Pleasures
部屋のドアを開けると、中は真っ暗だ。どうせ消すのだから、と、越野は玄関の電気をつける手間すら惜しんで、1Kのリビングへと続く薄っぺらいドアを開けた。ビジネスバッグを床に置いてから、ようやくパチリと白い蛍光灯を点ける。急いで出てきたままの部屋でコートをけだるくハンガーに掛けたあと、スラックスをシワにならないようにイスの背に被せる。そうして手早くスウェットに着替えると、ベッドに倒れ込んだ。羽毛布団に埋もれるように身体を横たえれば、次第にぼんやりとした眠気が迫って来る。まだ三月だ、エアコンも入れていない部屋で、こんなふうに眠ってしまったら風邪をひくのが分かっているのに、疲労をまるごと詰め込んだみたいな瞼が、もう重くて。何とか薄く開いた目の端に、11を少し過ぎた時計の短針が見えた。その隣にはカレンダー、めくったばかりの3のページ。この光景に、遠く見覚えのあるのはデジャヴュだろうか。潮風のにおいと、母親が自分を起こす声。そうじゃない、これは記憶だ。
二月の終わり、実家からの荷物の中に、食料に混ざってこのカレンダーが入っていた。父親の会社で毎年作られるこのカレンダーは、だから毎年、実家の自分の部屋に掛けられていた。おおかた、家のあちこちに掛けて残りを持て余したものを送って寄越したのだろうが、季節感も失うほどの忙しない日々を送る息子に、母親も何か思うことがあったのかもしれない。家を出てから数年も過ぎ、見ることもなくなった懐かしいカレンダーを残像に留めながら、越野はゆっくりと目を閉じる。瞼の外側でぼんやりと光る蛍光灯が、雪みたいに白くちらついていた。
*
『──ほら、雪よ。ちょっと水っぽいけど』
母親の声で窓の外を見れば、みぞれまじりの雪が雨どいからぽたぽたと降り落ちている。家々の屋根の上に広がる空は灰色で、遠く海の方まで雲に覆われていた。眠い眼をこすりながら食べた朝食はいつになく豪勢で、それなのに、母親は朝から綺麗に化粧をしていた。
『髪の毛きちんとしていきなさいよ。朝練じゃないんだからね』
『……』
『お母さんあとで行くけど、式のあと校門の前で写真…』
『分かった分かった、メールしてくれりゃ行くから』
『なによその態度。ご飯早く食べちゃってね』
先週の土日にクリーニングに出した学生服を着込んで、母親に言われた通り、鏡に向かって髪型を直す。埃ひとつない学生服を着て、練習のあった頃より一時間も多く眠った自分の姿は、けれども、いつもとさほど変わり映えはしなかった。
いつもなら玄関の前までなんて見送らない母親が、今日だけは越野の後をパタパタと追ってきた。毎日持って行くドラムバッグではなく、久方ぶりに引っ張り出した学校指定のスクールバッグを片手に、ダウンジャケットを羽織る。
『止んでるかもね、卒業式までには』
傘を手渡した母親が、外を眺めてぼんやりと言う。
『行ってきます』
行ってらっしゃい、という声を背中に聞いた。ビニール傘からはみ出した右腕に、みぞれがぽつりとひとつぶ落ちた。
普段どおりに江ノ電に乗り、普段どおりに高校前の駅に降りる。違うのは時間だけだが、一斉にホームをいっぱいにする自分と同じ制服の群れには、三年生の練習が無くなって以来、あまり落ち着かない。それも今日で終わりではあるけれど──そんなことを考えつつ、越野は白い息を吐きながら狭い改札口で切符を渡す。坂を昇る頃には、みぞれはさらに水っぽくなっていた。
色とりどりの傘が狭い坂道に連なって、白かった世界に色がつく。くるくると回るように揺れる傘のなか、3メートル向こうに、見慣れた長身がのったりと歩いているのを見つけた。一人だけみぞれに濡れるのを意に介しもせず、背中を丸めて飄々と歩く後姿に、思わず頬を緩めた。
『…バカか、お前』
『あ』
身長が高いので、それを差し掛けるのではなく傘をそのまま渡すと、仙道は寝起きのような顔で越野を見たあと、目を細めてそれを受け取った。
『雪だからいいかと思ったんだよ』
『みぞれだっつーの』
越野が確かめるように手のひらを空に向ければ、身を屈めて傘を越野に差し傾けながら、仙道も空を仰ぐ。吐いた息を白くして眺める横顔を、越野はひっそりと見つめた。ビニール傘を持つ指先が、寒さで少し赤い。それに気を取られていると、外に出したままの越野の手のひらに、大きなみぞれがひたりと落ちた。
