「仙道――聞いてる…聞こえてるよ…俺はまだ」
 言葉を遮って、仙道は越野のベッドにすがるように飛び付いた。
「越野」
 やせ細った手を震えるほどに握り込む。力を込めた仙道の拳も、病人のように白くなる。
「越野、俺、お前が居なくなったらどうすればいい」
「……」
「なあ、お前が居なくなったらどうすればいい? 泣けばいい? 憎めばいい? 死ねばいいか? なあ…越野」
「…下らねえこと言うなよ」
「怖いんだ、がんじがらめなんだ、苦しいんだ…何もできやしねえよ、なあ越野、越野…! どうせ何もできなくなる、お前がいなきゃ、俺は…っ」
「……仙道、黙れ」
「もうバスケットもできねえ、息だって止まりそうだ、越野…お前がひとつ残らずこの世界から居なくなったら、…」
「仙道、おまえ」
 仙道はいまや涙を流していた。そうして、ふいに何かを思いつくと、その口角が僅かに上がる。さらに涙をぼろぼろとベッドに落とした。
「……、そうだ越野、そうだそうだ…、こうしろよ。残していってくれよ、俺に、お前の精子を、精子をくれ」
「……っ」
「それでな、越野。俺、お前の精子でこどもをつくるよ。女はお前が選んだらいい。それで産ませるんだ…お前のこどもだよ、それがいい、そうすれば俺は…俺は…っ」
「仙道!」
 思いがけない大声で、越野が怒鳴る。掠れてはいたが、仙道をほんの一瞬正気にさせるには十分だった。
「……っ」
「俺は…おれは!…まだ、死んでねえ」
「……」
「まだ生きてるだろうが? てめえのとち狂った目ん玉から見たら、もう逝っちまってるかもしんねえけどよ」
「……」
「おれ…おれだって、分かってる…髪も馬鹿みてえに抜けてくし、身体ももう動かねえ。だってよ、全部聞いたんだ、仙道。医者に無理言って、聞かしてもらったんだ。…だから、知ってんだよ、おれが死ぬ確率も」
「……っ」
「──生きる確率もだ」
 越野は、掴まれたままの指をほどいて、自らの手のひらで仙道のそれを握り返す。
「仙道、おれにどうしてほしい」
「……」
「分かんだろ? おまえだって、そう思うんだろ? でも、無理だと思うと悲しくて仕方なくて、言えねえんだろ? 仕方ねえよ、おれもう、こんなんだし……でもな、おれ、おれさあ…おまえには言ってほしいよ。もし無理だったとしても、おまえに言ってほしいんだよ…! なあ…仙道、おれに…っ、おれに、どうしてほしい」
「……」
「どうしてほしい」
「……っ」
「どうして…」
「──生きて欲しい! 決まってる…!」
「……っ」
 越野が瞬時に、またずいぶん久方ぶりに、仙道の顔を見た。そうしてこみあげるものを押さえつけるように、あるいは受け入れるように、歯をかみしめた。
「生きて欲しいよ、越野、夢じゃなくて、俺の夢じゃなくて、ここで、ずっと生きて欲しい。一緒に生きて欲しい」
「……仙道」
「死なないでくれ、越野…っ」
 越野は笑った。仙道の目を見ながら、そのときは確かに笑っていた。
「…やっと目を覚ましやがった。やっと、言いやがった…」
 そうして、まるで大切な約束のような言い方をする。仙道はそれを見て、さらにその手をぎゅうと握った。祈りのように。
「…俺は死なねえよ」
 そのときは確かに笑っていた。そのときは確かに、生きていた。




 *


 *


 *




「……ぱ、ぱあーぱ」
「あっ?」
 うっかり大きな声を出して顔を覗きこむと、それに驚いたのか、途端に赤ん坊が咆哮のように泣き出した。
 ――ぎゃあん、ぎゃあん。
 青空の下、その泣き声は風に運ばれるようにしてどこかに響いて行く。生きている者の、その象徴のように。
「ちょっとちょっと、何やってるのよお、彰君。貸して、ほら」
 仙道は胸に抱いていたその赤ん坊を、そうっと、けれど慣れた手つきで彼女の母親の元へ返す。
「ごめん、ごめん。でも今、パパって言ったんだ──宏未が」
「本当? 宏未、よしよし、ひろみちゃん、お喋り上手いのね。ほおら、泣かないで。ママって言えるかなあ?」
 器用に揺らしながら、優しい顔で覗き込めば、宏未はすぐに泣き止んで、大好きな母親の顔を小さな手のひらで撫でるように触れる。それを見て、仙道は愛しげに微笑んだ。
「もう、いじめられちゃったのねえ、彰パパに」
「やっぱ、宏未は似てるよなあ…この目のあたりなんか…」
「おい、仙道!」
 後から、ぶしつけに自分の名前を呼ぶ声がした。仙道はまた微笑みを深くする。
「──叔父さんに、そっくりだ」
「仙道って! それに姉ちゃんも。何やってんだよ、二次会遅れっぞ!」
「だって宏明。宏未の機嫌が悪いんだもの。彰君にあやしてもらってたら、ますます泣いちゃって」
「なあ越野、今さ、超可愛い顔で、俺のことパパって呼んでくれたよー」
「いつから宏未のパパになったんだよテメエは。ほら、姉ちゃん! 馬鹿と付き合ってねえで!」
「いいじゃないの、NBAのスターにぜひパパになってもらいたいわあ」
「おーおーそーかよ。おーい宏未、お前のパパ第二号はホモだぞ〜」
「…あのさ越野、それ人のこと言えなくねえ?」
「まあな。ほら、姉ちゃん、本物のパパが待ってっぞ。…今日は主役だろ?」
「そうね。それじゃあ、ひろみちゃんもパパのとこ行こうねえ」
「おら、仙道はこっち、俺が乗せてく」
「…え?」
「じゃ、姉ちゃん、あとでな!」
 弾んだ声でそう言うと、彼──越野宏明──は、ぽかんとする仙道の腕をひいて、爽やかな緑に囲まれた駐車場の方に歩き出した。

