明るい部屋

 ベルを鳴らしたあと微かに聞こえる足音と、次いで響くガチャリ、というドアの開く音に、裕は小さくほっと息をついた。
「鍵、持ってるだろ」
 言葉と同時に扉から覗いた顔は、けれど特に不機嫌という訳でもなく、いつもの穏やかで頓着ない笑顔を浮かべながら裕を迎え入れる。シャツを着崩しただけのラフな服装が、陽次の均整の取れた大きな身体に似合っていた。それをひそかに下から眺めながら、裕は靴を揃えて部屋に上がる。
「陽次さん、居るって分かってたからさ」
 言いながら、持ってきた酒や菓子などの土産の入った袋をダイニングテーブルに置くと、中からビールを二缶取り出した。銘柄は同じで、陽次が好んで飲んでいるものである。リビングのソファに座った陽次に、はい、と一缶を手渡して、裕も左隣に腰をかけた。ひんやりとした皮の感覚が、手に持つ缶ビールの冷たさと相まって気持ちがいい。初秋と言っても、残暑がまだじわりと背中からねめつけるような日々だった。
「まだ昼過ぎだぞ」
 と、陽次がすこし呆れたように見たが、それに少し笑って目配せをすると裕はカシュン、とビールを開けた。続いて、陽次もまた小気味良い音を立ててプルタブを開ける。アルミ缶をひとつ擦り合わせて、一口喉に流し込んだ。開けた窓からは三時の柔らかい日が差し込んで、カーテンが白く透けていた。日曜の昼だから子どもの遊ぶ声でも聞こえてきそうなものだが、今日は静かにただ日だけが傾き続けている。白ちゃけたカーテンが風でわずかに揺れるのを、裕はぼうっと見つめていた。
「…鍵、ほんとうに持ってるの」
 そんな裕の頭を左手でぽんぽんと撫でながら、陽次が顔を覗きこんで言う。裕は向き直ってその顔を見上げたが、すぐに目線を手の中のビールに移した。
「…持ってるよ。当たり前じゃん」
「でも俺の居ないときには、来ないだろ」
 その言葉に押し黙った裕に、陽次がふっと笑う声が聞こえた。ソファの前のローテーブルに手を伸ばして、右手に持っていた缶ビールを置くのが見えた。そのまま両手を裕の身体に回して、頭を裕のそれに寄せる。そんな仕草にも、裕はまだどぎまぎする。缶を握り直していると、耳元に陽次の声が響いた。
「開けたら居ない、なんてこと、もうないから」
 手の中のビールを、取りこぼしそうになった。がらんどうとした、やけに明るい1Kのリビングが脳裏に浮かぶ。それもまた日曜の昼だったことは、思い出すまでもなかった。荷物と言えるものは何もなく、残していった古いカーテンだけが白く透けた、ただ明るいだけの部屋だった。裕が恋人の名前を呼びながらマンションの扉を開けたときにはもう、もぬけの殻だったのだ。
「…そんなこと忘れたよ、もう」
 俯いて陽次の腕に頬を寄せながら、裕が呟いた。裕の首筋に埋めた陽次の顔は見えなかったけれど、きっと笑っているのだろうと頭の隅で思う。
「なら忘れて」
「……」
「前の男なんて、とっとと忘れろよ」
 切実さなんて一片も含蓄していないような声で、まるであたかも軽々しい調子で言われたその台詞に、けれど裕は声を返すことができない。回された腕の体温がじわりと高くなった気がしたのは、酒のためだと思った方がいいのだろう。顔を上げた陽次は、やはりいつもの穏やかな表情で笑っていた。部屋は相変わらず明るくて、カーテンが白く透け風に揺れる。視界に映るこんな景色が、もし明日扉を開けたときには目の前から消えているかもしれないぐらい、そのくらい不確かなものであるのなら。
「……ビール、飲も?」
「裕」
「あと、陽次さんさえ良ければさ」
「……」
「一緒に住んでよ、俺と」
 不確かなものだと知っているのなら、少しでも確かなものにしたいと、あの時の景色を思い出しながら裕は思った。扉を開けるのが怖かったのではない。そこに居るという、そんな確信を持てるほどに人に強く求めるのが、昔も今も怖かったのだ。
 一時の沈黙のあと、ふいに陽次が相好を崩した。いつもとは余りにも趣の違うその笑顔に圧倒されて、裕は今度こそ本当にビール缶を落としてしまった。


[end.]