あと、
ガシャン、タタタ。自転車を倒し、急いで階段を駆け上がる音。家賃四万円のボロアパートが、真夜中に大げさな音をたてている。足音がドアの前で止まるまであと五秒、その手が扉を叩くまであと十秒。いま、背中で震える元恋人が部屋を出るまで、あと三十秒。
*
「水戸!」
そう呼ばれて振り向けば、宮城が階段の一番上から自分を見下ろしていた。踊り場の大楠に「先に行ってろ」と軽く合図をして、小さく笑った。
「これから練習ですか」
「おー、テメーら今日も見に来んの」
タンタンタン、と軽快に階段を駆け降りて隣に並んだ宮城は、ポケットに手を突っ込みながら洋平を仰ぎ見る。背負ったドラムバッグが左右に揺れた。
「まあ、暇人っすからね。それに、見てると面白えし」
ハハ、と笑いながら、少しゆったりと昇降口まで降りて行く。下駄箱には掃除を終えた生徒達が集まって、騒々しく出入りしていた。明るく日が照っている外とは対照的に、電灯も点けられていない午後の昇降口は、逆光でかえって薄暗い。かかとを潰したローファーに履き換えて、後を振り返る。
「……宮城さんさ、顔に出るよね。今も」
「……」
薄暗い昇降口にしゃがみ込んで、スニーカーの紐を結ぶ宮城が、無言で洋平を見た。午後の日差しの作る陰が、その顔に落ちる。洋平は薄く笑って、宮城を見下ろした。初夏のじんわりとした暑さが背中を撫でるが、汗をかくほどではない。
「──花道を。…見に行くんですよ」
「…分かってるっつーの!」
そうですか、と首をかしげると、宮城は顔を背けた。そうして立ち上がり、洋平を抜かして昇降口を出る。それを追うように外に出れば、空から夕方の黄色い日差しが瞼を覆って、思わず右手でそれを除けた。目もくらむ太陽光、それにも構わずに宮城は昇降口前の階段を駆け降りる。試合のときには強気な口元は、青い空の下で今、憎まれ口を必死に抑えているのだろう。洋平は、宮城が一段抜かしで駆け降りた短い階段をゆっくりと踏みしめて、もう5メートルは離れたその背中を仰いだ。
「宮城さん」
「…なんだよ!」
「昨日も、ウチに来ましたよ」
「……」
「三井さん」
宮城が振り向いて、洋平を睨みつける。それを見て、どこか満足げな思いに、すこしの寂寞が通り抜けた。そんな自分がおかしくて、ふふ、と肩で笑う。それを見て力が抜けたのか、バツの悪そうな顔をした宮城に、洋平はゆっくりと近づいた。校庭をはさんで、向こう側に体育館が見える。それを遠く視界に入れながら、宮城とまた並んだ。
「俺ね、宮城さんが羨ましいんすよ」
「……オレの台詞じゃねーかよ、それ」
「ハハ」
短く笑った洋平は、そのままくるりと校門の方へ踵を返した。
「オイ! 練習見てくんだろ」
「……。どうせ、また夜も会うしね」
「……っ、花道じゃねえじゃねえかよ! クソ野郎が!」
とうとう仕舞いそびれた憎まれ口を背中に受けながら、洋平はポケットのタバコに火をつけた。
羨ましいと言ったその意味を、宮城が知ることはないだろう。
だからこそ洋平はそれを羨ましく思う。
執着の先にあるものを、洋平は知らない。
晴れた日の夜は寒い。初夏ということはまだ晩春で、湿気を孕んだ冷たい風が、バイクを走らせる洋平の身をじんわりと冷やした。ヴォン、という音と共にコンビニにそれを止め、腕の時計を一度見る。そのまま店に入り、夕食とフライドポテトを買い、外に出てぼんやりと空を眺めた。車止めのコンクリートの手前でふかしたタバコの火を消しながら、もう一度時計を見る。見ようとしたところに、後から声がする。
「洋平?」
花道がドラムバッグを下げながら、嬉しそうに洋平に近づいた。壁にもたれていた身体を持ち上げて、緩慢に見えるような動作で洋平が振り向く。
「おう、おつかれさん。今帰り?」
「おお。洋平はバイトだったんか?」
「そ。夕飯買って一服してたとこ」
軽く袋を持ち上げて笑いかければ、練習ですこし疲れた顔をくしゃりと寄せて花道も笑った。
「…そうだ。これ食う?」
「お、ポテト! いーのか? 今買ったんだろ?」
「俺も一緒に食うよ」
「半分ずつか」
「ああ」
油っぽいコンビニのポテトを、花道は美味しそうに食べる。壁に寄りかかって座り込む花道を、同じように座りながら、洋平はひっそりと見つめた。中学から変わらない好物を、中学から変わらない場所でふたり分け合って食べる。けれども洋平は、この安っぽいポテトが昔からあまり好きではないのだった。
