海底心中
蛍光灯が明るく照りつけるスーパーの店内で、洋平はカートを押しながら片手で電話をとった。
「あい。ん? おお、どした?」
大きな身体を折り曲げるように、陳列されている肉や練り物をじっと眺めていた花道は、それに気付くと洋平の左手からカートを引き寄せる。それに目で視線を返しながら、洋平は聞き慣れた仲間の声に頭を掻いた。
「んー…、今日はちょっと気分じゃねえな。ああ、悪ィ。じゃあな、カモられんなよ」
電話を切って少し早足で三歩先のカートに追いつけば、目立つことを特に気にもしない赤髪が振り向いて機嫌良さそうに笑った。
「チュウか?」
「ああ、”藻屑”でまた打ってるってよ、飽きねえなあ」
「いいのか? 行かなくて」
「いいよ。金ねえもん」
藤沢の繁華街の裏路地にある”藻屑”は、中学の頃から花道軍団が出入りしている雀荘である。洋平は煙たくタバコのくゆるこじんまりとしたフロアを思い出した。今日も相変わらず三人で入り浸っているようだが、カゴの中におさめられた旨そうな鍋の具材を見ると、これを放って寒い街中に繰り出す気にはとてもなれない。
「ま、終わったらどうせ来るだろ、あいつら」
携帯電話を尻のポケットに入れながらそう言えば、花道がししし、と笑った。
鍋用のアンコウが安く売っていたので、それと目ぼしい魚介や野菜を買い揃え、花道のアパートへ向かう。最寄のスーパーから歩いて7,8分の距離だが、手にスーパーの袋を持ちながら二人並んで歩くのは、何だか気恥ずかしい。喧嘩に明け暮れていた中学時代から考えれば、このような穏やかな日々はとても信じられないほどだ。まだ花道のように何か打ち込めることがあるというわけではないけれど、まだ一年前の自分達を、洋平はひどく昔のことのように思った。
「花道。背中どうよ」
「ん、もう全然痛くねえぞ」
「そっか」
「まあ、さみい日は、たまーにズキっとすっけど」
「ふうん…」
白い息を吐きながら、背中を丸めてアパートの階段を上がる花道の背中に、洋平は空いている左手で小さく触れた。触れたと言っても、厚手のダウンジャケットを着ているから、花道には分からない。黒光りしているジャケットの表面は冷たく、洋平はそのまま左手を降ろした。
花道は夏の大会の試合中、ライン外のボールをダイヴして繋げ、そのせいで背骨を痛めた。そのまま試合を続けたせいでその怪我は悪化し、そのあとは、高校生の怪我としては長いリハビリを必要としたのだった。バスケットを始めてまだ三ヶ月余りで中断せざるを得ないことで、本人以外の周囲が心配していたのがそのモチベーションの低下だったが、不安になるような変化は花道には訪れなかった。他にすることもない花道軍団は、見舞いという名目で一週間に2,3度は花道を冷やかしに行っていたのだが、彼の口から出る話題は、そのほとんどがバスケットに関してのそれだった。その楽しそうな声にちょっとした歯痒さが混じるのを感じるたび、洋平は花道にまたボールを弾ませて欲しいと願ったものだ。
四ヶ月以上が経ちリハビリを終えた今も、いつでも背中を気にしていることは分かっている。それは湘北のバスケ部の仲間達も知っていることだろう。ただ、たまに痛みを感じるときがあると、先ほどのように花道がそう漏らすのはきっと自分に対してだけなのだと。そう思えるたびにまだ自らに存在価値があると確認する自分の行動が、とてつもなく馬鹿らしいということもまた、分かっている。そんな自分に出会うたび、まるで海の底に鎖で繋がれたような、どうしようもない息苦しさを覚えている。
アパートは海からやってくる冬の潮風にすっかり冷え冷えとして、花道はドタドタと安物のハロゲンヒーターをつけた。エアコンのないこの家では、これとコタツが暖房器具のすべてである。6畳ほどの部屋はさほど汚くもなく、かと言って綺麗でもなく、洋平が最も居心地のよい雰囲気を湛えていた。スーパーの袋から今すぐ使うもの以外を冷蔵庫に入れると、缶ビールを二つ取り出してコタツの上に置いた。その間に花道は手際よく、土鍋とガスコンロを台所の棚から取り出していた。
「何か喉渇いた、先飲むべ。明日、休みだったよな?」
「おう」
ネギや白菜をまとめて台所に置くと、立ったままビールのプルタブをプシュ、と開けた。カン、と擦れ合った二つの缶に、こうして飲むのも久しぶりだと洋平は気付く。最近では、花道の復帰直後ということもあり、朝夕とひたすらに練習に打ち込む姿がよく見受けられた。自分達は相変わらずで、バスケ部の練習を観に行く以外に予定もない洋平は、何となくバイトに明け暮れていた。台所に寄りかかって、小さなテレビを見ながら500mlのビールをごくごくと飲む花道を見るのも久しぶりだ。シンクの端を掴む節だった花道の左手に、洋平はほとんど無意識に右手を伸ばした。
「──っ」
そんなつもりではなかったのだが、花道はちょっとふいをつかれたような顔をして、洋平を見た。顔を見るとさすがに間を持たせる自信がないから、ただその手の甲だけを見ながら、指の関節に撫でるように触れていった。相変わらず大きな大きな手のひらに、洋平の顔が自然に笑顔になる。じきに花道の左手が、洋平の右手をぎゅうと握った。指と指が絡みながら、乾燥している指先と、すこし汗ばんでいる指の間とが触れ、お互いに手のひらを撫で合っていく。部屋はまだ暖まり切れていないのに、その手はぽかぽかと温かい。自分達の幼いスキンシップに、洋平はふっと笑った。花道とはもうキスもセックスもしているけれど、それは一度きりのことだった。どこかで関係が変わってしまったことには確実に気付いているのに、一体何が変わったのかを互いに理解できていないという自覚がある。衝動的に花道と寝てしまったその夜まで、何も変わらないと思っていたのに。
