死ぬ前に思うこと

 十七年なんて大した年月じゃないけれど、それがここで途絶えると思ったときに浮かんだものがある。もう会えない。もう一度でも会いたかった。けれども、きみと会えて。
 死ぬ前の一瞬は、後悔と感謝の時間だった。





 目が覚めたとき、身体のどこにも痛みはなく、ただ全身の圧迫感だけがあった。とってつけたゴムのような異物感に眉を寄せたが、これが全身麻酔の効力なのだと、神は後から知った。とにかく、胴体に四つの鉛が付いているような重苦しさが先立って、事故からの生還の喜びは二の次だった。この状態が意識を無くす前の車との衝突にあることを思い出し、また、その事故で自分の命を失うことは避けられたのだと、ようやく実感できたのは、看護師の声に慌てて駆け寄って来る母親の姿を見たときだった。
「あ、あんた…んまに…なにしとん…!」
「…ハハハ…」
 母親が京都弁を話すのを聞いたのは、五年前に父親と離婚したとき以来だった。震えるそれを聞いて湧き出た罪悪感と安堵で軽く笑みを漏らせば、母親が眼を真っ赤にして神を睨む。
「……ほんまにごめんな。堪忍して」
 ほとんど口真似のような京都弁で謝罪すると、母はやっと笑った。

「またどうして、車になんて轢かれたんだ」
「僕の前方不注意です」
「……」
 牧は押し黙って、可愛らしくラッピングされた見舞い用のフルーツをサイドテーブルに置いた。救命病棟に担ぎ込まれて二日後には一般の病室に移ったが、その当日の見舞いに、まだ起き上がれないものの、神は笑顔で応える。
「わざわざ有難うございます。でも、何だか悪いな」
「気にするな。俺の小遣いで買ったんだ」
「牧さんの小遣い、月五千円でしょう。それに、こうして練習を休ませてる」
「はは。それこそ気にするなよ、本来なら引退してる時期だ。それに、監督とメンバー全員からの命令だよ」
「ありがとうございます」
 細く開けた病室の窓から、凪いだ二月の風が病室の白い仕切りを揺らした。病院独特の消毒液のにおいが、神の鼻元に届いた。この清潔なにおいは懐かしく、神はあまり嫌いではなかった。
「……。あの…ノブは?」
「寝込んでる」
「寝込んでる?」
 神の鸚鵡返しに、牧が苦く笑った。困ったときの癖なのだろう、左手で顎を押さえる仕草には、しかし貫禄すらある。
「お前が眠っていた二日間、ずっと起きて付いてたんだ。結局閉め出されて、救急外来のソファで二晩明かしたらしい」
「え……」
 救急車を呼んだのが信長だと、母親からはそのことだけを聞かされていた神は、少なからず目を見開いた。顔に出来た擦過傷が、包帯と擦れて少し痛む。
「てっきり帰ったかと思っていたよ。夜は冷えるからな。お前が目を覚ます寸前に熱で倒れて、点滴を受けて強制送還だ」
「……」
「お前が倒れたら神が悲しむからってな。皆で説得してほとんど引きずるように帰らせたんだが、始終泣き喚いていてなあ」
「……そうですか……」
「……」
 牧は黙って、窓の外の冬空を見つめた。そうして、さて、と呟いて丸い椅子から立ち上がる。もう大学の推薦も決まり授業も自由参加の身である牧は、けれども練習にはますます鬼気迫る様子で臨んでいた。帝王と呼ばれていてもやはり牧なりに、バスケットを続ける意思を固めることを人生の節目だと、大きな決意を持って捉えているのだろう。
「……お前からバスケットを取らんでくれと、そんなことをひたすらぼやいてたぞ。泣きながら」
「……」
「…俺から言おうか?」
「……いえ」
 ──僕が。そう呟いた言葉に、「そうだよなあ」と、牧が寂しそうに少し笑った。


