反省は行動に
越野からの告白を受けたのは三日前だ。最近では、身体から入るようなぐだぐだとした女関係を続けてきた仙道には、面と向かって「おまえが好きだ」なんて言ってしまうような純正統派の愛の告白だけで、それはもう感動モノの一大事だった。そのうえ越野は、紅潮しきって発熱せんばかりの頬や、それとは対照的に緊張で色の失せた唇、いつも仙道を殴るときとは違った意味合いできつく握られた手のひら、そんなものを天然の手管として持っていた。胸がきゅんとする、そんな感覚を初めて知った仙道は、だから、その場で答えを出したのだ。こんなにも健気な越野を、無下に放り出したくはなかった。いつもとのギャップ──つまり強気で男らしく、ひいては天邪鬼な越野が自分に惚れているということ──で、多少の優越感を感じていたのかもしれない。どちらにしたって、昨日まで悪ふざけと下ネタ話で盛り上がっていた友達相手に、そう真剣になれるはずもないのだ。だからイエスの答えは、その場のノリと悪ふざけの延長でしか無かった。ただし、恋愛ごとで面倒を避ける程度に小ズルイ仙道は、「友達からね」という狡猾な保険をかけるのを忘れなかった。
そうしてそれから三日経った今日、仙道は越野が記憶喪失になったのだと思うことにした。態度がしおらしかったのは当日の数時間だけで、次の日の朝練から今日の帰りまで、越野のそれは通常とまったくもって変わりがない。しばらく物珍しい越野が見られるのだろうと内心わくわくしていたから、その態度を見て仙道はかなりがっかりした。そのまま陵南高校前の駅で越野と別れ、すごすごと自宅マンションに戻ると、エントランスの前に見慣れた制服が立っている。明るく染めたストレートヘアとぷっくりとした下唇のこの子は、確か少し前に寝た覚えがあった。仙道は名前を覚えていないことをさして気にもせずに、自分に気付いて駆け寄って来る可愛い女の子にニッコリと笑いかけた。
「おい!仙道ォ!おい!」
こもったような音がしばらく続いていると思ったら、それが自分の名前を呼んだので、仙道は慌てて飛び起きた。
「…なんだ?」
声のする玄関の方に意識を向けた途端に、ガツン、と鈍い音がする。知ってる、これはドアに蹴りの一発を入れる音だ。それを聞いて、隣から猫のような唸り声が聞こえた。厚い下唇とEカップの胸で、昨日のセックスの相手と気付く。
「なあに…? 今日土曜日だよ…?」
そうぼやく女の子に、ゴメンネ、と申し訳程度に謝って、のろのろと這うように玄関に向かった。声の主はもう分かっている。どうしたものかと眠たい目をこすっていた仙道だったが、ちょっと思いついてドアの前に擦り寄った。
「越野お?」
「テメエ…ふざけんなよ!自分が何してっか分かってんのか!開けやがれ!早く!」
その言葉にほくそ笑みながらレンズを覗けば、般若顔をした越野が仁王立ちで仙道を睨んでいる。いっそう緩む頬をどうにか抑えて、神妙な顔をつくると、仙道は部屋のドアを開けた。途端に力強い腕で胸をどんと押され、仙道はだらしなくも玄関の床に尻餅をついた。その音にびっくりして、奥に居た女の子がそろりと玄関を覗きこむ。越野を見とめると、きゃあ、とリビングの物影に隠れた。
「…いい加減にしろよ…」
「…なんで分かった? 昨日駅の前で別れたよな? あ、もしかして追いかけてきたの?…そんな、怒らないでよ、もうしないからさ。ねえ越」
「今日は練習試合だ!!」
「……しあい?」
「七時に学校集合だ! 電車で行くから遅れんなって一週間も前から言ってただろうが! それをお前何だ、こっちは朝六時から携帯鳴らしてんのに、一度も出やしねえ! 茂一どんだけ苛ついてっと思ってんだよ!!1分で準備してさっさと表に出やがれこのタコ!!」
越野は一気に叫ぶと、ドアを壊しかねない勢いでガシャンと閉めて、おまけにもう一度そこに蹴りを入れた。同じ階の住人には一人残らず聞こえただろうその声に耳をキンキンと響かせながら、仙道は首を傾げた。
──女のことはどうでもいいのかよ?
