まどろみ
自分に女が抱けないと裕が身体で知ったのは、中学三年の八月だった。うだるように暑い夏の午後、クーラーで冷やされた八畳の部屋で覚えたのは性欲ではなく吐き気だった。幼くも丸みを持つ胸の谷間にしっとりと浮かぶ汗に、触れるだけで折れてしまいそうな頼りない腰に、清潔な陶器のような肌に、目眩と、そして恐怖さえも感じたのだ。つい三十分前まで、自分にもほとんど自然に訪れるものだとまるで当然のように信じていた営みは、その感覚を覚えた瞬間にはもう無理難題になっていた。それは自分には未来永劫できないものだと、そう確信させるほどに絶望的な拒否だった。
自分とは性の違う女という生物は、けれども、とても優しかった。圧倒的なほど存在感のある絶望を前に打ちのめされた裕に、今では名前も思い出せないその少女は、落ち着くまで何も言わずにただ寄り添った。ぴたりと肌を重ねても、ひとつその意味が違ってしまえば、不思議と身体はそれを厭わなくなった。そのとき裕は思ったのだ。女とは、なべて母だ。乳をやるように寄り添ってもらうことはあっても、また包むように抱き締められることがあっても、その逆はない。侵すことはできない。
「それから三年間は、俺ずっと怖かったよ」
裕は言いながら、紅く染まる部屋の中、目の前の大きな背中をぼんやりと見つめた。カチャカチャ、と音がするのは、陽次の手の中にある新型のゲーム機のコントローラのそれだ。
「女性が?」
「違くて」
「……」
「……未来、が」
ぽつん、と噛み締めるように裕が言った言葉が、アクションゲームのBGMと混ざり合って、非現実と生活感の間に浮いていた。ぴかぴかと目まぐるしく変わる画面と、窓から差し込む暮れる夕日、そしてそれらに照らされる陽次の髪や横顔を、ソファに寝転がって、斜め後ろからじっと見た。休日だから、無精髭が少し伸びている。
「想像できないものは、ないのと同じだと思ってたんだよ」
何も言わない背中を特に気にすることもなく、裕はさらに言った。ほとんど独り言のようだったが、そうではないことを知っていた。頭をソファの端に預けて、眼を閉じる。心地良いのは、日没のときの独特の終末的な空気からであればいい、裕はそう思う。この距離感に埋もれてしまうのは、まだ怖い。一度味わった危うさと虚無感は、どこまでも裕を追いかけている。
『大丈夫だよ』
眠りと覚醒との境界でふいに飛び出したのは、もう十年近くも前に言われた言葉だった。首筋の甘い香りと、腰を包むような細くて優しいてのひら、クーラーで冷えた肩にかかる暖かいタオルケット。午後から夕方に変わる傾いた日差しが、アルバムみたいに小さな窓から、少女と自分の髪の毛を染めていた。
『大丈夫だよ…』
それは、鼻先を寄せて小さな枕をふたりで分け合いながら、あの夕方に聞いた言葉だった。
ふと眼を開ければ、陽次が前髪を撫でていた。画面からは相変わらずBGMが聞こえていた。先ほどから一分もしていないのか、一時間経っているのか、裕には分からなかった。ただ、続きが知りたいと思った。忘れていたことさえ、裕は忘れていたのだった。
「クリアしたよ、裕が寝てる間に」
「…うそ。難しくなかった?」
「まあまあ」
「器用だからなあ。じゃあ…ご飯食いに行こっか?」
おお、と言って陽次が裕の額から手を離した。思わず引きとめる声を出しそうになる喉元を、裕はぐっと抑え込む。これが、自覚している防衛機能だった。陽次が忘れろと言ったあの空っぽの部屋のせいではなく、もしかしたらこの自己防衛は十年も前から、もう始まっていたのかもしれなかった。もどかしさがまた頭の内を走りぬける。起き上がってぼうっとしていれば、陽次がまた後姿でゲーム機の電源を切っていた。それは裕が持ち込んだ機器だ。何度試してもクリアに至らないアクションゲームだったが、陽次はそういうものをたいてい軽々とこなす。
「…大丈夫だよ」
デジャビュのように感して思わず顔を上げたが、それは間違いなく陽次の声だった。裕はまどろみから完全に抜け出して、陽次の背中をじっと見る。日はいよいよ真っ赤で、黒くなったテレビ画面をちりちりと照らしていた。ふいに放たれたその言葉に、けれど浮遊感は無かった。
「俺はそんなに儚くないからさ」
「え?」
「だから、想像しなよ、思う存分」
未来とか。ちょっと付け足すように、陽次が言った。その背中が、急に現実味を帯びた気がした。裕は一瞬面食らったが、すぐに覚えず笑いが零れる。右手を伸ばして陽次の肩に触れると、骨ばって固く、それはとても慕わしげに確かにそこにある。
飛びつきたい衝動を、今度は抑えられなかった。腕を回せば、くすぐったそうに陽次が首をよじって振り向いた。触れ合った鼻先は裕に少女を思い出させたが、不思議と、言葉の先を知りたいとはもう思わなかった。
[end.]