凛と

 髪が微かに湿っていた。いつもなら立てているその髪の毛を今日はすとんと下ろして、合図のように仙道君が口角をあげた。微笑みながらそのままちょっと眼を伏せて、それからまた、眼だけである場所──ある人、を確かめるように見るのだ。その先の「ある人」は、教室の反対側で席に着くところだった。椅子を引いたときに、分かっていたように対角線上、ずっと後のその席に眼をやって──その合図を捕えると、きっちり三秒間、そこへ真っ直ぐに視線を返す。まるでその双眼同士が澄んだ糸で繋がれているかのようにしっかりと視線が重なる、その三秒間が、私はやけに長い時間のように感じていた。私の縦列の一番前の席に身を置く越野君は、ふと視線を離して、何もなかったかのように席に腰を下ろした。私の横列の一番右の席に座っている仙道君も、今は軽く顎を上に向けて、椅子をガタガタと斜めに揺らしている。窓側の一番後ろの席でいつも二人を見ている私は、私は、仕方なくて、外の景色を見た。
 中庭の鳶色の土の上には、夏っぽいリーフグリーンの芝生が青々と茂っていた。この中庭をずっと行ったさきの方だ、好きだと、半年前にそう言った場所は。土と似た鶯色の草が点々と生えているだけの殺風景な中庭を、呼び出した時間までの数分間かけて往復したのを覚えている。その途中会ったのは、仙道君だった。中庭が始まる昇降口の階段の隅に大きな身体をしゃがませて、象牙色と水紅色の混じったマーブルのような空を見上げている。瞬きもせずに、ただずっと見上げていた。私は、
「越野君を…待ってるの?」
 と、脇から話しかけた。仙道君はちょっと気付いたような顔をして、そして笑って「うん」と答える。そしてその後に「勝手に、だけどな」とそう付け加えた。
「越野君は仙道君が待ってること、知らないの」
「知らないよ」
「知らないのに、待ってるの」
「…うん」
 そう言った仙道君の顔になんとなく見覚えがあるような気がする。慕わしい、けれど切ない、そんな思いが生まれてくるのは、ああきっと、今の私とそっくりな顔をしているからだろう。仙道君がまた仰ぎ見た夕暮れの空には、つがいで飛ぶ鳥が小さく見えた。
 中庭を抜けてさらに校舎の裏の壁づたいに歩くと、そこにはもう越野君の姿があった。先ほど電源を消した携帯電話は、待ち合わせの5分前を示していたのを覚えている。慌てて小走りで近寄ると、越野君は気付いて「あ」と声をもらし、私の方へちょっとだけ歩いてきた。越野君と私が同時に足を止めたところで、ようやく息が詰まるほどに鼓動の音が身体を駆け巡っていることに気付いた。目の前の人は、いつもするようにまっすぐ私を見て、少しだけ微笑んだ。クラスの仲間と軽口を叩いているとき、部活の負け試合の次の朝、暗くなった放課後、いつでも話すときにはまっすぐ目を見て穏やかに微笑むこの人が、もうずっと好きだった。明るくて元気だ、それだけではない優しさや強さを持っているこの人に、長いこと憧れていた。
『──安藤さんは』
『うん』
『安藤さんは、凛としてる』
 ──凛と?自分にそんな形容を置かれたのは初めてで、少しびっくりして聞き返した。告白するさらに一年前、一年生の11月の終わりのことだった。イチョウが黄色くなり始めて、コンクリートの上にくちなし色の葉っぱをぱらぱらと浮かべていた季節だ。室内のなかにいても、指先が少し冷える。点けると少しは暖まるはずのストーブも、まだ点灯されるのを待ちながら静かに鎮座していた。二人とも部活帰りに教室に寄ったところで、鉢合わせしたのだ。仙道君を待ってると言いながら越野君が居た席が、丁度私の席だった。「あ、御免、勝手に座って」と越野君がちょっと焦って立ち上がって、私がそれに「ああ、いいよ」と言ったところから、なんとなく話が始まった。外は真っ暗闇で、ぽつんぽつんと中庭の向こうに、職員室のカーテンを通した鈍い練色の光が見えた。クリスマスツリーのかざりみたいな光だった。
『そんなこと、はじめて言われた』
『そう?安藤さんさ、弓道部だよね』
『うん』
『すげえカッコいいよ、弓を引く姿。この前体育館から見えたんだけど』
 弓道は高校から始めたが、経験者が誰もいない小さな部だったので、その頃には来年の部長だと先輩から言われていた。自分が弓を射る姿を想像して、それを見られていたと思うと、急に恥ずかしくなった。私はただ『そうかな』と、間の抜けた返事をかえした。それに越野君はちょっと笑って、でも視線を私と真っ直ぐに合わせたまま付け加えた。
『それに、』
『うん?』
『大人しく見えて、男子とか先生にも全然物怖じしねえじゃん』
 そう言ってはははと笑った越野君の釣り目の、目尻だけがちょっとだけ糸みたいに下がっている。きりりとした顔立ちで、はっきりと澄んだ声で話す彼が、思いのほか柔らかく、穏やかに笑うのだと知った。
『…いいのか悪いのか』
『ははは、いいんだって。そういう凛としたとこ、俺いいと思う』
 そう越野君が言ったときに、廊下の向こうからゆったりとした足音が聞こえてきた。笑んだままの表情で、「お」とそれに気付き、大きな部活用のドラムバッグを肩にかける。私は何か言おうとしたまま、何も言えずに居た。越野君が振り向いて「じゃあな」と言ったので、バイバイ、と返す。
 二人の話し声が、廊下の奥へ行くにつれて小さくなっていく。私はそのとき初めて、越野君に言われたことがとても嬉しかったことに気付いた。さっきは「ありがとう」と言えばよかったのだと、そう思った。


