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 仙道の「おいしい」という声に、越野が「そりゃどうも」と答えた。機嫌は悪くはないのだろう。食卓に並ぶのはご飯が二膳に味噌汁が二膳。ふたり分のサラダにふたり分の筑前煮。たまに仙道のマンションに寄ってはあれこれ言いながらとる夕食も、付き合う前から数えると、もう一年以上になる。
「越野って、料理うまいよな」
 満腹をかかえベッドに寄りかかった仙道はにこにこと笑いながら、食器を洗い終わった越野を呼び寄せるように声をかけた。皿洗いくらい自分も手伝うと言うものの、大きな身体が却って邪魔だと、いつも犬のように追い返される仙道だった。今日は越野も泊まるつもりで来ているので、仙道は嬉しさについつい頬が緩む。
「そうかね?」
「家事全般をささっとこなせるっつーか。要領がいいのかなあ」
「はあ…そりゃおまえだろうが」
 比較的良かった機嫌も、いつのまにかそっけない態度に戻っていた。濡れた手をタオルで拭いながら答えた越野は、けれども大人しく、仙道のとなりにすとん、と座った。目の前のテーブルの上にはテレビのリモコンがあったが、どちらもそれに手を伸ばすことはない。その雰囲気に仙道はすこしほっとして、何となく越野の頭を撫でたり、控えめながらも手の甲にちょっと触れたりしながら、あれこれと話を紡ぐ。
「将来一緒に住んだら、おれらはさ」
「……」
「家事とか分担……、──越野?」
 仙道の手が髪を梳くのをそのままにベッドに頭を預けていた越野だったが、仙道の穏やかな言葉を遮って、冷ややかな顔で立ち上がった。
「そういう話なら興味ねえな」
「…そういう話って?」
 仙道はまだ慌てずに、自分の荷物から着替えを出そうとしている越野の背中に話しかける。
「将来とか、一緒に暮らすとか。おまえ適当に言うけど、正直おれ実感湧かねえし」
「……実感湧かないと、話しちゃいけねえの?」
 低い声でそう問えば、越野が横顔でこちらを半分振り向いた。細めの眉が歪み、薄い唇は、ぎゅっときつく結ばれた。この顔を見ると、仙道はいつも心臓がいやに速くなる。
「いけねえっつうか…そういうの、面倒くせえよ」
 越野の、ドラムバッグを探る手が止まっていた。面倒くさい。その言葉が、耳の奥から入り込んで、仙道の喉からなにか塊のようなものを突き上げた。日常的に使っているが、越野の口から出たというだけでそれほどに衝撃のあることばになるのだと、仙道は初めて知った。
「……。越野はさ。どうして付き合う前より、今のほうが辛そうなの」
「……」
「おれと居るの、辛いの」
 こういった否定的な質問をすることを、仙道は極力避けていた。否定をすればすぐに終わってしまう関係かもしれないから、だから仙道は常に危険を回避したかったのだ。すぐに後悔の念が走るが、越野が否定してくれれば、その後悔は少しは報われるだろうと仙道は願う。結ばれた口唇をじっと見つめた。
「辛いよ。すげえ、つらい。しんどい」
「……越野」
「こんなにつらいなら、……」
「……」
 それきり、越野はまた口をつぐんだ。仙道は、はあ、と溜息をついて腕の中に顔を埋める。塊がどんどん熱くなって頭の方までせり上がり、眉間のあたりがきゅうと痛む。けれどそれでも、声を押し留めることができない。
「…続きは? つらいなら、何?」
「……」
「……」
 会話が完全に止んで沈黙が数十秒続いたあと、ふいに、越野がドラムバッグを乱暴に肩にかけながら立ち上がった。
「もういい、やめた──帰る」
 そう言ってリビングを横切り、玄関の方へ足早に歩いていく。仙道は一瞬呆然として、その背中を見ていた。けれどもすぐにテーブルを避けてほとんど走るようにそれを追う。靴のかかとを潰した越野が玄関のドアノブに右手をかけたその瞬間、仙道はその左手を強く掴んだ。
「今の『やめた』って……別れる、ってことじゃないよね?」
「離せ…」
「いやだ、なあ、越野。違うよな?」
「はなせよ、仙道……おれ今、おまえの顔、見たくない……」
「そんなこと、……」
 言わないで、と、その言葉はいよいよ涙が出たから声にはならない。せめてみっともない泣き声だけは聞かれたくないと、仙道は歯を噛み締めてつばを飲み込んだ。この手を離してしまったらどんなに楽だろう。諦めてしまえたらどんなに楽だろう。こんなにつらいなら、初めから何もなければ、どんなに楽だったろう。
 越野は力が抜けたように、玄関にしゃがみ込んだ。越野の左手と仙道の右手は繋がったまま、結び目のように宙に揺れる。頭を腕のなかにすっかり埋めてしまった越野の背中が、細かく震えている。抱き締めてもいいのか分からなかったが、仙道は後から抱きすくめるようにその肩に被さった。狭い玄関に泣きながらふたり座り込む。涙で濡れた首筋に、後から唇を押し当てた。
「越野、ごめんね…」
「…っ、……」
「もうああいうこと言わねえから……越野が辛くないようにする、から」
「ふ…、…っ…」
「別れるなんて言わないで」
 越野は泣きじゃくりながらも、仙道の方を、頑なに向こうとしなかった。笑顔を見たいと思うのは、自分のわがままなのだろう。仙道は、越野の少し汗ばんだ襟足に、ことんと自分の額を埋めた。糸が張るような危うさや、突然崩れる均衡、いとも簡単に溢れる涙。すぐにほどける結び目のように、もろく繋がったふたりの手。それでも、仙道は思う。
「仙道、お、おれ…」
「……うん」
「おまえに、優しくしたいのに…」
「うん……」
「やさしく、…っ、たいのに……」
「……」
 ──優しくなくていい、そう言ったら越野がまた泣いてしまうと分かっていたから、仙道はなにも言わなかった。優しい笑顔を浮かべてくれることがなくとも、未来を思い描けなくとも、それでも仙道は思うのだ。──越野とできるだけ長く、一緒に居られればそれでいい。
「越野…ごめんね」
「なん、で…おまえが…」
「ごめん」
 肩口に回した手を、越野がぎゅうと強く握る。泣きじゃっくりに紛れて、畜生、と絞り出すような掠れ声で呟くのが、背中越しに聞こえてきた。



[end.]