『神さん。神さあん』
『あれ、ノブ。もうちょっと自主練していくんじゃなかったの』
 駐輪場で自転車を引き出していた神に走り寄る信長に、神は笑いかけた。
『それが、バッシュがちょっと調子悪くて。なんか履き心地が…何でっスかね?』
『……それって、ノブの足が大きくなったんじゃなくて?』
『あっ! そっか、そうですよね! ハハッ』
 頬を赤く染め、息を白くさせながら笑う信長が愛しいと思う。そう思っても、その気持ちは冬の吐息のように色に出てしまうことはない。
『ほら、乗りなよ?』
 せめて笑ってそう問いかければ、信長は嬉しそうに顔を綻ばせて、神のうしろに跨った。肩に掴まる手のひらの強さに、神は戸惑いながらも嬉しく思う。
『ノブの手って暖かいよね。子どもみたい』
『えっ──あ、イデッ!』
 ぼそりと発した独り言のような呟きが、信長を驚かせてしまったようだ。ガチン、と大きな金属音をたてて足を踏み外した信長が、コンクリートに尻餅をついた。
『どうしたの、大丈夫?』
『いや、あの…さっき足の爪割っちゃって、ちょっと痛いんです。まあ、大した事ないんすけど』
『そっか。危ないな…家帰ったら、ちゃんと切るんだよ?』
『…はい』
 たしなめられて少し萎れた顔つきになった信長に見えないように、神は少しだけ頬を緩めた。色に出ることがないのなら、可愛い、と心で思うことくらいはいいだろう。
『じゃあ、駅前までは歩いてこうか』
 そう言ってキィ、と自転車を滑らせた神に、信長がまた顔をくしゃくしゃにして笑った。
『…あーあ、俺も寮に入りたいッスよ。そしたら神さんとチャリ通できるのに』
 そうぼやく信長の言葉が自分だけに向けられていると思えるほどの確信を、神は未だに持てないでいる。もう、時間は幾許もないのだけれど。
『…今度の日曜、バッシュ買いに行こうか? 一緒にさ』
『え……いいんすか!?』
 ぱっと明るくなる表情に、神の喉元まで言葉がせり上がる。震えにも似た沈黙と一緒にそれを飲み込んで、いつもの如才ない笑顔で頷けば、やった、と信長が子どものようにはしゃいだ。

