ためいきアンチノミー

 淀みのない海のようだと思う。張り詰めていて、同時に至極穏やかなのだ。空を映すほどに透明で、弛みなく静かな海に、仙道は似ていた。
 海に道がないのと同じように、彼にも先を指す道標なんて無かった。しかし海は、自らの来た場所と、自らの行くべき場所を知っている。また、すべてを包む大きさを持っているようでもあり、陸を見失った航海者を拒む冷徹さをも持っている。
 さざ波の音が聞こえていた。越野はその心地よさにずっと寄り添っていたいと思う。寄せては返す白波の奏でる声は、泣きたいほどに優しかった。


 あ、という間の抜けた声がして、ぼうっと窓の空を見つめていたことに気が付いた。声のした方を見ると、グレイのカーペットに寝そべる仙道が、うつ伏せで読んでいた月バスの1ページに顔を近付けて凝視していた。何をするでもなくベッドに座っていた越野は、もそもそと端に移動しながら仙道に近づいた。
「なんだよ」
「…沢北だった、北沢じゃなくて」
「ああ?」
「いや、こないだ流川に嘘言っちまったっていう話」
 仙道の横顔は微笑を湛えたまま言って、すぐに頓着ない調子で再びパラパラとページをめくり始めた。越野は話をこれ以上聞くのも躊躇われて、壁際に寄り掛かってベッドに足を投げ出した。目の前の床には、まるで部屋を横に分断するように長身の仙道が相変わらず寝そべっている。小学生から寝起きしている見慣れた六畳の自室が、何だか全くの別世界に見えるようだった。それほどに、仙道が圧倒的に違っているという自覚が胸を突く。どこに居ても、何をしていても越野の中でそれは変わらない。
「こないだは怒鳴らなかったな、練習サボったのに」
 こないだ、それが流川が体育館に訪ねて来た日だということは、話の流れで理解できた。思い出すと、僅かに感じる痛みがある。圧倒的なものの前では、矮小すぎて名前さえ付けられないその感情に越野はふと自嘲する。繰り返したその行為は、止めたくても止められない。
「流川とのワンオンワンは、うちの練習より価値があるだろ。おまえには」
 消えてしまいたい、と思った。自分の口調が鼻につき、仙道に顔を見られないように、ごろんとベッドに横になった。目を瞑れば、あの夜の仙道が思い浮かぶ。練習が終わるころ、越野の携帯にはメールが届いていた。流川とずっとバスケしてた。今は公園に居る。それを見て寄った帰り道の公園で、仙道はすこし顔を上気させてベンチに座っていた。
『あいつ今帰ったとこ』
『…そっか』
『直前までボール奪い合ってた』
『だろうな』
 ドラムバッグをドサッとペンキの剥げたベンチに置いた。前に立つ越野を、仙道が見上げる。目が合って、その目を越野が逸らす。
『……あいつとは、これからずっと競い合うことになる』
『……』
『あいつもまだ強くなる』
 も、という響きに許される傲慢を垣間見た。そして、輝かしい連帯を見た。仙道の居る場所は階段の上位などでは無い。違うのだ。言うなれば、自分の居るのは群衆たちの住む陸上だが、仙道の居る場所は海だった。果てしないほど広い海を、自在に遊ぶようにゆうらと泳ぎ回る。或いは海そのもののように溶け合って同調する。
 越野はそれ以上なにも言えず、なにも聞けなかった。ざわめく胸の奥の痛みを無視し続けることだけが、自分の取れる手段だと思った。たとえ見つめる仙道の眼に何か予感めいたものを感じていても、それを待ち望むことがあってはならなかった。うそぶくように仙道から外した視線を、どうか追ってくれるなと、越野は強く願った。