尻餅をついたまま十秒ほど呆けていた仙道の目の前で、またもやドアが開かれる。般若顔というレヴェルではなく、確かに般若がそこに居た。仙道はこれほど恐ろしい生き物を見たことがない。
「…殺されてえのか?」
仙道は光の速さで準備を済ませると、下着のまま呆然とする女の子に無言で合い鍵だけ手渡して、走るように家を出た。
越野の仙道に対する態度は、それを機にいっそう悪くなっていた。さばさばしているようにも見えるが、越野はとても合理的な性格である。そのため、相手が自分を怒らせたときは、それ相当の償いをしなければ簡単には許さない。反省は行動にして初めて認められる、それが越野のモットーなのだ。それが他人だけではなく自分にも適用されるところが、彼を誠実と言わしめる所以だったのだが。例のごとく、月曜日の朝練で完全に空気にされた仙道は、とりあえず反省を表す術をバスケ以外に思い浮かばなかったので、いつになく一生懸命にプレイをした。紅白線ではダンクも決めたし、まだひょろひょろの一年坊のシュートフォームだって、ひとりひとり丁寧に修正してやった。それでも越野の機嫌は良くならない。さすがに空気扱いはやめたようだが、それでも練習中はまだ、犬のウンコを見るような目つきで仙道にパスを寄越してきた。
「なあ、越野怒りすぎじゃねえ?」
仙道はこの嘆きを誰かに伝えたくて、話を聞いてくれそうな植草に声をかけた。混成チーム対抗の紅白戦であっさりと菅平に抜かれた彦一に、このへっぴり腰が! と痛烈な怒号を浴びせている越野を眺めながら、仙道は植草の慰めを待った。
「…怒ってるっつうか、呆れてるんじゃないの?」
予想違いの返答に植草を見ると、今度は動物園のサルを見るような生暖かい視線で、植草が自分を見つめていた。問い返す間もなく紅白戦に入っていく植草の背中を呆然と見ていると、後から肩をぽんぽんと叩かれる。
「ま、それだけのことをしたんだよ、お前は」
得意げに言ったのは明治だった。妙に感情のこもったその声に、仙道は思わず「はあ?」という、疑問と抗議の声を漏らした。明治にさえもそれは無視された。
何だかんだいっても、今まで練習終わりはいつも二人で帰っていたのだが、その日仙道がシャワーを浴び終わったときにはもう越野の姿は部室に無かった。片づけを終えてからまだ15分も経たないうちに、部誌まで書いて出て行ったのだと言う。てきぱきと物事を済ませられる越野の才能に仙道はひっそり舌を巻いたが、すぐに我に返った。遠征試合を忘れていたことは確かに自分が悪かったが、そのぶんその後の練習に取り組んだし、後輩指導もした。朝練にも三日続けて遅刻せずに来たし、基礎もロードワークも自主練もサボっていない。三日に一度しか朝練には顔を出さなかった一年生の頃の自分から考えれば、この上ない成長だ。他にどのような誠意の見せ方があるというのだろうか。仙道はだんだんと腹が立ってくるのを感じていた。そもそも、仙道が越野を怒らせるたった四日前に、越野は仙道に向かって愛の告白をしてきたんじゃなかったか。あんなに切羽詰ったような態度で好きだと言うその相手に、こんなふうに怒りをあらわにするのは、ちょっとあんまりじゃないか? 仙道はふくれっ面でロッカーを乱暴に閉め、ドラムバッグを肩にかけた。まだ部室に残っていた自主練組の明治と植草がちらりと見たが、目線も合わせずにドアへ向かう。
そのときバタバタと部室に駆け足で入ってきたのは、越野だった。
「──よかった! まだ鍵閉めてなくて」
言いながら、越野は仙道と一瞬目を合わせると、特に声もかけずに目線を外し、そのまますっと素通りする。
「あれ、忘れ物?」
「ロッカーに携帯忘れちまってさあ」
植草の問いかけに苦笑しながら返す越野を横目に、仙道は部室を出てドアを閉めた。そうして溜息をつきながら、そのドアに背中をもたれかけた。中からは越野の明るい声が聞こえてくる。いつも通りじゃないか、と仙道はいっそう気持ちが沈む。どっと疲れて、ドアに寄りかかったままちょっと目を閉じた。
「──越野さあ、まだ神谷さんとメールしてんの?」