『わ、つめて』
思わず引っ込めた右手を見つめていると、仙道の左手が伸びてくる。越野の手のひらを自分のところまで持って行き、撫でるようにその雫を親指でさらった。
『ほんとだ、水だね』
『……っ』
越野は慌ててその手を解いて、カバンを持ち直す。知られてしまったのだろうか、赤く染まる手のひらに触れたいと思っていた一瞬を。
『仙…』
『仙道くん!』
そのとき後から声をかけてきたのは、仙道のクラスの女子だった。
『越野くんも! おはよ』
『はよ』
『同じクラスなのに、仙道くんと一緒になるの、初めてだね』
『こいつどうせ、朝練ない日も遅刻してんだろ?』
『そうそう。一限目に居ないこともあったよね! 仙道くんらしくて、和んだけど』
含み笑いでそう言って肩を揺らし、彼女は軽い足取りでそのまま二人を追い抜いて行く。コートの端からいつもより長めのプリーツスカートが覗いていた。前方に友達を見つけて駆け寄って行く前に、ひょいと振り向いて、
『頑張ってね!』
と、ビニール傘越しに笑顔で声をかけた。
『……頑張るって?』
『さあ?』
越野の問いに眉をひょいと上げる仙道を見上げて、先ほどの続きとばかりに睨みつけると、仙道はいっそう頬笑みを深くした。それに負けたように、越野は渋々表情を緩ませる。
『越野、こうやって一緒に登校するの、おれらだって初めてだよ』
『え? そうだっけ?』
『起こしにきてくれたことは何度もあったけど、結局おれ、お前より早く部室に着いたこと一度も無かったな』
『お前なあ…。いいかげん、遅刻の癖、直せよ』
『……。それは』
ふいに仙道が言葉を切る。越野は顔を上げずに、靴元の水溜りを見つめた。
『これからは、起こしてもらえないから?』
『……』
返事はできないまま、昇降口の階段を昇る。仙道はそれきり、何も言わなかった。
*
いつも通りの8時40分にホーム・ルームが始まるけれど、今日ばかりはいつもの雰囲気ではない。出席を取ったあとは、担任が入試を労い、また談笑を交えながら最後の挨拶をするようだ。黒板には女子の字で「3−2 卒業おめでとう」という文字が大きく踊り、その周りには青やピンクのチョークで、所狭しとイラストや一言が書きこまれていた。隣の仙道のクラスの光景も、きっと同じようなものだろう。担任の挨拶を粛々と聞いている仙道が想像できず、越野は口の中でひそかに笑った。
『えー、僕は思うんです』
のっそりとした小太りの、穏やかな中年の鍋島という国語教師が言う。10分前に配られた卒業アルバムに夢中で聞こえていない生徒も居たが、お構いなしに鍋島は続けた。
『楽しいことほど、思い出さないものです。辛いことほど、人はよく、鮮明に覚えている。けどね、僕は思うんです。この高校時代が、たとえ思い出せなくなるほど遠くなっても』
『それって何十年後の話ー?』
茶々を入れた女子を呆れるようにじとりと睨む姿が可笑しくて、3−2はしばし笑いの渦になった。それがおさまる前に、その担任はまた飄々と言葉を続ける。
『そう、皆さんが、たとえこの僕の顔を思い出せなくなるくらい年をとってもね。たくさんの楽しいこと、嬉しいことがあったということを、忘れないで下さい。つまりね…』
鍋島はすこし笑って、自分の後ろの黒板を眺めた。「ナベ、ありがとう」という自分へのメッセージを見つけて、肩をすくめると、また生徒に向き直った。
『つまりね、人生は、別れや悲しみより、出会いや喜びの方が多いんだ、絶対に』
どこか飄々としたところが生徒に好かれているこの教師が、いつになく大真面目な声を出したことに、越野は少し驚いた。
『……そういうことです。ここに居るきみたちは、皆さんこの場所でね、それを体現したと僕はそう思っています。それを、忘れないでください』
はーい、という照れ混じりの返事を聞いた。涙もろい女子の泣き声を聞いた。それを囃す男子の声、隣の席の生徒と交わす視線。今朝までは現実感の無かった「卒業」は、きっとこういうものなのだろう。