 事故に遭ったのは、駅前に通じる横断歩道で信長を見送った、その直後だった。

「宗一郎」
 日も暮れる頃に病室を訪れたのは、背の高い白衣の医師だった。口々に挨拶をする同じ病室の患者達たちに軽い笑みを返しながら、一番窓際にある神のベッドの前で立ち止まって声をかける。鎮痛剤でまどろんでいた神は、久しく耳にしていなかったその声に目を開けた。
「…父さん」
「個室を用意してやれんで、すまなかった。息子だからと贔屓をしては、まわりに示しがつかんのだ」
 白いカーテンを引きながら、椅子に腰をかけずに立ったまま息子に曖昧に笑いかける。
「……いいですよ、そんなこと。家から近いこの病院に入れてもらって、母さんも安心したと思いますよ」
 見舞いの言葉がないことをさして気にもせず、神はまるで他人事のように、敬語で話す。面と向かってはもう五年もまともに話していないのだから、それも仕方のないことだった。
「…皐月は?」
「仕事に行きました」
「仕事? …こんなときくらい付いていればいいのに、何をしてるんだ…」
 父親は少しいらついたように言って、眉根を寄せた。
「母さんには僕が行くように勧めたんですよ。去年、役職についたんです。そう何日も休んだら会社の人に申し訳ない」
「母親のすることじゃないな」
「……」
「……いや。私個人の考えだがね」
「分かってるよ。父さん、お見舞い有難う。僕は大丈夫だから、戻ってください」
 笑顔でそう言えば父は二、三度頷いて、医者の声で「お大事に」と言いながらカーテンの向こうに消えた。カツカツ、と、医師独特の威圧感で病室を出て行く足音が聞こえた。脳神経外科の父親は、この総合病院で働く医師だ。脳や脊髄に関しての診療ならこの病院と、そんな評判が立つほどには腕が良い医者だったが、家族に対しては、必ずしもいい父親では無かった。両親が離婚したことを恨む神ではないが、父が何よりも優先させる医者という職業の権威に初めて疑問を抱いたのは、もう何年も前のことだった。
『宗一郎、好きなことに一所懸命に打ち込むのはいいが、自分の役割を忘れるな』
『…役割?』
『医者になれる能力を持っている者は、医者になるべきなんだ。レールの上を歩けということじゃない。能力を無駄にするなと言っているんだ』
『……。父さんみたいに?』
『……』
 数ヶ月前に電話口で交わされたこの会話は、両親が離婚するずっと前から、父と息子の間でごく頻繁になされているものだった。バスケットに夢中になる息子に釘を刺そうとする父の意図にも気付いていた神は、自分の不用意な質問に押し黙った父の横顔が僅かに歪むのが想像できた。自分が家族を省みなかったことで起こった家族関係の解消という結果を、父が少なからず悔恨の気持ちで思い出していることにもまた、聡明な神は気付いていたのだけれど。
『…母さんな、もう頑張れへん…。ごめんなあ、宗ちゃん…ごめんなあ…』
 それを慮らなかったのは、五年前の母の悲しい泣き顔がまだ、頭に浮かぶからだ。
「…いたた」
 痛み止めが切れてきたのだろうか、右足が痛み出した。程度に差はあるが、両腕と右足が折れている。腕は軽いが、右足は複雑骨折ということだった。全治半年、砕けた骨の一部が僅かに神経にも到達していると、今朝担当医から聞いたばかりだ。
 信長に逢いたい。逢いたいけれど、この姿はきっと彼を傷つけてしまうだろう。冬の夕日が細長く、ブラインドの隙間から白いベッドの上に差し込んだ。



 *



 それから二日経ち日曜を迎えても、信長は顔を見せなかった。昨日の土曜には海南のメンバーやクラスメイト、陵南の福田さえも見舞いに来て、賑わう病室に母親がニコニコと対応していた。几帳面な陵南の田岡監督は部員一同と添えた見舞いの品を福田に持たせてきたし、牧などはまた「小遣いで買った」という切花すら持ってきて、その律儀さに神は思わず笑ってしまったのだった。それでも皆が帰ってしまえば、一番に思い出すのは信長なのだった。
「母さん、もう帰っても大丈夫だよ。病人じゃないんだから、心配いらないって」
「いいの。寮に帰ったらまた会えなくなっちゃうんだから」
 午後の日差しを浴びながら、そう明るく言って微笑む母の顔は、しかしやはりどこか悲しそうで、神は思わず、ごめん、と謝罪の言葉を漏らす。
「何謝ってんの。あんたは治すことだけ考えてればいいのよ」
「…でも、迷惑かけてるよ。色んな人に、心配かけたと思うんだ」
 目を開けてすぐに見た母の顔と、牧から聞いた信長の姿が頭に思い浮かんだ。
「そうね。でも、あんたが一番つらいでしょ」
「……」
「バスケット、あんなに頑張ってたもんね」
「…そうだね…」
 母親の憂い顔の訳には、やはり思った通りの理由があった。神はますます謝りたくなったが、今度はそれを押し留めて、代わりに違う言葉を口に出す。それはもうずっと考えていたことだった。
「でもね、大丈夫だよ、母さん」
「……」
「俺、バスケは高校で辞めることにしたから」
「え…?」
「辞めるよ。バスケ」
 神は言い聞かせるように、繰り返した。若い頃よりはいくらか窪んだ母親の大きな目が、さらに見開かれた。そのあとに、少し厳しい目つきになる。
「……自分の可能性を、自分で見限るのは駄目よ」
「……」
「父さんに言われたなら…」
「……違うよ。そうじゃないんだ。父さんのことは…」
「……」
 自分の言葉に母が顔を歪めることが心苦しくて、神は静かに頭を振って、話題をそこで絶った。
「母さん、明日も仕事でしょ。家でゆっくり休んでよ。…寒いから、風邪、ひかないようにね」
 そう言うと母親は少し悲しげな顔をして、けれど毅然と、分かった、と笑顔を見せた。間違いなく親子だという自覚が持てるくらいよく似た大きな眼は、やはり優しい。瓜二つでも、自分より母親のそれの方が綺麗だと、神はそう思った。優しく綺麗で、けれど、どこか寂しい。