 越野の言葉を聞いて、仙道がふっと笑うのが聞こえた。越野は寝返りを打って壁のほうに身体を向ける。ベージュ色の壁紙が、まるで自分を跳ね返しているように見えた。
「……越野」
 声がすこし近くなる。ベッドが背後できしりと微かに揺れた。雑誌を読んでいた仙道が、起き上がって、肘をベッドにかけているのが気配で分かる。これ以上、距離を縮めて欲しく無かった。絶対に振り返らないと決めた。
「なに。俺、眠たい」
「彼女とは別れた?」
 唐突で時を得ない質問だったが、越野は是と答えられなかった。答えられない理由を、ずっと仙道の眼に見出していたからだった。それは予感であり、また、越野が「彼女」をつくったそもそもの理由であった。嘘やそれに準ずる言葉のひとつも出ない自分の要領の悪さに嫌気がさしたが、それでも口は開こうとしてくれず、しばしの沈黙が重く折り重なった。
「……別れたんだろ。植草から聞いた」
「……」
「なあ越野、こっち向いてよ」
「いやだ。眠い」
 仙道が長く息をつくのが後ろで聞こえた。くぐもったその息は、仙道が顔をベッドに埋めていることを示していた。背中がひりひりと疼くように震えるのは、振り向きたいという衝動を抑えているからと気付いていたが、どうしてもそれを行動に移すことはできなかった。
「…部活サボるなよって、怒って欲しかったんだ」
 言いながら仙道の手が、越野の肩口にすこし触れた。じんわりとその指は温かく、帯びた熱がめぐるように身体を渡った。胃の中が緊張で気持ち悪くなるほどに、たったそれだけで鼓動が早くなる。名前を付けたくないあの感情が、唸るように頭をもたげた。
「だからメールした。越野に会いたかった」
「俺は」
 鋭く言って、言葉を切った。語気の荒いその口調に、肩にわずかに触れていた仙道の指が、躊躇うように離れた。
「…俺は、会いたくなかったよ」
 それは本当のことだった。流川が陵南の体育館に訪ねてきたその日、越野は仙道を見たくなかった。正確に言えば、仙道に自分を見られたくなかったのだ。その先の相手の失望に触れたくはなかった。違う、という絶対的な事実を、仙道が改めて自覚するのが怖かった。けれども、仙道の視界に入りたくないというそんな卑屈さが嫌で、それが何とか足を公園に出向かせた。その夜に残っていたなけなしの意地も、今はもう喜んで捨ててしまっている。
 それきり仙道は黙ってしまった。越野は眼をことさらきつく瞑る。何も見たくない、と思った。温かい指が恋しいと一瞬でも思ってしまった自分の愚かしさも、胸を痛めるほどの意思を視線に含める仙道の瞳も、何もかも。



 *


 キュ、とバッシュが体育館のよく磨かれた床に擦れる。いつもなら耳に心地よいその音が、今日は無慈悲にも静けさを強調していた。1年生の終わりから続けている二人の個人練習だが、この一週間ほどはそれに植草も加わっていた。夏の大会で海南と湘北に僅差で負けて、やはり思うところがあったらしい。しかし今日に限っては、30分ほど前に練習を切り上げて帰って行った。妹達の世話がある、と困ったような笑顔で話す植草を、さすがに越野も引き止めることはできなかった。
「ナイッシュ」
 そう言われて思わず肩が揺れたのを、うしろの相手は見ただろうか。聡い仙道だから見ぬ振りをして淡々と練習をこなすのだろう、そう思ってもなかなか背中を翻すことができなかった。いつもの個人練習であれば、何だかんだと仙道と言葉を交わしながら、時には仙道にシュートフォームを直して貰ったり、ワンオンワンの相手を頼むこともある。しかしながらこの一週間、全体練習のときは別にしても、この部活後のひとときでは繁く会話を拡げることはなくなっていた。
「越野、そろそろ上がろうか」
「…おう」
 ダムダム、とボールをゆっくり弾ませながら近寄ってくる仙道に越野は背を向けた。自らの使っていたボールを、キャスターの付いたアルミ製のボールバスケットに詰めるように入れて、それを無言で仙道の方に引いて行く。仙道がその上にボールを置くのを見ると、体育館倉庫までそれをのろのろと押して行った。仙道がその隙に部室まで戻って居てくれたらいい、内心そう思ったけれど、仙道はいつも越野を倉庫の前で待っていることも知っていた。
「…お疲れ」
 カゴを奥の定位置まで戻した越野を迎えるように、倉庫の入り口に背中を預けて仙道が声をかけた。越野はそれに僅かに相槌を打って、暗い倉庫から出ようとする。仙道とすれ違う瞬間、オレンジ色の体育館の電燈と真暗な倉庫の闇が重なり合うその境目で、ふいに仙道に左腕を強く掴まれた。
「……」
「…なに」
 言葉少なにそれだけを口にしたのは、自分の心臓の音で目が眩みそうだったからだ。掴まれているだけでその鼓動を気取られそうなのに、それでもなお平静を装うことは滑稽にも思えたが、しかしそれが考えられうる最善の対処のように思えた。ともすれば腕が震えて、その指を振り切ってしまいそうな衝動をも覚えてしまう。やっとの思いで、仙道の顔に眼を向けた。
 仙道は言葉無くじっと越野を見つめていた。16センチ高い位置からの眼差しは、相変わらず強い意志を含蓄している。意識的に黙っているのではなく、何かを言おうとしているようにも見えた。それでも結局、仙道の口からは何も発されることはなかった。言葉より物を言う視線の切実さに、まるで気付かないくらいの鈍感さを持っていたかったと、越野はそう思う。
「仙道、離せ」
「…嫌だ」
「……、離せよ……」
「……」
 声を張っていられずに語尾が力なく震えてしまえば、それに怯んだように仙道が握った指の力を弱める。あっけなく腕と手は離れたが、じんと痛いような、熱いような感触がまだ二の腕に残っていた。途端に越野は、身を翻してずんずんと部室に向かった。体育館を出て渡り廊下を抜ける頃には、駆け足になっていた。まるで逃げてるみたいだ、と越野は歯を噛み締める。そして思い直した。まるで、も何も無かった。
 後ろを振り向くと、ぼんやりと橙に光っている体育館の入り口には人影は見えなかった。越野が着替えて出て行くまで、きっと仙道はそこから出ては来ないだろう。思わず頬を押さえれば、自分の体温でないほどに熱かった。泣きたくなって、その場にずるずるとしゃがみ込む。渡り廊下には夏だというのに涼しげな風が吹いていて、その風音は少しさざ波の寄せるそれにも似ていた。掴まれた左腕に右手を寄せれば、じんわりと熱が伝わってきた。それは仙道の体温などではなく自分のものに違いなかったけれど、それをなぜだか心地よく感じた。
 ああ、という嘆きにも似た溜息をひとつ吐く。どうしようもなく泣きたかった。広い海の真ん中で帰るべき場所を失った漂流者のように、浮舟のように、心もとなかった。