9時30分にホーム・ルームを終えると、10分挟んで、すぐに整列だ。越野は何をするでもなく隣の男子と話して休み時間を終え、廊下に名前順に整列する。仙道のいる一組が、すぐ前で同じように整列していた。どこに居ても目立つ190の長身が、けれども、そこには見当たらない。越野は頭をずらして列の奥を見たが、それでも仙道を見つけられなかった。一組の生徒がキョロキョロしているのは、そのせいなのだろう。予行演習は昨日すでに終えているため、担任はもう体育館で待っている。そのうち、とうとう諦めて、列は体育館へと進んで行った。
『……くそ』
越野は軽く舌打ちして、列から外れ、廊下を小走りで逆方向に駆けた。後から名前を呼ばれたけれど、「トイレ!」などと適当にごまかして列の脇をすり抜ける。3組、4組…そうして廊下の最端の階段を昇って、屋上へと急ぐ。常習も常習、探す必要さえ無かった。屋上へ抜けるスチール製のドアの薄いガラスから、丸まった背中が見えた。
『……お前さあ』
『あ、来た来た』
『卒業式までサボるつもりかよ?』
『はは、サボんねえよ。ただちょっと、遅刻するだけ。いつもの癖で』
『…直せって言っただろ』
『やだ』
『……』
手すりにだらりと両手を乗せる仙道の後姿に並ぶと、越野はずるずるとその手すりに背中をもたれて、しゃがみこむ。屋上の小さな水溜りを上靴のゴム底が弾いて、ピチャリと音をたてた。いつのまにかみぞれは止んでいて、名残みたいな小雨だけがポツポツと時折肩に当たる。
『だってさ、起こしに行けねえよ、アメリカまでは』
『……』
『……黙んなよ』
はあ、と息を吐く。風はまだ冷たいが、息はもう朝のようには白くならない。曇った空もその奥で日が覗くほど、時間と共に春めいて。だから、惜しむように三月に降る名残雪なんて、早く溶けて春になってしまえばいい。越野はそんなことを裏腹に思う。下を向いて、もう一度息をついた。そうして、
『分かってるよ』
と、黙り込んだ仙道に言葉をかける。隣に立つ仙道の足に、こつん、と頭を寄せた。猫みたいに額を摺り寄せる、これくらいの甘えは許されるだろう。「卒業」は、きっとこういうものだから。
『困らせるつもりはねえよ。お前と別れるつもりもねえし……でもさ』
『うん』
『でも』
ざあ、と、小降りだった雨がそのとき突然強くなった。気まぐれな天気に空を仰ぎつつ、急いで校舎の中に入る。中は外に比べてずいぶん暖かい。すっかり凍えた身体で校舎に逃げ込んで、バタン、と屋上のドアを閉めた。途端、ふわりと仙道の匂いに包まれる。ぎゅう、と仙道が越野の首に頭を埋めて、学生服が皺になるほど抱き締めた。冬の雨に湿った肩口からは、春のかおりがする。変わり切らないこの季節のような不安と希望が、交互に越野の胸に往来した。悲しみだけで涙が滲むのでは、決してなかった。そんな簡単な感情なら、とうに言葉にして伝えていただろう。
『……でも、何?』
『……、何でもねえよ…っ』
『うん、言わなくていいよ。分かるから』
『お、前は…どうなんだよ!』
『…うん、それはあとで』
何だそれ、そんな抗議の言葉は、キスで押し戻された。
*
体育館の扉をおそるおそる開けると、来賓の親達の背中が見えた。気付かれないように扉をそうっと締める。親や在校生の前を横切って自分の席に戻る勇気はなく、二人は壁に寄り、まるで教師の一人のように一番後ろから卒業式を眺める。やがて二人を見つけると、鍋島はまた呆れ返ったようにじとりとした視線を送り、仙道の担任は青くなっていた。教師の列の一番後ろに居た田岡は、目を剥き、今にも怒鳴りそうな顔をして睨み付けている。どうやらあとで大目玉を喰らうのだろう、そのことすら可笑しくて、ひっそりと二人、含み笑いで視線を交わした。
式次第はもう、在校生送辞。今年の生徒会長が、壇上で粛々と話している。
" ──卒業、おめでとうございます "
そんな言葉を聞きながら、抱き締められたときの仙道の匂いを思い出す。部室のロッカーの閉まる音や、ボールの音を思い出す。ランニングのときに吹く七里ガ浜の波風や、夜中の仙道のマンションから見える江ノ島の光。自分はそういうものを、失くしてしまうわけではない。ただ、ここ離れるのが、少しだけ。
