太公望と肉まん君

 越野はボールの弾む音が好きだった。眠たい目で練習に向かっても、その音を聞いた途端に瞼が軽くなる。目覚まし時計のベルの音よりずっと頭が、身体が冴えわたるのだ。いつでもバスケットがたまらなく好きだった。陵南高校に入学することは、だから、そんな越野の前々からの希望だった。

 ──板張りの天井が像を結んでいくのを見ると、越野は小さな息をついた。カーテンからは、早朝の白い朝日が部屋をうっすらと灯しはじめている。やおら身を起こし眠ったままの目覚まし時計を止めると、一度小さく伸びをして、部屋のドアを開けた。ジャージに着替えて家を出ると、春を控えた曖昧な温度が首のうしろから入り込んだ。それでもやはり、三月の朝五時はうすら寒い。もう二時間も惰眠をむさぼれば、もっと気持ち良く朝を迎えられただろうに。越野はひっそりと二度目の嘆息を漏らすと、手ぶらのままで走り出した。
 古い家が軒を並べる町内を抜け、バスケットゴールの設置されたいつもの公園をぐるりと回る。目の端にリングを映しながらも、越野は足を留めることなく、青々と茂る木のあいだから公園を後にした。バスケットボールの弾む音は聞こえてこない。それもそうだ、と越野は思った。中学三年間のあいだほとんど毎日、早朝のこの時間に限っては、あのゴールは自分のものだったのだから。
 公園を南へ1キロ2キロと離れていくと、建物の隙間からちらちらと海が見えはじめた。一様のペースで足を動かしながら、越野はひたすら走っていた。いつもならアップ代わりのジョグはもう済んでいて、今頃はあのゴールに向かっていただろう。けれどもここ数日は、玄関先に置いたままの、綺麗に磨かれたバスケットボールを一瞬視界に捉えながらも、越野は身一つで家を出ている。
 バスケットがたまらなく好きだ。けれども、陵南高校の合格が決まり、中学を卒業した数日前から、越野はボールを弾ませることができなくなっていた。あれほど夢中になって、一時はそれさえあれば他に要らないとまで思ったバスケットボールを、高校に入っても、さらに高いレヴェルで続けることができる。合格した瞬間こそ万々歳で喜んだ越野だったが、その直後には何かまた違う感覚が生まれていた。日を追うごと、背中を焼くような焦燥が強くなっていく。一分でも多くボールに触れていたいがために身体に染み込んでしまった早起きの癖も、今は越野を苛立たせていた。身の内の感情が伝わってしまう気がして、ボールに触れられない、と、越野はそう思う。
 江ノ電沿いのコンビニの前で足を止めて汗を拭いていると、もう30分近く走っていることに気付いて、とたんに空腹を感じる。ポケットに入れてきた五百円を確認すると、越野はそこで肉まん二個とドリンクを買って、今度は腰越橋から海沿いに歩き出した。見えてきた腰越漁港は堤防釣りで人気の場所らしく、こんな早朝だというのにもう釣り人がぽつりと見えた。鎌倉に住んでいながら釣りをしたことがない越野は、多少の興味を覚え、防波堤の方に歩いて行く。堤防に腰掛けて、春の潮風を受けながら肉まんを食べるというのも気持ちが良さそうだ。小動岬のわきを通り、細い防波堤をゆっくり歩いていくと、正面右側に江ノ島が白くぼやけて佇んでいた。朝日がそこここに乱反射して、もやがかかったように眩しい。
 あたりの風景を眺めながら座る場所を見定めていると、右端で竿を傾けていた一人の先客がゆるりと振り向いた。背中を丸めて、ぼんやりと糸を垂らしていた釣り人だ。目が合うと、にこりと人好きのする笑みを見せる。反射的に曖昧な笑顔を返してしまった越野は、呼ばれるようにして仕方なくそちらへ近づいた。
「釣れます?」
「ん、まあまあ」
 そう言いながら、釣った獲物はどこにも置かれていない。それどころか、脇に置いてあるのは荷物の入ったドラムバッグだけで、魚を入れるためのバケツすら見当たらなかった。不審そうに眺める越野に気付いたのか、釣り人はまたちょっと振り向いて、
「今日は餌付けてないんだ。昨日は、三匹釣れたんだけど」
 と笑う。朝の白い光で顔が見辛いが、眉尻が下がっているせいか笑顔が柔らかい。なによりも、つんと立てた髪型が印象的だった。釣りをしていたところや落ち着いた所作を見ると、おそらく年上だろう、と越野は思う。
「これからお仕事すか?」
 間をもたせるために何となくした質問に、釣り人がちょっと笑った。
「…今日、日曜だよ」
「え…ああ」