 日が傾きかけていた。入院してから四日目の夕暮れを、神は静かに迎えていた。枕に頭を預けて、目を閉じるでもなく何を見るでもなく、ただ窓の外の空や木の葉などを眺めている。信長が来ればいいのに、と思う。ここに来て、何かを言ってくれればいいと思う。神はゆったりと目を閉じた。
『おれの目標は神さんっスよ』
『……どうして?』
『神さんほど頑張れる人を、おれ、見たことないから』
『…たくさん居るよ。信長が知らないだけで』
『違うんすよ。そんなことなくて…』
『……』
『神さんは、何だって夢を叶えられると思うんです』
『……夢?』
『あ!や…ゆ、夢とか全然あの、知らないんですけど! ていうかおれ、すげえ偉そうなこと言ってますね…!? あ…あの、あーもう、すいません!』
『はは。夢かあ…』
『お…おれはね、絶対にバスケで飯を食いたいっす! 清田信長という名を世に知らしめてやるのが夢ッス!』
『いいんじゃない?』
 でしょ、と信長が笑った。叶えるその夢をバスケなのだと臆面も無く言える信長を、羨む気持ちは無かっただろうか。神はその気恥ずかしい会話を思い返す、いつだったか、去年の全国大会が終わった頃だ。ちょうど区切りを感じていた時期だったから、どこか寂然と羨む感情はあったかもしれない。けれどそれは、妬みではなかった。自分を目標だと言った信長の前で、そんな大したもんじゃないと自分を卑下するより、そうありたいと思う気持ちが強かった。清田信長という人間は、人をそういう心持ちにさせる。人に憧れ、尊敬し、好意を寄せる感情に曇りがないから、それを受け取る人間も等しく照らされる。神は穏やかに思い起こしながら、眼を開けた。自分は、だから、信長が好きなのだ。信長と居るといつも、自分は自分を認めることができた。

