衝動は沈黙に揺らぐ
様々な感情が混ざり混ざり合いすぎて、自分でもそれを整理し切れないでいる。とりあえずその気持ちに糊で封をして、洋平は今日も花道のアパートで、くたびれたこたつに足を突っ込んだ。風呂上りで上半身は火照っているが、下半身は早速冬の空気に冷え始めていた。年中麻雀に使われている正方形のこたつの向こうでは、花道が寝転びながらぼおっとバラエティ番組を見ていた。冬だというのにひどい薄着で、長袖のTシャツ一枚と薄いスウェットの身体を悠々とくつろがせ、もう30分も前からテレビを注視しているのだ。
他の面子が居るときは何かと騒がしいこの部屋だったが、二人のときは、このような無言が頻繁に訪れる。話しているときとそうでないときのギャップが激しいのが花道で、洋平はあまりべらべら話す方ではない。したがって無言は特に苦痛の種ではないのだけれど、洋平は無意識に、ひっそりと息をついた。こたつを跨いだ赤い後頭部が、若手芸人の漫才に微かに揺れている。その形のいい頭や首筋や大きな肩口に触れて、爪を立ててみたい。この感情は、複雑な洋平の心境の中でも、特に分かり易い。分かり易いのは、蓋をしたと思えばすぐに顔を覗かせる、如何ともしがたい部類の衝動だからだ。洋平はその坊主頭やテレビの眩しい光から目を逸らして、こたつに放り出した腕に顔を埋めた。
部活に没頭し始めてからも、花道は軍団との付き合いを無下にしない。とりわけ洋平とのそれは、特別扱いよろしく、何も用事がないときでさえ花道からの電話が絶えることがない。平素から喧嘩以外に何も趣味がなかった花道である、練習以外に他にすることがないのだろう。そうは思うもやはり嬉しく、しかし同時に、彼がバスケットボールを見つけ出してしまったことに自分が微かな焦りを感じていたことにも気付いてしまって、そのたびに洋平は肩をすくめるのだった。普段は物分りの良い、何とも余裕のあるふりをしている自分の、その風体を保つことだけで精一杯なのだ。
何かを見つけたいと思う。どこか、でもいい。このアパートや、練習をひやかしに行く湘北の体育館とは別のどこかを、見つけなければいけない。そうでないと自分はいけない。
「おい?」
「……」
「おい、洋平。起きろお」
「……ん。寝てねえよ、起きてる……」
「髪乾かさんと、風邪ひくぞ」
「ん…」
畳を踏み歩く花道の低い足音が心地よい。ううん、と言いながら洋平は薄目を開けた。時計はまだ11時前を指しているのに、もうまどろんでしまったのか。だせえ、と心の中で呟くも、一度やってきた眠気がまた波のように背中から押し寄せる。後でがさごそと動いているのは、花道だろうか。背中に人のぬくもりを感じて訳もなく胸がざわついたとき、温かい電気風が頭に吹きかかった。ドライヤーの温風が襟足に当たって、洋平はまたうっすらと目を開けた。
「……。乾かしてくれんの?」
「おう」
左手で洋平の髪を梳かす花道の手は、大きさの割に粗暴ではなく、むしろ器用で柔らかい手つきで、撫でるように髪をすり抜けていく。洋平は今や目をしっかり開けていたが、それを花道に感づかれないように、小さく俯いた。そのうえ、さみい、と言いながら花道は、長い足の間に洋平をすっぽりおさめて、足の下半分をこたつに差し入れる。そうやって大きな身体に挟まれると、自分の身体がやけに矮小に見える。洋平は何ともつかない気分になって、自嘲のように口角を上げた。どうしようもないときに口元だけで笑うのが洋平の癖なのだ。
「…もういいよ、サンキュな」
「まだ乾いてねーよ」
「…自分でやるよ。お前も風呂入れば?」
「もう入った」
「え、俺、そんなに寝てたか?」