聞き慣れない名前と越野との組み合わせに、閉じた目をすぐにぱちりと開ける。明治の声だ。トーンを少し落としたようだが、ドアにぴたりと張り付いている仙道にはよく聞こえていた。
「ああ、あの子ね。確かに可愛いよな」
植草が意味ありげな声で呟いた。きっとにやにやしながら言っているに違いない。それに重なるように、んー、と越野の声が聞こえる。
「まあ…一応な」
「えー、マジか!じゃあ…」
越野が気まずそうに答えた言葉に、明治がちょっと浮かれたような声ではやしたてている。
「だけどさあ、……」
言い訳じみた調子で始まった越野の言葉を聞かず、仙道は部室を後にした。イラつきを通り越して、仙道は愕然としていた。あんな、この世の終わりのような必死さで告白してきてからまだ幾許も経っていないというのに、早々と他の女とメールをしていた越野を、今すぐ罵倒してやりたい。
──あんなふうに、申し訳無さそうに言っちゃって。彼女の居ない部の奴らへの、義理立てのつもりかよ。
一瞬仙道は、自分が越野から告白されてすぐにマンションに女を連れ込んでいたことを思い出したが、それは意図的に頭から追い出すことにした。こんなことなら、「友達から」なんて言葉、付け加えなければ良かった、と仙道は思う。そんな保険をかけていなければ、部室に入って怒り狂う権利だってあったはずなのに。
仕方なく仙道は、またもやそのまますごすごとマンションに帰った。自宅のドアノブが鉛のように重い。何とかそれを開けると、その途端に香水のにおいが漂って、下唇の子が恥ずかしそうに「おかえり」と笑いかけた。その出迎えを見て、仙道は何だか盛大に意気消沈してしまう。少しめまいを感じながら「ごめんね、帰って、おねがい」と甲斐性なく頭を下げてその子を家から出すと、どさりとソファの上に身を投げる。
「あー…もう、何か。疲れたなあ…」
…神谷さんって誰なんだよ。
目を閉じれば、頭の上からつま先まで重い何かが落ちてきた気がして、その日はそのままソファで眠ってしまった。
*
翌日目を覚ましたとき、身体に何かが詰まっているような重さで、仙道はなかなか立ち上がれなかった。寝違えたのかと一瞬思うも、それよりひどい状態だということにすぐさま気付く。身体を動かした瞬間に頭がガツンと痛み、視界はゆらゆらと揺らいでいる。仙道は立ちかけてよろけ、テーブルに手をついた。全身に汗をかいているのは、本格的な熱が出ているからだ。おまけに、昨夜帰って何も食べなかったせいか貧血まで起こしていて、まともに歩ける状態ではなかった。「背が高い者は貧血症にかかりやすいから、気をつけるように」という茂一の指導を聞いておけば良かったと、朦朧とした頭で考える。
やっとのことでベッドまで辿り付こうというときに、ドラムバッグに入れっぱなしの携帯電話が鳴り響いた。この時間なら越野しか居ない。電話に出るのも辛い状況だが、今度こそきちんと起きていることだけでも示さなければ、次はないような気がした。ままならない両手でバッグをまさぐって、どうにか取り出した携帯電話をぱかりと開く。そこに表示されていたのは、けれども、「越野宏明」ではなく「なつみ」という文字だった。
「…もしもし…?」
「あ、彰君? おはよ。……昨日はごめんね。疲れてたんだよね?」
「え…? ああ、うん……」
昨日この部屋で仙道を出迎えた、下唇と胸の大きな女の子だ。彼女が「なつみ」という名前なのだと、仙道はそのとき知った。あんな風に追い返したというのに、電話の向こうで本当に申し訳なさそうな声をしているので、おそらく悪い子ではないのだろう。働かない頭でぼんやりと顔を思い浮かべたが、昨日会ったばかりだというのにどうしてもうまくいかない。使えば使うほどきりきりと痛む頭に、会話を早く終わらせてしまいたかった。
「こないだ越野君に怒られてたでしょ? だからモーニングコールとか入れてみたんだ」
そうだ、越野がここに来た朝、仙道はてっきり越野が仙道の女関係に腹を立てていると思っていた。だってそうだろう、あんなふうに、時代錯誤も甚だしいような生真面目な告白されたら、少しは好かれていると思うだろう?
