満月が見ている

 流血表現など、一部グロテスクと思われるシーンが含まれます。苦手な方は十分ご注意ください。



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「仙道彰と見受けた。この夜更け、我が藩主の屋敷に何用で参った」
「…お侍さん、物騒なことを仰いますね。手前は只の浪人、覚えがございません」
「……」
「秋の夜長に月見もできませんとは…」
「…嘘を申すな、仙道!」
 月に照らされた後姿が、鷹揚に振り返った。屋敷の前の浅い掘りには、青白い満月とススキが揺れながら映る。その姿を見紛うはずもない。五年前の記憶であっても、その面影は未だに越野を締め付けて離さぬ懊悩の種だった。
「……侍ことばも板に付いたな、越野」
 緩やかに浮かべた笑顔には五年分の陰りが確かに見えたが、それでもこの男はあの頃と変わらずに眉尻を垂れ下げる。
「……。何用で参ったと聞いている」
「元服の頃は、木刀を持つのも覚束なかったのに」
「今更……なぜ姿を現した……」
「踏み込みのときの癖も、直ったのか?」
「──どうしてお前が今日ここに居るんだ!」
 辺りに他の屋敷がないためか、周囲はしんと静まり返っていた。大きな武家屋敷の門の前で、越野の怒鳴り声が響く。そのうしろではただ、さらさらと流れる水の音が秋風に乗ってススキを寂しく揺らしていた。あいだには月、あの夜と同じように排他的で、それでいて二人の秘密を垣間見た、訳知り顔の月。越野は目の前に佇む仙道を、まるで視界からいっときも消しはせぬというような目つきで睨めつけた。眼瞬きのひとつもしようものなら、途端にまた──。けれども今日ばかりは、今日のこの夜ばかりはどうかこの屋敷に現れてくれるなと、そう祈るように繰り返していた矢先の邂逅だった。
「後姿を見るまでは、信じられなかったんだ」
「……」
「信じたくなかった…」
「……後姿で、俺だって分かってくれたんだな」
「……っ」
「俺もすぐに気付いたよ。お前…」
「──御藩主様には御子がない! いま賊に切られてしまえば、我が藩はお家取り潰しの憂き目を見るんだぞ!」
「……」
 仙道は笑顔のまま、越野からふいと視線を外した。そうしてどこか虚空を眺めながら、月夜に相応しいひそやかな声で呟く。
「そうするために、こうして今、ここにいる」
「……!」
「とうに一報が渡っていたみたいだな。俺が下手人として、この門の前に現れることも」
「まさか…まさかお前が、藩の蔵を狙う下衆連中の一派に与するとは……! 落ちたもんだな…! それでも武家の子か!」
「…”武家の子”」
 越野が絞り出すように言った家臣としてのせめてもの反駁を、仙道は吐き捨てるように繰り返した。
「そうだ! お前は……お前は俺より、家柄も、人望も、才覚も……武士として、この藩の家臣として、すべて秀でていたのに!」
「そんなもの何になると五年前に言ったはずだ」
「──っ…」
「”それでも武家の子か”……越野はあの夜もそう言ったね」
 煽る様にまた視線を送った仙道の眼には、ほの暗い絶望と月明かりのような狂気じみた願望とが混在しているように見えた。
「俺は…でもな、越野。俺はそれでも良かったんだ。お前に軽蔑されても……あの夜、思いを遂げられたから」
 それを聞くと、越野がかっと顔色を変えて仙道に喰らい付く。
「主君を裏切ってもか! 仕える藩主を捨て置いて消えることになっても──俺を、抱いて…それで良かったと言うのか!」
「そうだ」
「……お前…」
「……そうだ。俺はそれで良かった。でも……」
「……」
 仙道の瞳が、月に雲がかかるように陰った。ただその黒さだけを増して、表情が判然としない。そのまま仙道は言を繋いだ。
「でも、五年経った今になって…俺はそれだけでは足りなくなった。もうずっと、お前に懸想したままなんだ。だから今日この日にここに来たんだよ。この意味が分かるか? 越野」
 ほとんど瞳の色を変えず、諦観すら見えるほどの無表情で仙道は淡々と話す。そうしながらも、右手で腰の得物の柄に手をかけていた。道場で飽くほどに見た仙道の構えが今、越野の前でもう一度つくられる。
「お前…まさか…」
「そうだよ。俺が、かつての主君を討ちにきたのは……」
 いよいよ仙道がそれを抜いた。越野も反射的に刀を構える。得物が木刀であったなら、これは、数百回も繰り返した手合いのはずだった。揺ぎ無い足取りで間合いを完全に縮め切った仙道が、もう一度口を開いた。しかし笑顔はすでに消え、その表情は苦渋に満ちたものだった。
「……お前を、この屋敷から攫って行くためだ」
 そう言って、完璧なほどの踏み込みの速さで、仙道は越野の間合いに身を滑らせた。六尺三寸ほどもある大きな身体が刀を翻すさまはまるで青嵐のようで、越野は身体ごと屋敷の外壁にせり飛ばされた。
「……っ」
 がつん、と大きな音を立ててぶつかった外壁は、けれどびくともせずに、越野を固く受け止めていた。衝撃から予想できたはずの痛みを感じていないことにすぐさま気付いて、越野は即座に膝を立てた。舞っているのは砂埃だけで、自分の身からは血の一雫さえ滴ってはいなかった。