「──神さん…」

 右に張ったカーテンが、声と一緒に微かに揺れた。そこから、今思っていた人がおずおずと顔を出す。
「……。やっと来てくれた」
「ごめんなさい。今まで、お見舞いに…」
「いいよ。今来てくれたからね。体調は大丈夫?」
「…平気っス」
 信長は後手にカーテンを未だ握りながら、伺うように神を見てそう言った。
「ごめんね。心配かけたね?」
「……」
「…今日、バッシュ買いにいけなくてごめん」
「……」
「……びっくりしただろ、ノブと別れてすぐだったもんね。救急車…」
「バスケ」
 叫ぶではないが、唐突に、低い短い声で信長はそうぽつりと口にした。
「……」
「バスケもう、できないんですか」
「……何か聞いた?」
「足…、っ、右足が…っ」
 ほとんど泣きそうになりながら、とても信じられないことのように信長が言った。眼が赤い。神に話しかける前から、泣いていたのかもしれない。
「うん、もう激しい運動は…バスケは絶望的だって言われたよ」
「…そんな…っ、やです、おれ…」
「バスケは辞める」
「…な…」
 神の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったという顔で、信長は神の顔を見た。その顔に驚きと絶望が涙になって滲む。自分の事ではないのに、ひどく傷ついた顔をしていた。この顔をさせたくなかった、と神は思う。
「春から、引退するよ」
「っ…、い、やだ…いやです」
「ノブ、聞いて。辞めるのはね、事故のせいじゃないんだよ。決めてたことなんだ」
「…っ、何を…」
「去年のインハイが終わった後から、ずっと決めてた…。牧さんにはもう、言ってあるんだよ」
「…どうして、ですか…」
 手のひらを握りしめる信長が切なくて、身体が動くなら抱きしめてしまいたかった。それも叶わないのなら、せめて頭を撫でてやりたかった。
「俺ね、医者を目指すよ。あと一年じゃ、どこまで頑張れるか分からないけど」
「……医者」
「そう。どこまで出来るか分からないけど、多分ね。叶うと思うんだ」
「……」
「バスケには、だから未練はないんだよ。少しだけ、寂しいけど」
「……それが」
 黙り込んだ信長が、唇を噛みながら、震えるような掠れ声で呟いた。
「それが、今の夢なんですか」
「…そうだね」
「……なら、いい…です……」
 言葉とは裏腹に、何かを我慢するように歯を噛み締め、閉じた眼で涙をぼろぼろとこぼしながら信長は言う。
「でも、おれ、おれは」
「……」
「神さんと、もっと、バスケ、したかったです……」
「うん」
「神さんの夢が、バスケなら良かった…」
「…うん」
「それならもっと、…っ、一緒に居られるのに…!」
 言いながら信長は、床にしゃがみこんでベッドの上に顔を埋めてしまう。パイプの手すりに手をかけてうなだれる信長の頭を撫でることもできない腕がもどかしくて、信長の名前を呼んだ。どうしても伝えたいと今は思うのだ。神は、事故の瞬間を思い出した。死ぬ前の一瞬は、後悔と感謝の時間だった。誰にでも一度は、あんないっときが訪れるのだろう。たいていの場合は、それを二度と人に伝えられないまま終わってしまうのだけれど、自分は幸運にもそれを伝える時間を貰っている。
「ノブ」
「……」
「ノブ」
「……」
「……バスケしてなくても、俺を愛して欲しいな、できれば」
 名前を呼んでも顔を上げなかった信長が、すぐに神の顔を仰いだ。
「お前とずっと一緒に居たいよ」
「……っ」
 確信は無かったけれど、気持ちを伝えるのにそんなものは要らなかったのと神は今初めて知った。自分が特別なのだという確信がなければ伝えられない、それは臆病だったからだ。自分の気持ちをこうして穏やかに見つめられるのは、その相手が信長だからに違いない。
「一緒に…っ、居ていいんですか? バ…バスケが無くても…?」
「…それって、俺がお願いしてるんだけど」
「だって…なんで…、そんなの」
 信長がしどろもどろに問い返す。神はゆっくりと噛み締めるように言った。
「俺がノブのこと好きなのはおかしいかな?」
「…っ!……だって、おれ、バスケ以外に…なんも持ってないから…」
 その言葉を聞いて、神は思わず笑ってしまう。灯台下暗しとは、まさにこのことだ。はは、と笑いながら、神もほんの少しだけ涙が出た。先輩だから余裕な振りをしてしまうけれど、本当はもうずっと、心臓が破裂してしまいそうだったのだ。