「…あー…ありがと…」
仙道は上の空で、電話の相手に取ってつけたかのようなお礼を言った。
「…今日も練習あるんだよね? 夜、行ってもいいかなあ」
んー…、と仙道は、唸りにも似た曖昧な返事をする。
好かれていると思っていたのに──それなのに越野は、もうずっと記憶喪失だ。それどころか、『可愛い』『神谷さん』とメールを交わして明治や植草にのろけている。のろけているのに、自分には一言も話してくれない。話してくれないのに、…。
もはや、思考と視界がぐるぐる回っていた。
「今日…はごめん、だめだ…。ごめんね、ちょっと…じゃあ…」
息も絶え絶えに、やっとのことでそれだけを言うと、残された余力で通話終了ボタンを押した。そのまま棒切れのようにベッドに倒れこむと、肩で息をしながらも、すぐに意識が飛んでしまった。
──額に冷たくて湿ったものを感じて、仙道は目を開けた。うわ、と小さな声がする方へゆっくり焦点を合わせれば、そこには至近距離からこっちをまじまじと見る越野の顔があった。どうして、と跳ね起きたいほど驚いたが、身体も声も自由にはならない。荒れた喉をめいっぱい震わせても、掠れ声しか出なかった。
「こしの…なんで」
「部活休んで来たの。ほら、お粥。レトルトだけどよ。食ったら薬飲め」
「ごめん…行けなくて、部活」
そう言うと、越野は控えめに笑った。ほんの一瞬しか眠っていないと思っていたのに、もう部活の時間になっていたのだ。うう、と言いながら何とかベッドから背を上げる。やはり頭はガンガンと痛んだが、先ほどよりも眩暈は楽になっていた。越野の用意してくれた温かい粥を一口含めば、食欲の欠片みたいなものが頭をもたげる。高熱のせいで味はほとんど分からなかったのだが、仙道はあっというまに全部食べて薬を飲むと、すぐさまベッドに横になって、ほうと大きな息をついた。それを見て越野が安心したように笑いかける。
「食欲あるなら、まあ大丈夫だな」
「…たいしたことねえよ…」
越野の笑顔を見るのはずいぶんと久しぶりな気がした。その顔を見たら仙道は心の底から安心して、風邪が治ったように楽になる。あの告白を受ける前は、毎日見ていたものだったのに。
「おれが着いたときは、死人みてえな顔してたけどな」
「……なんで分かった……?」
満腹と薬、そして大きな安心感による急激な眠気に襲われながらも、気になっていたことを聞いた。ああ、と言った越野は当然のような口調で淡々と答える。
「神谷から。あいつも心配してたからさ」
「……かみや…て…」
──ねえ、あいつって、神谷さんって、誰なの越野。お前の好きな人は、おれじゃなかったの。
聞きたいことはたくさんあったが、仙道はそういった質問を飲み込んで、越野への礼に換えた。
「……きてくれて、ありがと……」
「別に気にすんなよ」
「なあ…おれ、をさ…まだすこしは……す…、……」
「……お前、もう眠れよ。な」
もう掠れ声すら出なかった。言いたいことは沢山あるのに、久々に経験した身体の不調にはどうしても抗えない。視界が段々狭くなって、越野の顔が消える瞬間、右手を動かして何かを掴んだ。瞼の内側が黒くなって、部屋の明かりの残像が見えた時、仙道は自分が目を閉じたことを知った。右手で掴んでいるのが、越野の腕だったらいい。頭を撫でているのが、越野の手のひらだったらいい。
仙道の長所は、女にモテることとバスケ以外では健康だけである。一日中眠って、翌日の朝には仙道はもうすっかり回復していた。本当は朝練から復帰するつもりだったのだが、起きたときにはもう一時間目が始まっていたのだ。昼休みに様子を見に来ると思っていた越野は、結局一度も顔を出さなかった。越野を待って昼食を摂りそこねた仙道は、仕方が無いので購買の余ったパンを買いこんで、病み上がりをいいことに保健室で食べた。食休みをとろうと白いベッドに横になった仙道は、同じように真っ白な保健室の天井を見て、昨日の自分の部屋の光景を思い出した。右手の感触を辿っていくが、それが越野の腕だったのかどうかは判らなかった。久しぶりに経験した高熱は、めったに風邪をひかない仙道にとって思ったよりもつらかった。そんなとき隣に越野が居て笑ってくれたことで、ずいぶんと身体が楽になったものだ。