 *


「おい」
「……」
「…おい」
 仕方なく瞑った瞼を開いて眼前の影を仰げば、福田がドラムバッグを背中に背負って、いつもの無表情で机の前に立っていた。憮然とした表情で眼を逸らす越野に、眉根にしわを寄せる。
「練習が始まるぞ」
「知ってる」
「行きたくないのか」
 溜息交じりで福田はそう聞くが、それはほとんど質問ではなかった。教室内にはまだまばらに人が残っている。まだ練習は始まらないが、常なら駆ける勢いで部室に向かう越野が珍しく行き渋っているのをおおかた廊下から見かけて、こうして声をかけに来たのだろう。越野はもう一度、頭を机に擦り付ける。こげ茶色の木の机は、水を吸ったような独特のにおいがした。
「仙道なら今日は来ない」
 その言葉に、突っ伏したばかりの頭を覚えずまた仰がせる。福田がすこし眼を見開いて、そのあと眉根をより深く寄せた。その表情を見て、越野はしまったと神妙な顔をして黙り込んだ。
「……仙道に、会いたくないのか」
 途端に越野は、がたり、と椅子を引いて立ち上がった。立ったままの福田を背に、後ろのロッカーへドラムバッグを取りに行く。縦長のロッカーに詰め込んだバッグを右肩にかけて、後ろを向いたまま口を開いた。どうしてか眼を合わせにくい気がした。
「関係ねえよ」
 福田は何も言わなかった。カーテンを開けた窓が風でカタリと少し揺れたが、雨は降っていなかった。昨日から風だけが強さを増していたのは、小さな台風が神奈川に近づいているからだ。夏の夕方前ではあるが、空は薄ぼんやりとした曖昧な空気を醸していた。暗いような、明るいような天の色が無性に気に入らなくて、越野は歯を噛み締める。空から目を逸らして、後方のドアから教室を出ようとした。
「仙道も」
 ドアに手をかけたとき、福田が地をなぞるような声で言った。越野は一瞬顔を傾けたが、福田まで眼を向けることなく、中途半端に床に視線を落とした。
「仙道も、同じような顔をしていたな」
「……、それは…」
 どんな顔だった、とそう問い返したかったけれど、仙道のその表情を思い浮かべてはいけない気がして。越野はそのまま教室のドアを開けた。ひゅう、と、海のにおいのする風が髪をさらった。昨日掴まれた左腕は、まだじわりと温かかった。