 長期休みに入ると曜日感覚がなくなる、なんて話を同級生がしていたが、まさか自分の状態がそんな体たらくだったとは。越野はしばし愕然とした。思ったよりも、ぼんやりしていたのかもしれない。事実、ボールに触れていないこの数日間、自分が何をしていたか、越野はあまり覚えていなかった。
「高校生?」
「あ…はい、四月から…」
「ふうん。…あれ」
「え?」
「いいにおいがする」
 その言葉で、越野は手元の肉まんを思い出した。のどかな風景とこの釣り人に毒気を抜かれて、すっかり忘れていたのだった。
「ああ。肉まん買ったんです。…一個食います?」
「いいんだ? 食う食う」
 嬉しそうに笑う釣り人にそれを一つ手渡すと、越野もその隣に座った。ざらついたコンクリートがジャージに触れると、少しひんやりして気持ちがいい。後からそそぐ朝日が、青い波に反射してちらちらと光っている。目の前の船着場には漁船がずらりと並んでいた。ポカリを一口飲んで、肉まんを飲み込むと、越野はあたりを改めて見回した。背中側に鎮座する小動岬の向こう側に、七里ガ浜が広がっている。その先を登ったところに、自分の行く高校は建っていた。越野は、ここで折り返して藤沢に戻ろうと決めた。
「陵南高校?」
 隣から間延びした声でそう聞かれ、越野は曖昧に頷いた。釣り人は丸まった背中で、どこか楽しげにまた、ふうんと相槌を打つ。スウェットとまではいかないが、部屋着に近いものを着ているところを見ると、きっとこの近くに住んでいるのだろう。自分の格好は、ゴールを使って練習していたときと同じジャージである。ボールさえ持っていれば、この三年間と何ら変わらない朝だった。四月から新しく始まる部活動を、待ちきれない思いでボールに触れていたはずだった。
「…部活…」
 思わず口に出してしまった言葉に、隣の人間が目線を送って寄越す。越野はそれに気付いて、あ、と一瞬口ごもるが、また口を開いた。
「部活…を、したくて陵南受けたんすけど」
「……」
 その歯切れの悪い微妙なニュアンスに気付いたのか、相手は肉まんを頬張りながらちょっと越野を見て尋ねる。
「けど?」
「けど…何か今は…」
 そこまでで言い淀んでしまって、越野は息をひとつついた。それを眺めて男が困ったように笑った。
「…今は、もうしたくねえの?」
「いや…そうじゃなくて…」
 越野はそこでちょっと隣を見るが、相手は口元に穏やかな笑みを浮かべながら波打ち際を眺めている。まるっきり興味がないのか、真剣に耳を傾けてくれているのか、越野は判りかねていた。しかしそのどちらであっても越野は、自分のこの数日間の霧がかった苛立ちを吐き出してしまいたい気分になっていた。
「……今までおれ、わき目も振らずにずっと続けてきて…」
「うん」
「そのために、陵南受けて、合格して」
「…うん」
「これからも続けていけるんだってそう思ったら、何か」
「……」
「何つうか…」
 やはりそこまで言うと、越野は口ごもった。いざ言葉にして吐き出したいと思っても、不安と焦りの入り混じったこの感覚を、口にして説明することができない。ボールに触れられない理由を、自分でもはっきりとは分かっていないのだと、たった今気付いたのだ。分かるのは、この数日のあいだ苛立って仕方がないことだけなのだ。
「……怖い?」
 黙り込む越野に、覗き込むようにして男が尋ねた。
「”怖い”?」
 自分の中には無かったその言葉を、越野はすぐには理解できず、鸚鵡返しで答える。
「これからも続けたいのに、続けるのが怖い。そういうことなんじゃねえ?」
「……」
「嫌になったとか、面倒になったとか、そういうのとは違うんだろ?」
 越野はその言葉をしばらく思い巡らせて、それからゆっくりと、けれど大きく頷いた。バスケが好きだという、その気持ちだけで今までずっと情熱を傾けてきた。そのスポーツが好きで、たまらなく好きで、思いの強さに時々足をすくわれそうになる。抜けられなくなるのだ。続けるということは、そういうことだ。嫌いになったわけでも、面倒になったわけでもなかった。それは、とても。
「うん──怖い」
 越野は、今まで思い当たらなかったその一言が、自分のここ数日間の言いようのない感覚と符合していくのを感じた。
「……」
 相手は越野が素直にそう言ったのを見て、一瞬ぽかんとして押し黙ったが、すぐに陽気に笑い出した。そうして、
「すげえよなあ」
 と、ぼやくように言う。そうして困ったような、けれど納得したような笑顔を浮かべながら、越野を仰ぐように見た。丸めていた背中をはじめてぐっと伸ばしたのを見て、体つきがいいだけでなく、ずいぶんと背が高いことに気付いた。
「…はあ?」