「寝てた」
「……」
ブオオ、と、間の抜けたドライヤーの音だけが暖かく髪を揺らす。襟足はだいぶ乾いてきたようで、花道の指先が首先にちりちりと触れていく。お互いが無言だった。いつからだろう、二人の上に訪れる無言の時間が、これまでのような穏やかなものではなく、何か息の詰まる焦燥を連れて来るようになったのは。花道のそばを離れなければいけないと自ら身を急かすのは、この焦燥に自分が負けてしまいそうだからだ。
カチャリ、とスイッチを切る音と一緒に、ドライヤーの音が止んだ。壊れかけているその家電製品からは、部品が磨耗しているのか、仄かにこげ臭い香りがする。花道の大きな手が、それを脇の畳に置くのが目の端に見えた。
「……どーも」
「……」
花道から言葉は返らない、息遣いすら聞こえて来るのに。これは決定的な沈黙だった。
「…くび」
親指だろうか、ようやっと花道がそう呟きながら襟足の、すこし骨の出ている部分を確かめるように触る。洋平は俯いているから、余計にそこに注目を浴びているようで、何かに怯えながら顔を上げた。テレビはいつの間にか消えていて、ワンルームの和室はしんと静まり返っている。
「……おい、花道」
「……」
「……おい、もう」
「……なに焦ってんだ?」
「……っ」
言いながら花道が、左手を後から洋平の顎の下に回す。そのまま力を込められるかと思ったが、そのアクションはそこまでで、すくむように止まった。しかし今度は洋平の焦燥が、たまらずそれを引き継いだのだった。右腕をぐいと後に逸らせて、花道の首元を掴む。Tシャツと肌の境目に爪を立てると、想像通りに花道の顔が歪んだ。それに心の奥で悦びと危機感を感じながら、さらに右手に力を入れて、頭を引き寄せた。短く刈り揃えた赤い髪が、指の腹に刺さるのが心地よいが、今はそれに溺れている余裕はない。首元を逸らせると、そこに触れていた花道の左手がびくりと震えた。寄せ合った顔と顔が、鼻先が、息が触れ合う。一瞬の刹那でお互いの目線を合わせて、唇を乱暴に押し付けた。こんなキスをするのは初めてだろうか、花道は。
何かを取り戻すように、それはその前の駆け引きよりもずっと短く、一瞬で終わった。花道は目の下を赤くして熱っぽく洋平を見つめたあと、そのままぎゅうと抱き締める。身体がずっと大きいからそう見えるだけで、本当は抱き付いているのかもしれなかった。そうして、押し倒されるようにふたり一緒に畳にどさりと身を預けた。ぼんやりと光る質の悪い蛍光灯の光が、花道の身体に遮られて自分の上に影を落とすのが分かる。ボールを掴むときの驚くほどに力強い腕は、今は光に霞んで竹の籠のようにはかなく自分を囲んでいた。洋平は花道の顔をじっと見た。じっと見て、呟いた。
「…お前の好きなように、やりゃいいよ」
「……。洋平は、それでいいのかよ」
「……」
「それでいいのか」
洋平がじっと見つめる花道の顔は、重ねて問いかけの言葉をかけながらも、歪んでいる。こんなことで泣きはしないと分かっていても、洋平は手の先でその頬に触れた。
「いいぜ。俺、お前相手には、その方がいいわ」
「……っ、なんで…」
目をぎゅうと瞑って、花道は洋平の肩口に顔を埋める。埋めながらそう呟いた。花道の胸板が覆い被さって、白い蛍光灯が直接瞼の中に差し込んだ。その光の残像を幾重にも隠したまま、洋平は目を閉じる。
「……なんとなくだよ」
──抱かれる方が、抱くよりきっと寂しくないから。
洋平は口元だけで笑うと、花道の拙い愛撫を両腕で包み込んだ。伸びてきた洋平の腕に花道が一度きり、どこか悔しそうに呻く。けれどそのあとは闇の帳が開くまで、ただただ無言だった。
[end.]