「あ! 明日、部活休みなんだった」
「ああ、そうなの」
「そう、だから今日洋平んち泊まりに行っていーか?」
すっかりポテトを食べてしまった後、花道が大きく伸びをしながらそう言った。花道が立ち上がるのを見て二本目のタバコを吸い始めた洋平は、吸った煙を大きく肺に入れ込んだ。しゃがんだままの洋平の目の前に、立った花道の大きな手のひらが揺れている。ボールで爪が擦れているのか、先が赤い。筋立った指の長い、大きな手をじっと見つめた。そうして思わず伸びかけた自分の右手の代わりに、洋平は白い煙をそこに吹き当てる。気付いた花道が、洋平を見下ろしてふっと笑った。その健全な笑顔に、洋平は前歯でフィルターを噛み潰し、弾くように捨てた。
「……いいぜ。じゃ、一回家戻って、着替え持って来な。あと、風呂も入って来いよ」
「おう、分かった!」
そう言って嬉しそうに歩き出す花道の背中を横目に、洋平はバイクに跨ってエンジンをかけた。
執着の先にあるものを、洋平は知らない。
知らないふりをしている。
欲しがらないと手に入らないと分かっているから。
鼻をすする音に、バイクを止めた洋平は二階を見上げた。うす暗い闇のなか、人影がドアの前で手すりに寄りかかって首を傾ける。
「おっせーよ、アホ」
「きてたの」
カツン、カツンと階段を昇りながら、自分の部屋の前まで来て、ガチャリとドアを開けた。その手をじっと見つめながら、
「来るって言ったじゃねえか」
と、三井がもう一度、鼻をすする。
「そっか」
玄関の明かりをつけながら笑って三井を振り向けば、口をつぐんだまま、握った拳がこつんと軽く背中に当たった。
畳の部屋、小さなテーブルの脇に三井が座る。花道の部屋と似たような間取りだが、洋平の部屋には足のないシングルベッドがソファ代わりに置いてあった。そこに座って、畳の上の灰皿を右手で引き寄せ、タバコに火をつけた。
「おい、吸うんじゃねーっていつも言ってんだろが」
「……」
「聞いてんのか」
「……うん」
「おい」
「うん、じゃあ、出てってくんない?」
「……。何だ、それ」
「分かってるでしょ」
三井の眉が歪んで、ベッドに座る洋平を睨みつける。遠く、電車の走る音を聞きながら、洋平は三井を見た。笑みを造ろうとして、し損じたことを知る。じっと睨み付けていた三井の顔が、途端にどこか悲しそうな驚きに変わったからだ。
洋平は右手のタバコを、灰皿へ押し付けた。白い煙は一瞬細く伸びたあと、すぐに立ち消えた。苦い残り香が部屋に漂って、蜃気楼みたいにゆらりと視界をくらませた。その沈鬱な空気の間をすり抜けるように、洋平は三井の頬に手を触れる。そうして、唇を寄せた。引き結んでいた唇に、舐め取るように舌を這わせて、歯を撫ぜる。それは何かを乞うようで、それに三井が気付かないはずは無かった。それは明らかに、そんなキスだった。触れるためのキスではなく、離れるためのキスだった。
「ごめんね、三井さん」
「……っ……」
その瞬間、目の前の恋人は、元恋人になった。
欲しがらないと手に入らないと分かっているから。
唇が離れた瞬間、諦めたように自分を見た三井の思いは、だからきっと叶わない。
執着の先にあるものを手に入れられるのは、最後まで欲しがる者だけだからだ。
――ガシャン、タタタ。
自転車を倒し、急いで階段を駆け上がる音。家賃四万円のボロアパートが、真夜中に大げさな音をたてている。足音がドアの前で止まるまであと五秒、その手が扉を叩くまであと十秒。いま、背中で震える元恋人が部屋を出るまで、あと三十秒。
「いらっしゃい、宮城さん」
「…っ、三井さんは」
「うん。ちょうど今、帰るとこ。ね、三井さん?」
「……ああ」
バタン、とドアを閉めた。やがて、二人分の足音が遠ざかり、ゆっくりと聞こえなくなる。電車の音がまた遠く響き、腕時計の音がしばらく静かに時を刻んだ。
ふいにタバコのソフトケースを掴み、四本目を取り出して、右手に挟む。挟んだ指を揺らすように響くのは──ゆったりとした足音だ。思わず取り落としたタバコを拾いながら苦笑して、それをケースに戻した。
花道がドアを開けるまで、あと十秒。
執着の先にあるもの、それに手が触れるまで、あと、どれくらいなのだろう。
[end.]