グッバイ、ハロー
五年前、卒業式を終えてあいつが去った後の鎌倉はやっぱりどこか不自然で
何が足りないのか、誰が居ないかなんて過ぎるほどに判っていたけれど
あの記憶の溶けた海に舞い戻ることを、いまだに戸惑い続けている。
*
冬の真昼の木漏れ日は仙道の彫りの深い顔に薄暗い陰をつくって、微かにゆうらと揺れていた。待ち合わせにこんな鄙びた公園を選んだ自分も自分だが、五年ぶりにこの鎌倉に──越野の前に──姿を見せるにしては自然すぎる仙道も仙道だ。見慣れたのどかな景色の中に、当たり前のように居る目の前のかつての7番を見て、越野は風船から空気が抜けるような長いため息をつかずにはいられなかった。空気が詰まりすぎたその大きな風船は、今にも破裂してしまいそうだったのに。
「よお、久しぶりだなぁ」
「…お前が遅刻しないなんて珍しいな」
「越野が遅刻すんのもな」
ちげーねぇ、そう言ってお互い顔を見合わせひとしきり笑う。高校時代よくこうして四六時中笑っていたと、越野はそう思ったがふと口をつぐんだ。昔を懐かしむ、そんなものだけの間柄になるためにここに来たわけではない。じゃあ何だと、そう問い返した冷ややかな感情にも、けれど越野はひっそりと背を向けた。
仙道と並べて見ると、まるで人形用かとも思える小さな遊具しかないその公園を出て、ゆっくりと歩きながら横目で左の仙道を見る。周りに立つ公園の針葉樹の落とす陰が、仙道の眼を覆っていた。──あと一分、この公園の角を曲がれば海へ続く道に出てしまう。仙道の眼がそれまで陰に隠れて見えなかったらいい、越野はできる限りゆっくりと足を進ませた。この五年間絶えず迷い続けていた決断を、未だに声にして舌に載せることができないのだ。
五年間もの月日は誰の上にも平等に訪れる。仙道が遅刻をせずに待っていた。この鎌倉から遠い遠い場所で過ごすうちに、仙道には越野の知らない部分がいくつ増えているのだろう。
「…俺がここで浜ランサボってると、いつも呼びに来るんだよな、お前が」
仙道が、今現在の出来事のように──まるで陵南の屋上で弁当を食べているときに洩らす笑い混じりの愚痴のように、微笑んでそう言うのを聞いた。その自然さに、越野の手に足に、感慨めいた温かさが立ち込めた。
「お前の考えることはお見通しなんだよ」
覚えずに、決まりきった応酬が口から飛び出していく。仙道があちゃ、という顔をして大げさに肩をすくめ笑った。段々と西日へと変わる鈍い太陽を背中に、木の陰を踏むようにして歩いていく。
あと30秒もないだろう。公園の角を右に曲がれば、飽きもせず通った、あの大きな海と浜がある。ランニングコースの寄り道でアイスを買った暑い昼、花火とバケツをぶらさげて走る夏の夜。それから──。記憶が波のように、音を立てて押し寄せてくる。
──ふいを打って数秒抱きしめただけの腕は離れ、大きな手のひらがひらひらと揺れる。何も言わない仙道はただ眉尻を下げて微笑むだけだった。午前三時の冬の空気は、二人の息を白くさせている。夜が明ける前のちょっとした期待感とまだ暗闇が恋しいという子ども染みた焦燥感が、空に浮かぶ互いの白い息のように混ざり合って二人の周りを覆っていた。
『じゃあな、越野、……』
『……』
『──またな』
抱きしめた、その理由を前から判っていたとしても、どうしてと。どんな一言でも、例え捨て台詞でも、仙道を振り向かせるにはきっと十分だっただろう、それなのに。常識や、モラルやプライド──五年前に越野を留めたそんなものたちは、けれど今でもまだ、確かに同じ場所でひっそりと鎮座したままだ。
──違うだろう。けれど、自分の中の一部分がそう言うのを、同時に越野はいつも感じていた。あのとき越野を抱きしめたまま離れた手は、まだその熱を帯びているのだろうか。待ってくれと、声をかければ振り向いていたはずの仙道の背中は、今もまだ翻ることがあるのだろうか。年を経るたびに重くなっていったそんな恐れを覆って見えなくさせるために、手近な理由をこしらえている。自分は臆病なのだと、この五年間で痛いほど分かっていた。
「…俺、変わったかな」
ふいに仙道が自身の口から、けれど殆ど独り言のようにそう言ったので、越野は思わず拳を強く握った。公園のわきの街路樹を抜けた角、右手には海が広がっている。五年前の卒業に二人で見た海と、今日の青は似ているような気がした。呟いた仙道の顔は見ることができない、きっともう木の陰で隠れてはいないだろうから。
「んなん、分かんねえよ」
「…俺も分かんねえ、でも、…」
公園を背にして海へと向かう道を抜けながら、仙道が何かを言い淀む。眼前に、古びた手すりと真っ青が広がった。綺麗ではないけれど、この海の水にはたくさんの記憶が溶けているような気がする。だから涙のように塩辛いのかもしれないと、越野は自嘲しながら時折考えもした。
ひとつ、小さな息をつく。左の仙道を、初めて越野は見上げた。16センチ上の定位置から見下ろす仙道は、やはり自然だった。何が足りないのか、誰が居ないのか、そんな疑問の答えは、本当はとうに分かりきっていたのだ。
海へと続く階段を、砂を舞い散らせながらゆっくりと降りていく。あのとき捨て切れなかった下らない意地やモラルも、その感情を蓑にした臆病な言い訳も、全部海に溶けてしまえばいい。
──仙道の言葉の続きを待たずに、ふいに越野は仙道の名前を呼んだ。引き止めるように、訴えかけるように、仙道と。それは至極自然で、懐かしい響きだった。
「──仙道、どうして抱きしめたんだ?」
掠れた声でやっとその言葉だけを喉から搾り出すと、仙道は少し目を見開いて、けれどすぐに眉尻を下げて肩をすくめた。越野の口から思わず笑いが零れた。パスカットをされたときにする悔しさと賞賛の交じり合った表情と、今の仙道のそれはよく似ている。「やられた」という、そんな顔をする仙道が可笑しくてまた笑った。
冬の海は、足元まで白波を連れて来た。涙のような塩辛い水が、越野と仙道のジーンズの裾に優しく触れていく。
「……越野のこと、」
好きだからだよ、と言いながら仙道はひとつ水を掬った。越野は微笑んだ。その指の間から流れ出す記憶が、どこかでさ迷っていた五年前のそれと海の中で出会うのを、遠く、けれど確かに感じていたから。
[end.]