『──あいつも心配してたからさ』
それなのに、そんなふうに言う相手が、越野に居るなんて。仙道は天井を見つめる眼を静かに閉じた。友達から、そんな保険をかけたから、きっと横から越野をさらわれてしまったのだ。「行動で示せ」なんて、よく言ったものだ。越野も男なら、本来付き合う相手は女の子がいいと、簡単に想像できたはずなのに。何かの気の迷いで男に告白したに違いない、つまり仙道にとって万に一つのチャンスを、自ら無下にしてしまったのだから、救いようがない。仙道は今までにないくらい、深く後悔していた。
そのまま5時間目と6時間目を保健室で過ごしたあと、仙道はドラムバッグを取りにいったんクラスに戻ることにした。ちょうどホームルームが済んで、掃除が始まっている頃だろう。二階へと階段を上がっていると、仙道のクラスであるA組から聞き慣れた声がした。仙道は、廊下と教室のあいだに、その大きな身体を無理矢理隠す。
「…え? マジで?」
「うん。昼休み終わった頃から保健室」
「…ずっと居んの?」
「そうみたい。大丈夫かなあ?」
「……マジか……」
それは仙道のクラスメイトと話している越野の声だった。最後に呟いたその声からは、確かに心配が滲んでいる。仙道はそれを聞いて、何とも言いがたい気持ちになった。越野が必死に告白するのを見ているときと似たような感覚だ。そうこうしているうちに、越野が階段にひょっこりと顔を出した。ちょうど、仙道と鉢合わせの形になる。仙道はなんとか、たったいま廊下を上がってきたような体裁を保った。
「あ…越野」
「…おう」
「昨日は、ええと…ありがと。これから部活?」
「そうだけど」
「おれも今日は練習行くよ」
仙道がそう言うと、越野はわずかに驚いた顔をした。その顔を見て仙道は仄かな期待が募るのを感じた。昨日の越野の笑顔を思い出した。
「……。ふうん」
けれども、返ってきたのは何ともそっけない返事だった。しかも、親の仇のような目で仙道をキッと睨みつけるというサービス付きだ。仙道は風邪をひく前日の夜よりももっと深く、意気消沈した。涙すら出そうになった。
「……」
だから仙道は、ただ無言で越野とすれ違うしかなかった。まるで二日前の部室で、越野が仙道にそうしたように。──それなのに、仙道の左肩と越野の右肩がすれ違う寸前、目の端に映った越野の顔は、今の仙道の顔とそっくり同じに歪んで見えた。仙道が振り向いてそれを確かめようとしたときには、越野はもう階段を駆け下りてしまっていた。
越野が分からない。何かがおかしい、と仙道は思う。
*
部活はいつも通りだった。病み上がりだということで仙道がアップの後のロードワークを免除されたということ以外は、テンポ良く練習が進む。けれども越野だけは、いつかのようにほとんど仙道を空気扱いしていた。ただ前と違っているのは、仙道がふと視線を感じると、越野が唇を噛んで睨みつけていることだった。それにも何とか耐えていると、長い練習もやっと終盤にさしかかる。恒例の紅白戦を終えて、観戦も半ばに座りこんだ仙道が、
「……何なんだよ……」
と、思わずひとりごちると、うしろから肩をぽんぽんと叩かれた。デジャヴを感じて振り向けば、そこに立っていたのは、明治ではなく植草だった。
「仙道は、基本的に悪くないよな。今回のこと」
「……は?」