ふいに送辞が終わり、生徒会長が一礼をしたそのとき、仙道が後ろ手に、越野の手のひらをきゅっと握った。誰にも見えていないその繋ぎ目はすぐに解けたけれど、手のひらはずっと温かく、越野はひっそりと微笑んだ。大仕事を終えた生徒会長が階段を降り、席へと歩いて戻る。その途中で仙道と越野を見つけ、面食らった顔で席についた。それでも何ごともないように、式は続いていく。次の式次第が、司会によって読み上げられる。
" ──答辞。卒業生代表、仙道彰 "
『──はい』
背後から聞こえる声に、体育館じゅうがこぞって振り向いた。運悪く自分の母親と目が合ってしまった越野は、ワンテンポ遅れて仙道を見た。そのころにはもう、仙道は飄々と視線をすり抜けて、壇上に向かって歩き始めていた。にやにやしながら一度越野を振り返り、まさか、という顔で見る越野に対して「してやった」とでもいうように得意げに笑う仙道に、今度ばかりはやられた、と思う。ふてくされたように壁に寄りかかると、田岡がまた肩をいからせて睨んだので、慌てて背筋をぴんと伸ばした。
悠々と壇上に上がった仙道が、にこりと笑って一礼する。どこに隠していたのだろうか、白い紙を取り出して、開く。そうしてゆっくりと、いつもの鷹揚な調子で言った。
『答辞──』
*
眠気の最奥で、電話のコール音が聞こえた。携帯のそれではない、固定電話の音に、越野は意識を夢の淵から引き上げる。羽毛布団から重い身体を押し上げ、電話へと這うように、けれど急いで向かって受話器を取った。
「もしもし」
『あ、出た出た』
「──仙道……」
『久しぶり』
「うん、十日…ぶりか」
『……数えてたんだ』
嬉しさを少しも隠さずにそう言うから、寝起きの越野はつい否定をし損なう。そんな越野を、何百キロも離れた仙道が受話器越しに察してか、言葉をかけた。
『もしかして、もう寝てたか?』
「うん、いや…起こしてくれて良かったんだ。風邪ひいちまうとこだったから」
『そっか、お疲れ様。どんな夢見てた?』
目を細めて言う姿を想像すれば、越野のみぞおちがきゅうと痛む。受話器を耳に押し当てたまま、リビングの床に座りこんで俯いた。仙道の声の奥で、車の走る音がする。アメリカは朝、日本は深夜、その時差はすなわち距離で、電話だけでは埋められない絶対的なものだった。
「…教えねえ」
『なにそれ』
拗ねるような言葉に、越野の頬も思わず緩んだ。開けたばかりの瞼は重く、目を閉じてゆっくりと唇だけを動かした。
「……三月に入ったな。もう春なのに…今年もまた雪が降ってる」
『…今年も?』
「うん…」
目を閉じて、電話台のカラーボックスに寄りかかりながら仙道の声を聞いていると、また夢の続きを見てしまいそうだ。はは、と電話の奥で、仙道が笑った。
『──"大切な人と離れてしまうのはすごく寂しいけれど、また会えることを楽しみに"』
「……」
『"それを楽しみに、新しい場所で、頑張ろうと思います"』
「……覚えてんのかよ。そのらしくねえ答辞」
『覚えてるよ。鍋島と一緒に、苦労して書いたからな』
どうして考えていたことが知られてしまうのか、仙道はいつもそうだ。そんなことを思いながら、もう一度目を開けて、見られてもいないのに顔の火照りを気にかけた。左手で頬を押さえながら、足元を見つめる。小雨に濡れた屋上と、仙道の横顔を思い出した。隣に仙道は居ないけれど、今日は突然の雨で言葉が遮られることもない。
「……寂しいよ」
『……え?』
「寂しいよ。離れてるのは、やっぱり。お前に会いたい」
火照りはそのままで、越野は枯れた声で絞り出した。スウェットの袖で、無意識に顔を隠す。もう高校生ではないのに、あのときと同じ思いを言葉にするのに、こんなにも涙が出そうになるなんて。
『…うん。ありがと…』
「うん」
『……知ってたけど。あの頃からずっと』
「うん……」
はは、とまた笑う仙道に、思わず越野も破顔した。言葉にしなくても、思いは溢れ出す。そうして散らばった思いを、拾い積み上げて出来た言葉で、それをまた伝え合うのだ。そんな作業を、とても愛しく、嬉しく感じるのだった。離れていることでみぞおちを締め付ける寂しさより、それはずっと大きい。それは悲しみよりずっと、いつまでも心を揺らすものだ。
『……来月な、帰るよ。一年ぶりに』
「──えっ?」
そして、ふいに飛び出した電話の本題に、思わず受話器を取り落とすのはそれから二分後のこと。
4月のカレンダーに印が付くのは、その五分後のこと。
[end.]