 *


 二週間後、成長期のおかげで順調に回復していた神は、総合病院を退院する事になった。骨折と言ってもヒビが入っただけだった左手は、もうほとんど自由に動かせる。右手足についてはこれから二ヶ月以上の通院とリハビリが続くが、最後の検査では、存外にも、神経に対しての損傷は最低限に留まっているとの報告を受けた。
「脳に異常が無くて良かったな」
 退院の朝、父親が脳神経外科らしいことを言いながら、神を車椅子へ移す。それを躊躇いがちに手伝う母の姿が、神の眼の端に映った。左手で車椅子の車輪を器用に回しながら、神は病院の外に出た。看護師が何人か見送りに出ていたが、中に戻るように父親が促した。離婚した家族というのも、体裁が悪かったのかもしれない。それに気付かない振りをしながら、どうもお世話になりましたと、戻っていく看護師ひとりひとりに母が丁寧に挨拶をしていた。病院が手配したタクシーの到着を待ちながら、とても久しぶりに親子三人で横に並んだ。
「……宗一郎ね、医者を目指すんだって」
 しばしの無言のあと、母親が少し高圧的に言う。わざとそんな口調をしているのが、神には分かった。
「なに?」
「あなたの思惑通りになったわね」
「本当か、宗一郎」
 母親の言葉が聞こえなかったかのように、父親は神を覗きこむ。
「……本当だよ」
 この二週間で随分元のように変化した口調で、神は少し笑って答えた。
「そうか…。いや、嬉しいよ。大変だと思うが、お前なら…」
「できれば、小児科医になりたいんだ」
 ロータリー前に、黄色のタクシーがゆっくりと迂回して入ってくる。それを見つめながら、父親の言葉を遮るように、けれど穏やかに言った。
「……」
「父さんのような医者じゃなくて、父さんよりもいい医者になりたい」
「……。そうだな」
 そう言った父の声は、すこし間の抜けて、今までよりもずっと父親らしかった。ひょろりと長い、これもまた自分によく似た身体はいつだって背筋がぴんと伸びていたが、今ここでは少し丸い気がした。傍らに居た母親の方は、その会話を聞きながら、口元をきゅっと固く結んで、冬空の根元の方を眺めていた。この人達の弱いところを、自分は一番良く知っている。知っているから、いつまでも親子なのだった。「じゃあ、お大事にな」と、そう言いながらひるがえす白衣の、そこに染みわたった病院の消毒液のにおいは、やはりどこまでも懐かしかった。
「ごめんね」
「え?」
 タクシーが発進して少し経つ頃、ふいに母親が呟いた。家路までの景色を眺めていた神が母親を向くと、少し俯きがちに神を見た。
「宗一郎は、自分のこと見限ったりしないよね」
「……」
「バスケットだって、やめなかったもんね。監督にセンターは無理だって言われても、次の日から一時間早く朝練に行くような子だもん」
「…うん。そうだよ」
「車に轢かれちゃったのは、ちょっと間抜けだったけどね」
「……うん、いや…」
 突然の話題転換に、神は頭を掻いた。
「あんた赤信号に飛び出したって、警察の人言ってたわよ。母さんあそこに行ったんだけど、自転車はもうぺっしゃんこ。…もう、どうしたのよ、飛び出すなんて」
 母親はいつもの母親らしく、小言のように言い募った。助かったから言えることだと、神はちょっと笑いながらその瞬間を思い出す。
「あんまりよく覚えてないんだけどね。でもあれ、何だかブレーキが全然…、……」

『ノブの手って暖かいよね。子どもみたい』
『えっ──あ、イデッ!』
 あのとき聞こえた、ガチン、という大げさな金属音は、何かが切れる音ではなかったか。まるで、ブレーキワイヤーが──。

「ん? なあに?」
「……いや……」
「なによ?」
「…完璧な、こっちの前方不注意だよ」
「はあ、馬鹿ねえ」
「うん…そうだね」
 神は言いながら、静かに頭を振った。そんなことは、どうだっていいことだった。自由になる左手で頬杖を付きながら外を見て、穏やかな笑みを浮かべる。世間は春休みに入る頃だ、じきに暖かくなるだろう。もう会えないと思った人に、また会える。会えて良かったと、そう伝えられる。その喜びの余りの大きさに、神は改めて驚いた。何だって叶えられる、そう言った後輩は、きっとこれからも一番大切な人になる。ただ自分の気持ちひとつに確信がある。それだけで良かった。


[end.]