仙道は素っ頓狂な声をあげた。コートの中で、越野は菅平に苛立ったような声をあげている。でくのぼうとは酷い言い様だが、それを見て彦一が鬼の首をとったような笑い声をあげていた。
「でもさあ、越野も何で未だに怒ってるんだろうね? お前の返事に呆れたのは分かるけどさ。でも、もとはと言えば、一応自分が悪いんだし」
「……あのさ、そ」
「あ、あいつ──ヒコ、うるさいよ! 集中!」
「それって」
「前! 前! ボール遅いよ!」
話が見えない仙道が問いかけるも、植草も大概彦一の教育に熱心なようで、もはや聞いてはいなかった。仙道は最後の紅白戦が終わるのを待って、ずかずかとコートに上がりこむ。すれ違いざまに彦一に一発くれてやれば、背後から彼の抗議が聞こえてきたが、それを無視して、仙道は越野の腕をとった。越野はそれを見てぎょっとする。
「何だよ!」
「あのさあ」
「……」
「俺に何か隠してんでしょ?」
「……訳分かんねえ」
越野がとぼけた。厳密に言えば、とぼけたかどうかは定かではないが、仙道にはとぼけたように見えた。仙道は数日前に肩を叩いた明治の顔を思い出す。そうして先ほどの植草の言葉を思い浮かべた。ふたりとも、やけに訳知り顔ではなかったか。仙道だけが知らない何かがあるのだと、鈍い自分でもさすがに気付く。
「はあ、とぼけるんだ、ふうん」
「……」
仙道は、女の子を口説くような顔で言った。越野は相変わらず仙道を睨みつける。
「……じゃあ聞くけど。あの日お前が俺に告は…」
「…っ、仙道!」
大声で遮ったので、その声が体育館に響いてしまう。ダウンに入ろうかという部員と監督がいっせいにその声のした方を見た。
「どうした、越野」
田岡が不審そうに越野と仙道を見ると、すぐに越野は開き直ったように顔をあげて、掴まれていた右腕で、逆に仙道の腕を掴みなおした。
「すいません監督、こいつ風邪ぶりかえしたみたいで、今にもぶっ倒れそうらしいんスよ。俺、こいつんちまで送ってくんで、練習ここで上がらせてもらってもいいですか」
越野の言葉はすさまじい早口で仙道はほとんど聞き取れなかったが、田岡はしっかりと理解したようである。すぐに答えが返ってきた。
「なんだ、本当か。バカでも風邪をひくんか、仙道。じゃあ越野、頼むぞ」
「はい、すいません。ホラ行くぞ、大丈夫か?」
仙道がやっと話に着いていけるようになったときには、越野の肩に支えられて体育館を出ていた。ウソもつけるのか、と、仙道は越野をまじまじと見た。それに気付いた越野は、仙道の肩を跳ね除ける。そうして今度は俯いて、黙り込んでしまった。
部室に戻った仙道がとりあえず上下のジャージだけ羽織ると、越野も制服には着替えずに、ジャージのままドラムバッグを肩にかける。越野はなにも言わなかったが、どうやら、行き先は仙道のマンションであるようだった。日の落ちた空を背負いながら、陵南高校の坂をくだっていく。駅前ではなく、仙道の自宅の方へと続く角を曲がる頃、越野がぽつりと口を開いた。
「ごめん、仙道」
「え?」
「全部、俺らが悪いんだよ。つーか、もともと、俺が悪い…」
「…それって…」
「罰ゲームだったんだ。俺が、間違えてメールしちまったから…」
「…は?」
仙道は混乱で、目を白黒させた。越野がばつの悪い顔で、余計に俯いた。
マンションまでの数百メートル、立ち止まったりまた歩いたりを繰り返しながら、越野は仙道に事情をぽつりぽつりと白状していた。その内容はこうだ。