 福田の言う通り、仙道は練習に姿を現さなかった。授業が終わって掃除が始まる頃には、もう居なかったと、同じクラスの明治が何でもなさそうに言っていた。いつもなら怒気の塊のように機嫌を悪くする越野だったが、今日は一転、黙々と練習を続けていた。そうしてひとりでの個人練習まで終えたあと、ロッカーに戻って着替えているときに、ふとひとつの既視感が、頭を通り過ぎる。だしぬけに、薄暗く誰も居ない部室で、ブブブ、とバイブの音が低く唸った。はっとして思わず持っていた着替えを取り落とす。音源は、越野のバッグの中だった。
 「……また、かよ…」
 メールには、思った通りの内容が短く書かれていた。デジャヴなどではなく、同じことを繰り返しているだけだった。越野はどさり、と床に腰をおろして、くしゃりと自分の髪を握って溜息をついた。
 あの日のあの夜と同じように、今日も仙道は公園に居るという。越野はできるだけのろのろと帰り支度をしたが、それでも着替えを済ませてしまうと部室を出て、ゆっくりと帰り道を歩いた。坂道を下って踏み切りをすぎると、小さな分かれ道がある。江ノ電の駅へ向かう道とは逆の方へ歩いて行ったところに、その公園は小さく鎮座している。何本か道の伸びるその分かれ道のすぐ前で、呆然と立ち尽くした。眼の端には、江ノ電のホームが明るく映っていた。
 行かなければいいと思った。あの日のように公園に行ったりしなければ、気に懸かっているようなことは何も起きたりはしない筈だ。そもそもあの夜に越野を動かせたものは、自分のどうしようもない卑屈さへのささやかな抵抗だった。けれどそれは表向きであり、同時に、予感めいたものへの期待も含んでいたのだ。越野はそんな自分の行動に、浅ましさを感じた。何かと理由を持ち出しては、後付けの詭弁でことを進めているような狡さを、自分のなかに垣間見たような気がした。白波と海を、その寄せて返す音と水っぽい風を、思い浮かべる。それらは慕わしげでもあり、冷たくもあった。まったく相反するふたつの感情を持て余して、越野は深くためいきを吐くしか術がない。越野は息をついたまま俯くと、唇を噛み締めて、公園へと繋がる路地に背を向けた。


 *


 風でカタカタと窓が音を立てた。越野は机から立ってベッドに上がり、その脇にある窓を開ける。途端に、ひゅうん、と湿り気のある生ぬるい風が髪を揺らした。雨台風ではないようで、空からは水滴のひとつも降り落ちては来なかった。クーラーできんと冷やされた身体には、その風はいくらか健康的な気がする。越野はめくれるカーテンもそのままに、窓を開けたままベッドにどさりと腰を下ろした。
 部室で届いた仙道からのメールに、越野は帰宅してからも返事をしていないままでいた。意識的にバッグに入れっぱなしにしてあった携帯電話を、そこからもぞもぞと取り出して開く。着信や新着メールの類の表示はされていなかった。はあ、と、携帯電話を閉じながら覚えず口をついた溜息に気付くと、越野は嫌悪の眉根を寄せる。そもそも「行かない」というたったそれだけの返事さえ、越野はまだしていないのだった。そう思い至ると、つい今しがたの自己嫌悪も忘れてまたも盛大に息を吐いた。折った膝に頭を突っ伏して、あーあ、と独りぼやく。
「……溜息ばっかだ」
 嫌悪を通り越して、憐憫の念さえ浮かんでくるようだった。膝頭のあいだに顔を埋めたまま、眼をぎゅうと瞑る。台風が連れてきた海風と人工的な冷たい空気とが交じり合った曖昧な温度が、越野のつむじを掠めていった。
 眼をきつく閉じながら、左腕を掴まれたときの仙道の表情を思い出す。何かを言おうとして口を開きかけていたが、結局言葉を紡ぐことはなくただじっと越野を見ていた。何を言おうとしていたのか、越野は強烈に気になっていた。また、部活前の教室で福田の言った「同じような顔」というのがどのような顔だったのかも、気になって仕方が無かった。そのように「気になる」という自覚を持つことが詰まるところどういうことなのか、もうずっと以前から越野は知っていた。手が触れられれば痛いほどに早まる鼓動や、巡るように全身を伝う熱も、越野にそうだと告げていた。
 それならば、仙道がしていたという「同じような顔」というのがどのような表情なのかも、見ずとも分かるはずだった。自分の今の気持ちがもう鮮明に分かりきっているからだ。それでもその顔を自分の眼で見たいと思ってしまえば、それはもう、とうに決定的だった。
 まったくもって反発し合うふたつの感情が同時にあるとき、ひとはどんな行動をとるのだろう。越野はまるで他人事のように考えた。プラスとマイナスの意思は、相殺し合ってそのどちらをも消すことになるのだろうか。そして残ったものがニュートラルな感情だけであるのならば、ひとはもっと堅実な行動がとれるだろうに。そう思ったところで、もしそうであれば、という仮定の話は意味がなかった。
 ふと、潮のにおいがする。海に近いので潮風が吹くのは当然のことだったが、越野はその風の温度と強さ以外の感覚をほとんど今はじめて自覚した。そのにおいは、とても懐かしかった。懐かしく、慕わしげだった。海で溺れる者や、陸に辿りつけずに漂流する者達は、海のそんな冷酷な顔を知っても、まだ航海に出ようとしただろうか。自分を拒むことになる海へ、その身ひとつを預けようとしただろうか。考えて、ゆっくりと眼を開けた。部屋の蛍光灯の光が刺すほどに眩しい。仮定の話には意味がなかった。潮のにおいは、もうずっと慕わしげに越野の鼻腔をくすぐっていた。アンチノミーな感情は相殺するのではなく、結局のところ少しでも強い方が勝ってしまう。同時に存在できるのは、ほんの少しのあいだだけだった。それは仮定ではなく、もう分かっていた。すぐ外に出るのだから、光に眼が慣れる必要は無い。越野はベッドから立ち上がりながら、右手で携帯電話を掴んだ。

