Like a Vampire

 神の機嫌が悪い。
 信長はいつもと同じように見える柔らかい横顔を、少し下からじっと見つめる。見つめられていることは分かっているはずなのに、神は信長を見ようとはしない。信長の好きな形の良い唇から時折漏れる小さな溜息が、今日は、いつもなら当たり前にある優しげな問いかけに取って替わってしまっていた。
 一緒に居る意味が変わってちょうど三ヶ月。自分を見つめる綺麗で穏やかな目に、まるで背中を撫ぜられるような、ぞくりとするほどの魅力を感じてしまったころには、もう溢れるほどの衝動を抑え切ることができなかった。どうしてああなってしまったのだろう、と、今でも顔の熱くなるような告白は、言葉より先に涙が出てしまって。その涙の海にぷかぷかと浮かぶ船のように放り出された「好きです」の一言を、神の優しい笑顔が引き寄せた。涙と鼻水で濡れたみっともない自分の姿に、ああ、どうしてああなってしまったのだろう、と、思い出して赤くなることはあっても、だから信長は後悔していない。それどころか、涙の止まらない信長に、神はそのあと優しいキスをくれた。柔らかいその唇が自分のそこに触れる感触を、信長は今でも覚えている。自分などが好きになってはいけないと思うほど綺麗な顔をして、そのくせ信長の咥内を自在に動き回る繊細な舌。感情の高まりに涙がいっそう溢れ出して、それを抑える余裕も無いままキスは続く。口づけを繰り返しながらふと合った視線に、神が笑うのが見えた。長い睫毛が、自分の鼻先に触れた気がした。

「…神さん」
「ん?」
「おれ、邪魔っすか?」
「…邪魔じゃないよ」
 そう言いながらも、机に向き合う顔をこちらに向けてはくれない神を、信長は小さく睨んだ。その視線を受け取ったように、神が右手で走らせていたシャープペンシルの動きをはたと止めた。
「お風呂にでも入ってきたら?」
 優しげな声で突き離す、その首筋に噛み付いてやりたい。噛み付いて、噛み付かれて、ドラキュラに襲われる少女のように、ベッドに組み敷かれてしまいたいのに。
「神さん…明日休みすよ」
「それがどうかしたの?」
「……お風呂入ったら、戻ってきていいですか? この部屋に」
「……いいけど」
 かすかに首を傾けてそう言われた声に少しほっとして、信長は立ち上がり神の部屋を出る。きちんと整頓された6畳弱の寮部屋の一番奥、机に向かう神の背中を見つめながらドアを閉じた。視界に無機質なプレートが広がった後、こつんと額をそこに当て、信長はひとり呟いた。
「…おれ、十字架なんて持ってないよ。ねえ、神さん…」
 どうして触れてくれないの。もう、三ヶ月も経つのに。

 買ったばかりのジャージに袖を通し、髪の毛を乾かして、いい香りのするハンド・クリームを念入りに塗り込む。脱衣所で一緒になったサッカー部のクラスメイトにからかわれたが、うっせー、と上の空で返した信長に肩をすくめて出て行った。もう共同浴場の開放時間も終わるころだ。信長は自分の顔を鏡で一度じっと見つめたあと、節電、という貼り紙どおりに電気を消して脱衣所を出た。
 30分ぶりに神の部屋に戻ると、細い身体がベッドで寝息を立てていた。無防備に枕に頭を預けて、すうすうと静かに眠っている。起こさないように静かにドアを閉めると、信長はそうっと神のそばに近づいた。へたり、と座りこんで、神の長い睫毛を見つめる。
「……」
 蛍光灯に照らされて先が白く光るのがとても綺麗で──それが人形のようで、こらえきれず、ぽろり、と涙が零れた。優しいだけの関係なら、初めから、好きの言葉を撥ね返して欲しかった。信長は神の寝顔を見つめながら静かに泣いた。あんなキスをしておいて、満月が三度訪れても、触れてくれないなんて。
 せめて睫毛にだけでもと、たまらず、右手をその目元に近付けた。ふ、と微かに肌に触れれば、瞼がぴくりと動く。それにはっとして腕を退けようとしたが、それより速く、狙っていたかのように右腕を掴まれる。
「手。いいにおいだね……女の子みたい」
「……女の子から貰ったんですもん」
 恨み言を言いたくて神の顔を真下にそう呟いてはみるが、けれども零れた涙がその頬に落ちると、神はふと少し意地が悪そうに微笑んだ。影になった頬に零れた自分の涙の粒がぼんやりと光って、舐め取ってしまいたい衝動を、信長は何とか抑える。
「知ってるよ。あんまり悔しくって、俺も同じの買っちゃったからね」
「…うそ」
「ほんとだよ」
 神は右腕を離すと、信長の頬にゆっくりとあてがった。微かに触れるか触れないかのうちに、それをぐいと襟足に持っていき、乱暴に顔を引き寄せる。唇と睫毛が触れて、混ざり合う。
「ん──」
 歯茎をなぞられ、上唇を甘噛みされながら、ゆっくりと唇が離れた。信長は今度も、キスをされる前よりもずっとたくさんの涙を落とす。それは後から後から、触れられた安心感と膨れ上がった衝動とで、泣きじゃくりに顔を赤くしながら、涙がぽろぽろと零れた。
「だ、だから…怒ってたの…?」
「……」
「触ってくれないのは、お、おれが…」
「……」
「おれが…っ、お、男だから、じゃなくて、」
「──ばかだね、違うよ」
 うう、という嗚咽を神に聞かれたくなくて、神の胸の上で背中を丸めて顔を隠せば、長い両腕が信長を包み込む。あはは、というのどかな、いつもの神の穏やかな笑い声が聞こえてきて、今度こそ信長は心からほっとした。
「怒ってないよ。ノブがいい匂いのハンド・クリームを貰ったくらいじゃ、怒らない。嫉妬はするけど」
「……でも」
「ごめんね。俺が怖くて、ノブに触れなかったんだ」
 髪の毛に、暖かい息が触れるのが分かる。神が自分の肩口に顔を埋める息遣いが、身体全体を伝わって、信長の心を暖かくした。信長をぎゅうと抱きしめて、まるで十字架に祈りを捧げるように俯いたまま、神が小さな声で呟いた。
「…ノブの前だと、いつも苦しい」
「…おれもです」
「自分が汚くて、いつも苦しいんだよ」
「おれもです」
 こらえきれず、神の首に腕を回して、噛み付くように唇を合わせながらしがみついた。衝動的に、神も信長の後ろ髪に手を差し入れて下からその身体を抱きこんだ。信長の身体が神の身体の上からベッドに転がって、向かい合うようにして唇の角度を変えていく。じきに息を乱しながら、お互いのスウェットの下から身体を探りあいながら、下半身の熱さを感じて興奮を高めながら、ひたすらに抱き合った。自分が快感に声を上げると、覆い被さる神も余裕のない顔をして喉を鳴らす。刺激を与え与えられるその過程も、初めて見る神の顔も、セックスによってもたらされるそのすべてが幸せで、信長はまた泣いた。それを見て、零れる涙を掬うように、神の長い指が信長の頬をこする。その指先からは、甘ったるいハンド・クリームの香りがした。





[end.]