明治に、一年生から想いを寄せている女子が居た。彼は二年になってからというもの、その片想いの相談相手を、越野に選んだ。というのも、越野とその女の子が、同じクラスになったからである。クラスメイトといちはやく仲良くなれる性格の越野は、その女の子にそれとなく探って欲しいという頼み事をするには最適な友達だった。そこに植草を交え、三人で明治の難しい恋愛について、面白おかしく、時には熱い友情をもって、ああでもないこうでもないと、議論をしていたのである。越野と明治が送りあうメールの内容も、九割がその話だった。ところが、そこである事件が起きた。連日の練習や新入生の指導で疲労が溜まっていた越野は、ある夜、眠りに落ちる寸前に、明治にメールを返していないことに気がついた。眠い目をこすりこすり、明治を励ますメールを一生懸命作成し、「もしかしたらあの子には好きな人がいるかもしれない、けど、きっとお前のほうが彼女を幸せにしてやれる」という内容の、メールにしては長い文章を、熱い気持ちを込めて送信したのである。けれど、送信相手が間違っていた。越野は半分夢の中に居るような状態だったため、メールの話題の人にそれを送信してしまったのだ。つまり、明治の思い人に。
明治の一年に渡る片想いは、越野のその一度の送信ミスで、無情にも相手に知られてしまったのである。送信ボタンが押されると共に落ちた越野がそれに気がついたのは、翌朝の送信履歴に名前を発見したときだった。そこにあったのは「神谷なつみ」という名前だった。越野は一瞬目を疑ったあと、静かに青ざめたのだった。…
越野の説明を、仙道も青ざめて聞いていた。
──神谷。神谷、なつみ。
仙道は、ドラムバッグから自分の携帯電話を取り出して、静かに開いた。着信履歴の「なつみ」という文字を確認して、越野を横目で見る。
「あのさ。越野…神谷って、もしかして…」
「あ?」
「あの…こないだ、俺んちに居た…」
「だからそうだっつってんだろが。だから明治は、俺の罰ゲームの相手をお前にしたんだよ」
「罰ゲーム…」
「お前に告るっつう、悪ふざけだよ」
越野が溜息をついて、また話を続けた。恋愛事での恨みは恋愛事で償うべきだ、そんな明治の意味の分からない理論のもとに、越野に対しての罰ゲームが決められた。必ずふられそうな相手を選んで、今時ないような、くそまじめな告白をするというものである。越野はそれに素直に了承した。「反省は行動にして初めて認められる」という越野のモットーを、身をもって体現しようとしたからである。しかし明治は、思いのほかずる賢い。必ずふられそうな相手とは、すなわち人気があって誰もが羨むような女の子である。そんな麗しい相手に告白をして、万が一、億が一でもその返事がオーケーであったなら、罰ゲームの意味がない。そこで、そういった可能性をも粉砕するべく、相手に選んだのが仙道だった。男の、しかも親友の仙道に真剣に告白となれば、越野は十分に恥をかくことになる上、いたいけな女の子を騙す必要もない。それに仙道は、恋愛の上に限っては、明治の恋敵だった。神谷なつみの好きな相手とは、仙道に他ならなかったのである。それは完全な逆恨みだった。
ところが。
「…ふつう、あそこでオーケーするかよ……」
「……」
明治と越野の目論見では、そこで仙道が越野に対して凄まじくドン引きし、青ざめながら苦笑いでオコトワリしたところで、越野がすべてを白状して終わり、ということだったのだ。
「お友達からって、お前……」
「……それは……」
ところが仙道が、にこりと笑いあまつさえ嬉しそうに、「友達からね」なんて言うものだから。越野はとうとう何も言えなくなって、帰宅後、報告を待っていた明治と植草に、うな垂れながらそれを伝えたのだった。
「仙道は、女でも男でも、来る者はとにかく拒まない」、そういった共通認識を手に居れた三人は、翌日から仙道に対して、呆れを含んだ眼差しを向けざるを得なかった。と言っても、明治は逆恨みを、植草は憐れみを、それぞれその視線に含んでいたのだが。