 脈絡無く褒められたことを聞き返す越野に、相手の男はまたにこりと柔和に笑った。
「…こないだ人に言われたことの意味、今やっと分かった」
 急に話題が変わったように感じて、越野は目を白黒させた。ずいぶんとマイペースなのだろう、相手はそれに構わず、ゆったりと話し続ける。
「『なぜ続けるかを考えろ』って、先生にそう厳しく言われたんだよ」
「……なぜ続けるか?」
「そう。俺は『できるから』って答えて、派手に怒らせた」
「……」
「何で怒ったのか、いま分かったよ」
「どういう意味すか?」
「…できるから、じゃなくて、やりたいからだ。…俺は、自分で選ばないといけなかったんだ」
 越野は「できるから」と「やりたいから」の違いを、頭の中で思い浮かべた。バスケットができると安心した途端、感じた別の感覚は、不安と焦りが入り混じった、もやのような恐れだった。バスケを好きだと強く思うほど、そのもやは濃さを増していくのだ。
「だからすげえよ、うん、ええと…」
 彼はちょっと考えたあと、相手の名前を知らないことにふと気付いたようすで、越野を見た。
「肉まん君は」
「越野っす」
 そのつもりはなかったのだが、あまりに不本意なニックネームに、越野は反射的に名乗ってしまった。
「越野は、たぶん今、自分で選ぼうとしてるんじゃねえ? だから、苦しいんだよ」
「……」
「…俺、知らないうちに、いつでもやめられる言い訳してたみたい」
 隣の相手は、ちょっと独り言のようにそう呟いた。
「…言い訳?」
「だってさ、やりたいからっていう理由で決めたことなら、そう簡単にはやめられねえじゃん」
「……」
 そう簡単にはやめられない。それが続けるということだ。陵南高校に入り、三年間をバスケットに費やすと、そうしたいと、自分でそう決めなければならない。自分の意志で続けるのは怖い。自分の意志で何かを選び取るということは、足をすくわれても、抜けられなくなっても、それでいいのだと自身に約束を突きつける行為だからだ。
 越野は唐突に納得した。そうして、その瞬間に、それは全てどうでも良くなっていた。ただ今すぐバスケットがしたかった。ボールの感触が恋しくて仕方ないと感じたその瞬間、越野は、自分が確かに選択したことを知った。
「…おれ、帰ります」
「あ」
 挨拶も半ばに走りかけた越野の背中を、間の抜けた声で呼び止める。くるりと振り向くと、完全に昇った朝日が江ノ島を照らしていた。つんと立てた頭の男が、眩しく光るそれを背負って、相も変わらず困ったような笑顔を浮かべている。
「この辺にさ、バスケットゴールある?」
「……え?」
「探しても見つからなくて。まだネットも繋がってねえし。……一応持ってきたんだけどな、これ」
 そう言って脇のドラムバッグから取り出したのは、使い込まれたバスケットボールだった。越野は思いもよらず自分の目の前に現れたそのボールを見て唖然としながらも、たどたどしく答える。
「……おれがいつも使ってるところが、藤沢の方に…」
「え?」
 問い返したはいいが、今度は相手がぽかんとする番だった。けれども、すぐに合点がいったような顔をすると、彼は噴き出した。あははは、と楽しげに声をあげて笑う。
「そっか、バスケかあ。バスケやるんだ、陵南で…ははは」
「……」
 バスケットという共通項があったことは素直に驚いたが、そこまで笑われる理由が分からない越野は、それを不審そうに見つめた。バースデイ・ケーキを前にした子どものような顔をして越野を見るその相手は、しばらくの間くつくつと肩を震わせていたが、やがて満足したような顔でまた防波堤に腰掛けた。どうやらさっぱりうだつのあがらない堤防釣りを再開するようだ。太公望を決め込んだその背中を見て、越野はひとつ息をつくと、その場でジョグを始める。
「…ゴールはいいんすか?」
「うん。どうせ近いうちにできるから」
「…はあ」
「多分、また会うと思うよ。…俺も毎日この辺通るからさ」
「じゃあ、肉まん代はそのときに」
 うそお、と、そう言いながら振り向いたその顔は、思ったよりもすこし幼かった。片手をあげて、くるりと振り返り防波堤を後にする。はじめは随分と大人に見えたが、もしかしたら大学生くらいかもしれない。走りながらそんなことを考えて、越野は口元を緩ませた。もし本当にまた会うことがあれば、一緒にバスケがしたいと、そう思った。また会いたいと、そう思った。

 ──数日後、その願いは陵南高校の体育館にて叶うのだが、越野の大爆発によって、肉まん代は一週間分の昼食代に姿を変えたのだった。




[end.]