缶コーヒーとゲシュタルト

 飲み物を持って教室に戻ったら、仙道はぐっすりと眠っていた。場所がどこでも、時間がいつであれ、質のいい睡眠をとれるというのはひとつの大きな長点だ。常人よりはるかに育った体躯や、しなやかな良質の筋肉にも、仙道が眠っている姿を見ると越野はなんとなく納得できるのだった。越野は机の間をかいくぐって進み、仙道の席と向かい合わせた自分の席に座った。
「おーい」
 と、声をかけてみる。そんなもので起きないのは分かっていた。窓の外から夏の夕暮れの日が差し込んで、越野と仙道の白い開襟シャツを赤く染めた。いつもなら響いている筈の、野球部やサッカー部の練習の声が、今日は聞こえない。テスト期間で、バスケ部と同様に休みだからである。越野は、いつもなら体育館を出た水道あたりで聞こえてくる、運動部の練習のかけ声などを思い出してみた。思い出すと、今の教室がいっそう静かなことに気が付いた。仙道の肩だけが上下に揺れていた。
「せーんどう」
 今度は、軽く身体を揺すってみる。その上半身と一緒に、突っ伏した腕と頭の下に敷かれた数学のプリントもクシャッと音をたてた。その紙が軽く湿っている。仙道が寝汗をかいているからだ。夕方と言っても、このけだるい暑さの中で寝れば汗をかくのは当然なのだが、越野はそれを、子どもみたいだと少し笑った。上げた髪の毛が暑さで降りかけている。自分のそれとは違って、仙道の髪の毛は見た目より柔らかい。普段はきっちり立てているから、分かり辛いけれど。
 ふと買ってきたコーヒーと烏龍茶の缶を思い出して、茶の方のプルトップを開けた。カ、シュン、と小気味良い音がする。汗をかいている缶の冷たさが気持ち良かったので、それをそっと仙道の腕に押し当てた。ぴくっとその腕が動いて、続いてもぞもぞと頭も動く。下のプリントが、またくしゃりとよれた。
「…悪ィ…寝てた」
「見たら分かるって。はい、これ」
 自分の机の角に置いておいた缶コーヒーを、寝起きの伸びをする仙道に上げて手渡す。伸びをすると、仙道がいっそう大きく見えるような気がした。さんきゅ、と言って仙道が右手でそれを受け取ろうとした。小ぶりなコーヒーの缶が、大きな手の平でほとんど隠れてしまいそうだった。それを見て、思わずそのコーヒーをふいっと仙道から遠ざける。
「なに?」
 ちょっと笑って仙道が言った。何でもね、と今度は大人しく缶を渡す。やっぱりその缶は、受け取った仙道の手の平にすっかり隠れてしまっていた。仙道はそれをカポッと開けて、ほとんど一息で飲んでしまった。喉仏がぐいぐいと動く。
「喉渇いてたんだよな」
 と、飲んだ後で満足げに仙道が言った。あれだけ寝汗をかいていればもっともだ、と越野は思った。
「で、さっきから何見てんの?」
「え?」
「ずっと俺のこと見てる」
 見ていた自覚はあった。仙道が起きてからではなく、寝ているときからずっとだった。越野はぐっと押し黙って、窓の外に目を向けた。夕日が目に入って、思わず瞼を細める。眩しさに負けて教室の方を向けば、思ったよりもがらんとしていた。誰も居ないと今更ながらに思うと、静けさが増したような気がした。
「見てわりーのかよ」
「いいけど。何考えてんの」
 そう言って仙道は、飲み終わったコーヒー缶を右手で掴んで高くあげた。教室の角にある「燃えないゴミ」と書かれたゴミ箱に投げ入れようとしているようだ。
「お前のことだよ」
 越野がそう言うのと同時に仙道の指から離れた缶は、少し回転しながら緩い弧を描いて、ゴミ箱のふちに当たって床に落ちた。カラーン、という音が教室に響いた。
「…外れた、だせえ」
 仙道はそう呟いて、席を立って缶を拾いゴミ箱にぽいと投げ入れる。振り向いて戻ってくるその顔は緩んでにやにやしていた。
「…何笑ってんだよ、きめえな」
「俺のことって、どんなこと」
 眠っている仙道の肩や、額にかいた汗や、大きな手の平を見て、それ自体に特に感慨を覚えた訳ではなかった。その大きな身長や、恵まれたボディバランスを羨ましいと思ったことはある。バスケットをしている時の仙道の手足の動きに、自分もそんな風になれたらと、そう考える事はしばしばだ。だが、今の自分が感じているのは、憧れや羨望とは違う気がした。
「なんつーか…俺とお前は別の人間だなあっつーか、目の前にいることに違和感っつーか…」
 言葉でうまくまとまらないことに軽くストレスを感じながら、しかしだんだん自分が話していること自体が気恥ずかしくなってきて、声が小さくなる。
「…だからよ、改めて見ると別の人間なんだって感じて、それで…なんだ…」
 語彙や表現力の乏しさを呪うと同時に、もはや訳が分からなくなる。観念したように、右手に持ったまま忘れていた烏龍茶を飲み干した。
「──とにかく!だから見てたの!わりーか!」
 そうやけっぱちで言えば、仙道はぽかんとして、次いで噴き出した。そもそも自分の言っていたことが自分でも分からない状態だったので、笑われるともっと立場がなくなる思いだった。クスクス笑いになった仙道を、越野は恨めしげに見つめた。それに気付いて、仙道はどうにか笑いを抑える。そしてはあ、と息をつき、口を開いた。
「…それって、意識してるって言うんじゃねーの?」
 ぽかんとしたのは、今度は越野の番だった。




[end.]