「越野、いつのまに免許取ったの?」
「お前が海の向こう側行ってる間に決まってるだろうが」
「就活とバイトしながら? 知らなかった」
「言わなかったの。この年で取ると手間も金もかかるって言うだろ? 年の数だけってよ」
「ふうん。で、どんくらいかかった?」
「驚くなよ。通学で、一ヶ月で取ったぜ」
「へえ」
 仙道は、高校を卒業した後から通い始めた、自分の教習を思い出した。五年前のことだ。運転自体は難なくこなせたのだが、遅刻欠席と勉強不足で、結局正式に免許を入手できたのは、大学一年の秋だった。
「学科で四回も落ちたテメエとは出来が違うんだよ」
 ケケケ、と笑って、越野が遠隔キーで白いセダンの鍵をガチャリとあけた。助手席に乗り込むと、眼前の青々とした木々のあいだから、白のチャペルの頭が見えた。少し掠れた金色の十字架は、それでも太陽の光を受けて光っている。越野はそれを、満足そうに見つめた。そうして、懐から初心者マークを取り出して、吸盤をフロントガラスにぺたりと貼り付ける。それが可笑しくて少し笑うと、越野がじとりと睨みつけた。けれどもすぐに笑顔になって、運転席から覗く青空を見上げて、息をついた。機嫌がいいのだ。
「…いい結婚式だったよな」
「ああ。綺麗だったなあ、お姉さん」
「……姉ちゃんはさ、俺の病気のことがあって、退院してもずっとなんやかんや世話してくれたからさ、入籍もバタバタしてたじゃん? 新婚旅行も行ってないし…本人は、『疲れるから子持ちで旅行なんて行きたくない』なんて言ってるけどさ」
「はは…幸絵さんらしいなあ」
「本当は…ふたりで生活切り詰めて、俺の入院費用、ちょっとずつ返してくれてんだよ。…だから、宏未も産まれたし、三人でちゃんとした式あげられて、……ほんとに良かった」
 ──越野は病気から回復した。けれどもそれは奇跡といえるようなものでは決してなかった。一進一退の繰り返しで、10パーセントという数字は、いつも越野に重く圧し掛かった。生きたい、という意志と、生きて欲しいという願いだけが越野の希望だった。そうした一年間以上もの長い闘いの末、90パーセントの死亡率という絶望的な網の目から、身を捩るように、越野はすり抜けてみせたのだった。けれど数年経った現在でも、再発の可能性は消えてはいない。また、闘病生活が及ぼした金銭的負担と、失われた一年以上の時間は、これから越野が背負っていくものなのである。それでも。
 …それでも、越野は病気から回復したのだ。仙道はそれを思うたび、全身から湧き出るような幸福感に包まれた。未だに越野が、あの清潔な、けれど死のにおいのするベッドで眠っている光景を、仙道は夢に見る。それでも、目を開けてしまえば、夢と現実が重なり合うことはもう無かった。
「うん…でも、越野。お前が今ここにいることがさ。みんな、何よりも嬉しいんだよ」
「……」
「…宏未の名前見たら、分かるだろ?」
 姉の名前は幸絵、夫の名前は秀である。両親のそれとは何ら関係のない宏未という名前は、宏明の未来が変わらず在ることを喜び、祝い、感謝して、そんな僥倖がその赤ん坊の未来にも訪れるように──そんな祈りを込めて付けられたものだった。越野は、瞼を伏せて手元を見つめた。そしてゆっくりと確かめるように言葉を紡ぐ。
「…ああ、分かるよ」
 穏やかに、緩やかに、流れる時間のように越野は言った。 
「ありがとう、仙道」
 そうして微笑みながら、左隣の仙道を見た。仙道はその笑顔をできる限り瞳に映しながら、越野を引き寄せる。重なった顔と顔のあいだから、空の真ん中で金色に光る十字架が、まるで祝福の祈りそのもののように、二人を見守っていた。





[end.]