「峰で打つなんて…峰打ちなんて、俺にそんな真似するんじゃねえよ…!」
「お前だからするんだよ。……そういうふうに話すと、越野は本当に昔のままだな」
「……っ」
「お前が俺に刀で勝ったことなんて、一度でもあったか?」
 そう言うと仙道は刀を鞘に仕舞って、屋敷の中へ入ろうとする。越野はわきに落ちた刀を拾い直して、その前にもう一度立ちはだかった。
「──勝てたことなんて、一度もねえよ……だから」
「……」
「だから……!憧れた……っ」
 そう言うと越野は、刀を仙道の前についと突き出した。仙道は一歩だけ後ろに下がって、少し身を低くして抜刀の構えを取る。越野はそれを見て、初めて笑顔を浮かべた。そうして、額に汗を浮かべながらも、存外に落ち着きのある声を出した。
「憧れて、憧れて……俺はいつもお前の後を追いかけてた。この五年間も、結局そうだったんだ。俺はいつもお前を待ってた。いつも、お前がここに戻ってくるのを、ただ待ってた!」
「……越野に、俺を待つ理由なんてないだろう」
「……仙道、五年前のあの同衾は、同意の上のことだ」
「……あれは、俺が──」
「同意なんだ。俺はただ、お前が仕掛けてくるのを心の内では待ってた。あざとく、卑しく──清廉潔白な顔をして、お前を待っていたんだ」
「……まさか……」
「だから……でも。今夜でお前を追うのはやめる。御藩主様も討たせない」
「……」
 越野は刀を両手に握り、斜めに高く高く構える。月の青白い光に、ひゅうん、と刀身が鋭く光った。これから吸うであろう人の血を、その芯まで染みるほどに欲すような輝きだった。
「越野、俺を切る気か」
「……」
「お前に俺を切れるわけがない」
 仙道が僅かに草履を地面から話したのを見計らって、越野は柄を持つ手に力を込めた。そうしてその刹那、左手をそこから素早く離して仙道の鼻先へ向けた。握った拳が、仙道の顔の背後から見つめる満月に届きそうだ。
「──切らねえよ………お前のことは」
 越野はそう言うと歯をぐっと噛み締めて、右手で握った刀の刃を、自分の左腕めがけて勢いよく振り下ろした。刃こぼれ一つ無かった刀は骨ごと越野の左腕を切り落とし、その片割れは紅い血を噴き出しながら土の上へと落ちた。たった一瞬の空白ののちに、痛みが獣のように越野に襲いかかる。
「──あああああああああああ!」
「お前──ば、馬鹿野郎!!」
 越野の叫びと一瞬の混乱の後、動脈の血を顔じゅうに浴びながらも、すぐさま仙道が自分の手ぬぐいや袴の紐でその左手をきつく縛りつけた。青黒くなるほど幾重にも縛られて、追随する痛みの連鎖に越野の心臓が骨と皮を破ってしまいそうなほどに跳ね上がる。視界がぐらりぐらりと揺れ動き、気持ちの悪い汗が身体中から噴き出しては流れていく。越野は地べたに倒れそうになるのを済んでのところで抑えた。そうして、痛みのあまり前屈みになりながらも、仙道の前に猛然と向き直る。浅い息を繰り返しながら、言葉を紡いだ。
「わ…分かったかよ…仙道…」
「どうしてだよ…どうしてお前がこんなことを…」
「お前らが、二手に別れて、この屋敷を攻めることは、事前に分かってた…。東を魚さん、西を池さんと福田が、守ってる…」
「……。……あの三人、なら……」
 越野はそれを聞いて、額いっぱいに汗を浮かべながら、くく、とまた笑う。
「そうだ…。あっちは今頃…方が付いてる、ところだ……だけど」
「……」
「俺がここで、こうして…ひとりでお前に、向かってることは、…っ、誰も知らねえ」
「…なに…?」
「これが……だから……っ、おれの、最後の、仕官だった……」
「…どういうことだ…? なにを──」
「おれは」
 いったん言葉を遮ると、越野はゆっくりと腰を落として、土の上に落ちた刀を右手で取り、鞘に戻した。そうしてその鞘を帯から引き抜くと、身を揺らしながらそれを屋敷の壁の方へ放った。ガシャン、と重たい音を立てて、それは壁と土の地面に叩きつけられる。その音を聞いた後で、越野はすうと息を整えた。背筋を伸ばして、仙道を向く。
「おれは、これでもう武士じゃない。家臣でもない……ここから、お前を連れて行く」
 キッと仙道を睨みつけた眼は、訣然としていた。
「俺が、お前を、だ!」
 噛み締めるようにその言葉を言い放った越野は、気のふれそうな痛みに耐えながら、確かに笑った。その言に一度きり、びくり、と大きく震えた仙道の手のひらは、やがて力を無くしたように刀の鞘を地面に取り落とした。そうしてその腕が越野の背中を包み込む。自分の血で濡れたその腕は、昔抱かれたときよりもずっと温かかった。そのとき不意に流れた涙の白露が、仙道に気取られなければいい。越野はそう願う。自分は、武家の子だったのだから。それは確かに越野の誇りだった、仙道を一等に欲しいと思ってしまったその前までは。
 ……ただひとつ満月だけが。青白く光る秋月だけが、五年前と今日のふたりのいきさつを、これからの二人の行く末を、煌々とした視線で見つめ続けていた。






[end.]