 *



「あのね」
「うん」
 私から話を始めると、越野君は視線をそのままに、少しだけ立ち方を変えた。薄墨色になっていく空が、越野君の顔にうっすらと影をつくっていた。
「越野君が好きなんだ、ずっと前から」
「……」
「ありがとうって言いたかった。凛としてるって言ってくれたとき。覚えてる?」
「…うん」
 一年前の冬は、とても寒かった。11月が終わって12月に入ると、北風が制服の間に入り込んで、氷のように身体を冷やした。中庭にはやっぱり鶯色の草木がぽつぽつ生えていて、そんな寒い寒い季節、私は越野君におはよう、と言うようになった。落ちる寸前、盛りのイチョウの色づきを窓から一緒に見た。雪が降ったと窓際で騒ぐ越野君と目が合って、こっちまで楽しくなってしまった。また同じクラスだねと笑い合った。桜を見て、一年間頑張ろうねとそう言った。話すたびに好きだな、と思う自分が居る。凛としてると、そう言われたから。もっとそうありたいと願い、確かに強くなったと言い切れる自分も居る、だから。
「──ありがとうね」
 そう言うと越野君はまた、「うん」と言った。嬉しそうな笑顔をしたので、私も笑う。笑っていた越野君が、けれど、ふとその眼を私の眼と合わせた。私が好きだった、話すときにする越野君の穏やかな顔が、真っ直ぐ前を向いた。
「安藤、俺、今は好きな奴がいる」
「……うん」
「そいつには、まあ、一回告白されてて」
「うん」
「断ったけど、やっと最近気付いたんだ」
「…そっか」
「だから今更かもしれないんだけど。でも、やっぱり言うことにした」
「……どうしてそう決めたの?」
「…安藤が」
 そこまでで、越野君は一旦言葉を止めた。そしてまた柔らかなまるい表情をして、
「やっぱり凛としてるから、見習おうって思ったんだ」
 と、そう言った。その頬にさっと浮かぶ朱鷺色が、さっき仙道君と見上げていた夕日の色と、すこしだけ似ていた。
「仙道君が待ってるよ」
と言ったら、越野君はちょっと驚いたような顔をして、けれど「そっか」とすぐに笑顔になる。霞草が咲くみたいに笑うものだから。そんな風に笑うものだから、少しだけ羨ましくなる。
「俺、ずっと安藤に憧れてたんだ」
 帰りがけ越野君が言ったその言葉に、嬉しくて誇らしくて、そして少し切なくて、涙が出そうになった。越野君の視線は、そのときだけは、鉛色の空の方を向いていた。

 越野君の髪の毛が、同じように湿っていた。暑くなり始めた空気のなかで、きっと一時間目の休み時間にはいつものように乾いてしまうけれど。私は窓の外に合わせた視線を、もう一度教室に戻した。遥か前、人の背中を5つほど越えたところに、越野君の頭が見える。
 越野君は、きっといつもの彼のまま眼をそらさずに、そして穏やかに笑って思いを伝えただろう。あの冬の夕暮れの、水紅とアイボリーが混じった空と、それを見仰いでいた仙道君の表情を思い出した。彼もそして私も、きっともう今は、あの時みたいな心もとない顔ではないのだろう。それでも、私はやっぱり少しだけ、ほんの少しだけ仙道君が羨ましいと思った。
 太陽が高くなるにつれて容赦なく照りつける熱光線は、梅雨が終わって、今年も夏が追いついたことを告げていた。私は背筋を伸ばして、真っ直ぐに前を向いた。
 ──凛と。



[end.]