たとえそのキスが、
*報われない話です。ご注意ください。
「越野、男に興味ないよな?」
昼飯は? だとか、練習行く? とか、そういう問いかけと何ら変わらないほど自然に発された仙道の質問に、越野は三秒呆けてようやっと眉尻を寄せた。ふたりだけの部室に、いつもの練習後とはまったく違った雰囲気が流れる。
「……はぁ!? あるわけねえだろ!」
「うん、ならいいんだ」
背中や髪の生え際に冷や汗が浮かぶのを感じる。心臓も、まるで小人が中で走り回っているかのように騒々しくなって、越野は耐えるように息を飲んだ。
まさか、仙道に知られてしまったのだろうか。親友と言うポジションに隠れながら、仙道に対して長いこと抱いていた異質な気持ちを、とうとう気取られてしまったのだろうか。越野がよくない想像を巡らせているうちに、仙道の顔が越野を覗きこんでいた。
「な……なん」
「ならいいんだ。あのな、越野。ちょっとキスさせてくれる?」
「え──あっ」
顔の近さにたじろいだときには、既に唇が触れていた。ちょっと、どころのキスではなく、粘膜と粘膜が絡み合う。歯茎をなぞられたところまでは自覚できたが、そのあとはもう舌も口唇もどちらのものか越野は分からなかった。
「…っ…」
身体を支えられている両腕と唇が離れて仙道に解放されると、思わず足元がもつれた。それを右手で支えながら、仙道がにこりと悪びれず笑う。
「どうだった?」
「…は」
「おれとキスして、気持ち悪かった?」
そう皆まで言われて、越野の顔にカッと血が上る。温度の上がる顔面のさまを自分で感じ、慌てて越野は虚勢を張った。
「っ、…たりまえ、だろうが!」
「あ、やっぱそう?」
「はあ?」
仙道は情けないようなふざけているような顔をして、そのあと、うーん、と首をひねる。そうしてほんの少し真剣な顔でまた詰め寄った。
「じゃあさ、おれとキスするのが気持ち悪かった? それとも、男とキスするのが気持ち悪かった? どっち?」
どっちもなにも、仙道とのキスが気持ち悪くなかったという時点で、もう一つの質問は意味を持たない。けれど越野は仙道の真意を汲みかねていた。さらにさきほど張ってしまった意地もある。越野は未だ顔を赤くしたまま、仙道を睨みつける。
「男とキスするなんて、ありえねえよ」
「ふうん…そっか。越野は超ノーマルだもんな、そりゃそうか」
「つうか、お前…」
「じゃあさ、気持ち悪くなくなったら、教えてくれる?」
「──え?」
言うが早いか、仙道はもう一度越野の身体をぐいと引き寄せた。越野はあまりの混乱と衝撃で、ほとんど何も考えられなかった。現実を信じることさえ難しかった。大きな喜びと少しの不安。ただひとつ確かなのは、仙道の身体をはね返すことなど到底できないということだけだった。その背中に手を回したいほどの衝動を、越野は何とか抑えたのだった。
その日以来、仙道は幾度となく越野にキスを仕掛けてくるようになった。誰も居ないところを見計らっては掠めるように越野と唇を合わせ、そしてそのたびに「どうだった?」と顔を覗きこむ。屋上で昼食をとっていた今も、仙道は唐突に越野の右腕を引きながら斜めに越野の口をなぞった。舌と舌を合わせて甘噛みして──それだけで越野の全身は、今にも破裂してしまいそうなほど血が走り巡るのに、仙道はいつもどこか子どものような無邪気な顔で、越野を覗きこむのだ。
「今日は? どうだった? まだ気持ち悪い?」
越野は左腕で口元を隠しながら、前で越野の答えを待つ仙道を見つめた。どうしてこんなに楽しそうなのかと悔しく思うが、越野の方は毎日のように繰り返されるキスにもう身体も心も明け渡してしまいたかった。
「……べつに」
「ん?」
「べつに……もう、気持ち悪いとか、ねえよ」
「え、まじで?」
仙道の顔がぱっと明るくなる。にこにこと、嬉しそうに笑うのを見て越野の頬も思わず緩んだ。
「…ん」
「なんだ、意外と早かったな…なあなあ、女とするときとどう違った? おれはあんまり変わんねえと思ったけど」
「おれも、そんなに…」
「だよなあ。じゃあさ…もしかしたら男ともやれるかも、とか……考えた?」
「えっ?」
越野は質問に対して思わず大声をあげた。男とセックスをするなんて考えられないが、仙道とはできる。しかしそう言ってしまえば、お前が好きだと告白をしているようなものである。それとも仙道は、越野への告白として、こんな突拍子もないことをしているのだろうか──こんな、遠まわしで分かりにくいことを。越野は向かい合う仙道を見つめた。こんな、まるで人を試すような──。
試す…?
越野の頭に、新しい、しかし最もよくない想像が浮かんだ。
「なんて。さすがにそこまでは越野にはわかんねえよな。わりい」
「……」
越野はそう言って軽く笑ってパンの残りを頬張り出した仙道をじっと見た。想像した恐怖に、口元が動かない。
「越野、ありがとな。こんなことに付き合ってくれて」
「……。…どういう意味だ?」
声が少し震えたが、仙道は気付かなかったようだ。
「男でこんなんできるのって、さすがに越野くらいだろ? かといって、本人にいきなりキスして拒否反応されちまったら嫌だし。でもこれで、男同士でも意外と大丈夫だってちょっと自信ついたよ。まあ、情けねえ話だけどな」
越野はその言葉で、決定的に、すべて分かってしまった。全身の力が抜けて、思わず呆然とする。自分の腰を引き寄せた仙道の腕もその大きい身体も、さっきまではすぐ近くにあったというのに、今はもう手が届かないほど遠くに感じた。越野は思わず、乾いた笑いを漏らす。可笑しいのだ。舞い上がっていた自分が可笑しいのだ。悲しいほどに。
「……相手、だれなんだ?」
もう何も聞くことなどないと分かっていたのに、口からその質問が自然に出てしまっていた。最後の執着にも、それすらにも仙道は気付かずに、わずかに頬を染めた。そうして、遊びに興じる子どものような幼い笑顔とはまったく別の、深さや痛みをも内包しているような、穏やかな笑顔を浮かべる。
「翔陽の…藤真さん」
そっか、と越野は言った。藤真は、越野の最も憧れる選手だった。藤真のようになりたいと思うことは幾度となくあったが、越野は初めて、藤真健司その人になりたいと強く思った。彼の名前をたった一言口にするときのその表情ひとつさえ、越野宏明という人間には一生かかっても仙道に浮かべさせることはできないのだ。
ああ、何て愚かなのだろう、自分は。はなから手が届かないところに居た仙道と、一瞬でも、触れ合うことを望んでしまったのだから。越野はまた笑った。自分は愚かだが、しかし、不幸ではない。男の身で、触れることも叶わないと思っていた仙道の腕と唇を手に入れることができたのだから。越野はそう思った。そう思うしかなかった。そう、それだけで自分には十分なのだ。たとえそのキスが、他の誰かのものであっても。
[end.]