越野の話をおおかた咀嚼すると、仙道は大きくハア、と息をついた。今やふたりはマンションの目の前まで来ていた。越野は事の顛末をすべて話し終わって、けれどそれでもなお俯いたままだった。仙道は、マンションのエントランスの灯りで、仄かに照らされた越野の顔を見つめた。本来なら、話が終わってしまえばこのマンションに二人で入る必要はない。謝罪を受け入れるか、もしくは怒り続けて許さないという結論をもって、この問題を収束するという選択肢があるのみだった。けれども仙道は、そのどちらも求めてはいなかった。
「……じゃあ、おれのこと、好きっていうのも嘘だった? ぜんぶ罰ゲームで、おれらは元通り?」
「……」
越野は何も言わず、下を向き続けていた。仙道はその態度に息を飲む。当たり前だと、そうは言わないのだ。そうして、さらに言い募る。
「越野、あのとき、おれが風邪ひいたとき、うちに来てくれたよな」
「……」
「俺が眠った後、ずっと手のひらで、頭撫でてくれた」
「……」
「最初に目を開けたときも。…越野の顔が、すぐ近くにあった。越野、うわ、って驚いてたよね。あれは何で?」
「……っ」
わずかに越野が息を飲んだ。ほとんどカマをかけるような質問が、功を奏したことが分かる。仙道は越野から一瞬も目を離さずに、最後の言葉を舌に乗せた。
「……それにさ、話は終わったのに、今、帰らないでここに居るのも。……どうして? なあ、越野」
それを聞いて、越野が、とうとう視線を仙道に向けた。そうして、仙道が風邪をひいたときよりもっとひどい、絞り出すような掠れ声で言った。
「…調子に乗んな…!」
上目遣いで向けた視線は、傍から見れば仙道をキっと睨み付けているような強い眼差しだった。けれども、頬の紅さを、今度ばかりは隠せていなかった。仙道はその眼差しを受け取ると、弾かれたように間の抜けた笑い声をあげた。
「はは、…なんだ、だから…ずっと睨まれてたわけね…」
今日の朝から一変、すっかり上機嫌になった仙道は、越野の肩に腕を回す。越野がぎょっとして仙道を見る。硬直した越野ににやりと笑い、狙った相手を口説くことに関してはバスケと同じくらい自信のある仙道は、その耳元で甘く囁いた。
「部屋、行こうか」
「…!」
仙道は、エントランスの灯り以上に紅く染まる越野の顔を見た瞬間に、自分の勝利をほとんど確信した。
しかしながら、越野は合理的な性格だった。そのモットーは、「反省は行動にして初めて認められる」だと、そう標榜して憚らない。紅潮した頬をすぐにおさめると、越野は仙道の腕を糸くずのように除けて、犬に命令するように言った。
「──合鍵!」
「……は?」
越野の顔はみるみるうちに、見覚えのある恐ろしい般若になっていた。
「……お前、『お友達から』って言ったよな? それって、一応は付き合ってるってことだよな? 両想いってことだよな? ……なのにお前は神谷と寝たんだよな? 合鍵渡してたもんな?」
越野がすべて疑問系で畳み掛ける。迫力のある顔と言葉に、仙道はすっかり萎縮した。
「あ……」
「いいか……その合鍵を返してもらって、神谷とも他の女ともすっぱり切れるまで、俺に指一本触れんじゃねえぞ!二股三股なんて、冗談じゃねえよ!クソタコ!!」
そう大声で言うと、越野は俊足で駅の方へ走り去ってしまった。きっと一階に住んでいる住民全員に聞こえただろうその声に呆然としながらも、またもや早口で放たれたその言葉を、仙道は一句一句ゆっくりと頭のなかで繰り返す。それが済むとまた、にやりと笑った。
すっぱり切れれば、指の五本や十本触れ放題と、つまりそれはそういうことだ。仙道は都合良く解釈する。ゆっくり身を翻して、マンションのエレヴェータに乗り込んだとき、とうとう堪え切れず、ぶはっと一度噴き出した。
「『両想い』……」
越野の口から思いがけず飛び出した二度目の告白を、何度も何度も頭の中で反芻しながら、仙道は笑みを深くする。明日も早く練習に行こうと、そう決めた。
[end.]