オーケストラ
"そうよ私仙道君が好き"
──音楽は止んだ。二年半、二年半だ。彼女は背筋のぴんと伸びた、色の白いひとだった。Tシャツの袖から伸びた腕には筋肉はあまりついてないようで、「運動は苦手、でも好きなの」と、だからマネージャーなの、と越野が話しかけるたび丁寧に答えてくれた。彼女の紡ぐ言葉の、その末尾の隠るような温かさが好きだった。何気無く交わされる「また明日」の挨拶は、「桜がきれい」と言ったその透明な声は、歯を噛み締めて「負けちゃったね」と、そんな露のひとしずくのようなささやきは、越野の耳から身体全体にゆっくりと染み渡った。まるで音楽のようだった。生まれる前から聞いていたような自然な音楽だった。その音楽とずっと一緒に居たいというのは自然な感情だった。あおいという名前のひとだった。母音が澄んできれいに響く、美しい名前だと越野は思っていた。
恋をしていた。二年半のあいだずっと、あおいに、絶え間なく。
*
いつもの心地よい会話の間から、あおいの告白はふいに飛び出した。夕暮れの教室だった。ふたりだけがぽつねんと外を眺めていた。紅い光があおいの頬と口元に被さり、白い肌に反射して金色のいちょうみたいな色で光る。それを楽器のようだ、なんて思いながら、ほとんど無意識にあおいの声を聞いていた。
「そうよ私仙道君が好き」
淀みがないから、幾重にも耳元でこだました。その場面は色で言うならどうしてか澄んだ青で、金色とのコントラストを思い浮かべずにはいられなかった。二年半にわたる、あおいへの片想いの終局をたった今迎えたことに違いなかった。あまりにも突然だったのに、それはまるで、指揮棒の動きが見てとれないほど小さくなった音楽がいつのまにか止んで聞こえなくなっているような、自然な最後のように思えて仕方なかった。
なぜだろう、と考えたのはほんの一瞬だった。ああ、自分はよく知っていた。あおいのそのきれいな声は、仙道に向けられるときに少しだけ張りつめた音を出す。それはいつでも、冬の朝のように冴えて凛とした響きを持った。
「俺はあおいが好きだったよ、ずっと」
「……ありがとう、越野君」
うん、と越野は言った。その一言で足りる気がした。きっとこの恋は、オーケストラの演奏のように自然に終わりを迎える恋だったのだと思った。そして、それはあおいの恋も同じだった。
「わたしのなにが好きだった?」
「声だよ」越野は迷いもせずに言った。「あおいの、声」
ふふふ、とあおいが鈴みたいに笑う。
「わたしたち、何だか、似てるね…」
とあおいが言う。越野は何も言わなかった。あおいが似ていると言うなら、似ているような気がした。
「わたしね、仙道君の手が好きだったんだ」
「あいつの、手…」
「そう。ボールに触る、大きい手」
仙道の手を思い浮かべながら、しかし越野は、またあおいの声に耳を傾けていた。今は木枯らしが吹く頃なのに、それは春風みたいに暖かかった。その声は、今もやっぱり心地よい、と思う。そうだ、きっとこの恋は、こんなふうに美しくて心地よいものだった。そしてきっとこの恋は、心地よいままで終わっていくものだった。
あおいが笑ったままの口元で呟く。
「何だか、わたしたち。幼いね…」
「…うん」
「幼くて、くすぐったいね…」
「うん」
終わりを迎えた二年半の恋は、幼かった。幼くもきれいで、それはこの瞬間にもう、懐かしかった。
「仙道君の手。…すこしだけね、まあるくなるの」
──越野君の背中を、ポンて叩くとき。
知ってた?とあおいが目を細めて微笑んだ。視線を向けると、越野が知っていたあおいより、ずっと大人びた気がした。
あおいの問いかけに、越野は答えなかった。仙道が肩に触れる手を思い出して、それが柔らかかったことに気付いた。あおいがまた、クスッと笑う。廊下に、ゆったりと、それでいて明るい足音が聞こえた。
「越野!」
と、仙道が軽快に教室に入ってきた。あおいにもにこりと笑いかける。
「お、居残り終わったか?」
「うん。悪ィな、待たして」
「だから進路希望くらいはっきり書けっつったろ」
「だな。あ、あおいも付き合っててくれたの?せっかく練習ないのに」
「越野君と話してたんだよ。……『手と声』についてね」
なんだそれ、と笑う仙道につられて、越野も笑った。あおいのいたずら顔には、やっぱり紅と金が混ざった夕暮れが映っていた。
「進路、どうした?」
椅子をギッと後ろに押して立ち上がりながら、すこし気になってそう聞くと、
「ん……越野の第一希望と同じ、だよ」
と、仙道は何でもなく言った。
「え。お前、スポーツ推薦の話もう来てるだろ。同じって…、勉強してんの?」
「勉強ならするよ。今からなら間に合う」
──ふうん。越野も何でも無く相槌だけを打つ。緩む頬は押さえられなかった。それは仙道も同じらしかった。そんな二人を見て、「羨ましいな」とあおいが小さく呟く。表情は、けれど慕わしげな笑顔だった。
夕日がすこし傾いた。今日が、ひとつの恋と一緒に終わっていく。音楽は止んだのに、知らないうちに何かがまた始まっているような気がした。それはまるで、寄せては返す青い波みたいに。明けては暮れる日々みたいに。オーケストラはそうやって、新しい音符を紡ぎだしていく。止まない音楽があるとすれば、それは恋という名前ではない、きっともっと確かなものだと、越野は頭の隅で思う。──決してきれいなだけではない、けれど、確かなもの。
「越野君」
帰り際、あおいがふと名前を呼んだ。
「なにが好きか、なんて。意地悪な質問しちゃったね」
と、恥ずかしそうに言うので、越野も思わず破顔した。
仙道と二人、学校の外へ出た。ずいぶんと影が長くなった初冬の夕暮れに、とうりゃんせが遠く聞こえる。帰り際、ぼうと海を眺めていたら、大きな手のひらがふいに肩に置かれた。
「さっき、何話してたの?」
斜め後ろを振り向けば、仙道が穏やかに笑いかけていた。
「………。お前の手っておっきい。そんで、優しいのな」
質問には答えず、けれど思った通りの言葉を言うと、仙道が突然かっと赤くなった。面食らった越野はしばらく驚いていたが、とうとうあははと豪快に笑い出した。
[end.]