「切ろうぜ、野菜。酒飲んだら、腹へった」
「……。おお」
半分に減ったビール缶を傍らに置きながら、洋平は手のひらを解いた。花道はその手をじっと見ていたが、じきにまな板と包丁を取り出して、白菜を切り始めた。
「米ある?」
「おお、炊いといた。多分もう炊けてる」
「おっしゃ」
レパートリーこそ貧弱だが、花道は料理の一通りの作業はこなすことができる。父と二人暮らしだったころから食事の準備は分担だったためか、基本的な手順はこなれたものだ。あれやこれやと話をしつつも、、ほ、ほ、と奇妙な声を出しながらさくさくと野菜を切る花道を、洋平は横目で眺めた。大きな身体を縮こませて真剣に台所に向かう花道の姿は、洋平が好きな光景の一つだった。
「…最近どうよ、バスケは」
「んん、リョーちんがえばってる」
「はは、でも、キャプテンに向いてるよな、あの人。そういや三井さんはまだ引退してねえの、冬の大会も終わったのに」
「そう、まだしねえんだ。ミッチーめ…」
「そんでお前は?」
「ん?」
「お前の調子を聞いてんの」
沸いたお湯に糸蒟蒻を入れながら、洋平は視線だけで花道を見上げた。花道は人から褒められることに対して思いのほか敏感だと知っているから、ちょっと照れたような顔で笑うのを見たくて、わざわざこういう言い方をする。そんな自分はまるで女のようだと、そんな自己嫌悪とはもう親しい。
「おお、絶好調! リョーちんから新しい技も奪ったぞ、天才にできないことはないからな」
「教えてもらったんだろ…」
かかか、と機嫌よさそうに笑う花道に洋平もまた呆れたような笑みを返しながら、果物ナイフでしいたけの石づきを取り除いていく。花道はその間に、さきほど洋平があく抜きしていた片手鍋の糸蒟蒻を、ステンレス製のざるに取ろうとしている。沸騰した湯に熱せられたシンクがベコン、と間の抜けた音をたて、熱そうな湯気が、ふわりとシンクから上がった。
「新しい技ってどんなん?」
「ふふん、驚け。天才の名に相応しい、緻密でリアリティのあるフェイクですよ」
「なんだそれ。どういうの?」
「──、あちっ」
花道の声に、土鍋に具材を詰めていた洋平が、慌ててそこに駆け寄った。シンクにあけた熱湯に指が触れてしまったようで、花道は自分の右手の指先を顔に近付けて見ていた。
「あー、ヤケドした…」
「まじで?」
「ほら」
花道が洋平の目元に右指先を持ってきたので、洋平はそれを追って見仰いだ。しかし視界にあったのは指先ではなく、真っ赤な髪だった。顔を上に向けた瞬間、顎を斜めに傾けた花道が、さらうようなキスをした。
「……」
「これがフェイク」
すぐに離れた花道は、ふふん、と、偉そうにそう言って、にかりと笑った。洋平は二の句が告げず、ただ花道を見る。
「……」
「洋平?」
さっきシンクに上がったような湯気が、自分の顔からも出るのではないかと思うくらいに、顔が紅くなっていくのが分かった。今まで赤面した記憶も無かった洋平だったが、今は顔が燃え上がりそうだ。それが恋でも執着でも、ただのくだらない庇護欲だとしても、いつだって自分が花道を追っているのだと思っていた。バスケットを見出して、それに真摯に打ち込み始めた花道との、その関係が変わってしまうのを最も恐れ、それでありながら自分自身で矛盾のように関係を変えた。変化を嫌って、このままで居たいと願っていたのは、本当は自分だったのに。身体を繋げたことによって、執着にも似た自分の欲が少しずつ満たされていく悦びと、頭をもたげはじめた終末感への焦燥が、混ざり混ざり合った塊になって、洋平の身体の中に鎮座している。恋や愛情という言葉では表せないこの何かが、洋平と花道の関係を変えてしまったのだ。
だからこそ、花道の見せるこんな自分への行動ひとつで、洋平はいとも簡単に気持ちを乱される。まだ時間はあるのだと、そう言われているような気がして。洋平の身を浸していた罪悪感の海から、ほんの少しだけ解放されるのだった。いっときだけでも、深く息苦しいその海の底から、這い上がれる気がするのだ。
──けれど、その海で花道と心中できるわけもない。一度は引き上げてくれる腕を掴んでも、いずれはまた離さなければならない。
「…はは…」
洋平は掠れた声で笑うと、隅に置いていたビールをすこし煽る。苦味のある発泡が、口の中を巡って喉に消えていく。はあ、と息を吐き、もう一度大きく息を吸った。
「お前、たぶん、バスケうまくなるよ」
そう言えば、花道はまた少し照れたような顔をして、しかし力強く笑った。その笑顔を見て、また言いようのない感情が洋平を海の底から押し上げて行く。
「……花道」
洋平は口元だけで笑った。沈んでもいい、這い上がれなくてもいい。海底に沈むその少し前に、手を離してくれればそれでいい。
「やろうぜ。おれ、お前にもう一回抱かれてえの」
振り返ったその頭を思いきり引き寄せ、笑いながら唇に噛み付いた。
[end.]