 3コール目で電話に出た仙道は、声が掠れていた。
『…越野?』
「うん、俺、」
 自転車を走らせながら電話をかけているので、どうしても声が揺れる。定まらない呼応に苛立ったが、越野はペダルを漕ぐ足を緩めなかった。電車はもう無かったので、自転車で向かうしか手がなかった。さああ、と風で街路樹の木々が揺れた。その揺れが電話口からも伝わってきたような気がして、越野は思い巡らせていた予感を口にした。それは越野が拒んだ、浅はかな希望かもしれなかった。
「…お前、外?」
『え、越野は?』
「お前んちに、行くとこ、チャリで」
『え、うそ』
 恥ずかしさが先行して、まともに仙道の声を聞けなかった。こぎながら顔が熱くなるのを感じて、仕方なく話を続ける。汗がひとつ額から流れ落ちた。
「ちょっと…会いたくて」
『今どこ?』
「もう近く、ガッコの」
『…まじで』
「え、お前は?」
『……』
 越野の問いに仙道は黙り込んだが、やがて電話口でふっと笑った。微かな笑いが、弾けたようにあははは、と高揚する。びゅう、と耳の向こうで風が吹いていた。理解の及ばない仙道の陽気さに越野は文句を言いかけたが、すぐに仙道が再び口を開いた。
『…越野、部屋の窓開けたままだよ』
「………」
 今度は越野が呆気にとられる番だった。道の途中なのも構わず、自転車を漕ぐのをその場で止めてサドルから降りた。あたりに人は居なかったので、ぽつねんと黙り込む。希望が期待になるのを感じて、鼓動で潰れそうになる。震える手で、ぎゅっとハンドルを押さえ込んだ。言葉を紡がない越野に、仙道は穏やかに続けた。
『…お前んち、向かったんだけどな。声かけらんなくてさ、』
「……」
『近くの公園でぼーっとしてた…』
 すこし困ったように仙道はそう言った。潮風が強く吹き抜けるこの夜に、越野が膝に頭を埋めているそのすぐ近くで、仙道もまた越野と同じように迷っていたのだった。それを思って、越野は初めて笑みを浮かべた。少し前の夜、仙道が越野の部屋のベッドでついた長い溜息を思い出して、後ろを振り向きたくて振り向けなかったこともまた、思い浮かべた。あのとき背中の向こうで、仙道はどのような表情をしていたのだろう。きっと、さっきまでの自分と「同じような顔」をしていたに違いない。越野はそう思って、クスリと笑った。
「なあ、仙道」
『ん?』 
「……広い海でもし陸を見失ったら…どうする?」
『……』
 ようやっと口が動くようになった越野の、しかし唐突な質問に、仙道は押し黙った。けれどもそれはほんの少しの間で、すぐにいつもの間の抜けた声が返ってくる。
『…魚になる?』
 その答えに、思わずぶはっと盛大に噴き出した。笑いながら、自転車をもと来た道へと翻してサドルにひょいと乗った。ぽつり、とふいに頬に当たるものがある。予感めいたままだった台風の気配が、やっと雨粒になって落ちてきた。いつまでも寄り添っていたいような、温かく湿った雫だった。雨、と呟く電話の向こうの声がどことなく嬉しそうなのは、自分と同じ心地よさを感じているから、そうであればいい。越野はそう強く思った。



[end.]