僕ら恋するコマネズミ
唇が離れた瞬間、頬の火照りが伝わってしまったような気がして、越野は慌てて身体を仙道から離した。いつのまにか首元に回されていた仙道の手のひらが、襟足をさらりと触れていくのを感じた。目が合うと、仙道はにっこり笑う。してやられた、と越野は思う。
「……る」
「え?なん」
「帰る!」
席を立ちながら越野が吐いた言葉と仙道が期待していたそれとは、全く持って趣を異にしていたらしい。目を見開き腰を中途半端に浮かせた仙道を尻目に、その日はそれきり教室を出てしまった。
「意味を、持たせたいわけだけど」
必死にとぼける自分に、そうはさせまいという顔で食らいつく仙道が物珍しいやら何やらで、思わず眉尻を下げてしまいそうになる。代わりに、はあ、といかにも脱力したような嘆息を零せば、仙道は少なからずほっとしたようだった。越野は俯きながら、さればよ、と内心呟く。
してやられた、とあの日思ったのだ。そのシチュエーションは、あまりにも唐突にやってきたからだった。好機は突然やってくる、そんな陳腐な台詞が頭に浮かんだが、自分は生憎それに対応できるほどのヒーロー性は持ち合わせていない。その証拠に、十日経ってもまだ越野は二の足を踏み続けているのだ。
「別にいいけど…」
「──、」
「それなら、掘られんのはてめえだぞ」
あまりに馬鹿げた台詞だったが、越野を救済してくれるには十分だった。その言葉に仙道はこの世の終わりのような呻き声を出して、肩を落としつつ数分前に行きそびれたトイレに向かったのだった。越野はと言えば、机に頬を突っ伏して特大の溜息をついていた。周りのクラスメイトは、何事もないように昼食をとったり歓談に興じたりしている。それらに向ける恨めしそうな目を、今日だけはどうか勘弁してほしい。
「あーもう…」
問題は決してシンプルではなかった。けれど、解決はいとも簡単だった。
「別にいいけど、って言ったじゃねーかよ…」
ぼうっと教室を見つめていた顔を、言いながら机にぎゅうと押し付ける。目を瞑れば、教室内の午後の日差しが、目にちかちかと映り込んでいた。
「汲めよ、少しは、分かれよ。まじ…もう、馬鹿野郎が」
そう、もごもごと自分の腕のなかで毒づいても、相手に伝わる筈もない。
自分は十日前、突然「そのとき」を迎えたのだ。そんな自分の気持ちを少しは汲んでくれてもいいだろう、と。あまりにも支離滅裂なことにまで思考を巡らせる自分自身に苛立ちを覚えて、またも「ああ」と短い呻きを漏らす。それと同時に、昼休みの終わりを告げる予鈴のベルが平和に音を鳴らした。越野はその音にがばっと身を起こして、席を立った。ぞろぞろと教室に駆け戻ってくる生徒達とすれ違いながら、廊下に出て長身を探す。ほどなく越野はひとつ舌打ちをして、早足で廊下の端へ向かった。仙道が天気の良い日に午後一番の授業をサボタージュするときは、必ずその場所は屋上だった。仙道の一人寝そべる屋上に上って、仙道がまたにっこり笑って──そうして自分はまた「してやられた」とでも思うのだろうか。自分の足以外、そこに向かうものはない筈なのに。
「あ」
「あ…」
上階へと続く階段の前で、見覚えのある女子生徒と目が合った。相手が立ち止まると、越野も思わず足を止める。つい二週間前まで仙道と付き合っていた先輩の女子生徒だった。教室移動の最中なのだろう、仙道が「会うこともない」と言った言葉の平和さをひそかに越野は恨んだ。パーマを軽くふわりとかけたショートカットで肌が白く、釣り目が魅力的な美人だった。彼女は、越野が知る限り仙道が初めて自分から別れを告げた相手だった。恨まれていない筈がない。その目に予想していた通りの敵意が浮かぶ。
「何してんの?」
「いや、別に」
「移動教室じゃないでしょ?手ぶらだし」
「はあ…」
「……。越野君さあ」
「…何すか?」
「普通、彼女に遠慮とかしないかなあ?」
「……」
「メールとか…」
「俺、急ぎますんで」
それだけをやっとの思いで言って、けれども、行こうとしていた方向とは真逆に足を踏み出した。とんぼ返りだった。出鼻をくじかれたような思いで、もう何度目か分からない溜息をつく。予想と全く違わない言葉は、けれど思っていたより効力が強いようだった。仕方ないだろう、と頭ではそればかりを繰り返す。仕方ないだろう、遠慮ができないのは。
一歩踏み出すも、越野はそこで立ち止まってしまった。ざわつく廊下に埋もれていると、やがて二度目のベルが授業開始を告げる。周囲の慌しさがふいに静かになった。教師が廊下の向こうから歩いてくるのを見つけると、越野は慌ててまた身を翻して階段を駆け上がった。まるでコマネズミみたいだ、と内心自分を嘲笑ってもみる。そのまま三階四階と階段を上がり、屋上の前の踊り場まで到達すると、越野はそのままそこに腰を下ろした。冬の空気にひんやりと冷やされた踊り場の感触が、一気に階段を駆け上がった身体には心地よい。そうして壁にもたれかかって、体育座りの膝の間に頭を埋める。少しだけ、考える時間が欲しかった。けれども、本当に必要なのは考えることではなく、その先にあるものだと且つ一方では気付いてもいた。考えることだけなら、もう一年間もそうし続けていたのだ。遠慮ができないのは当然だった。仕方がなかったのだ。
越野が顔を上げたのと、屋上のドアノブが回ったのとは同時だった。ギイ、と音を立ててそのドアが開くと、冬の風と一緒に仙道がひょいと顔を覗かせた。鼻の頭が少し赤い。越野を見とめると、その顔がにっこりと笑った。
「…来ると思った」
「てめえは何でこっち来んだよ」
「さみいもん、さすがに」
じゃあ行くなよ、と悪態をつきそうになるのを何とか押さえて、越野はぷいと何もない階段の方を向いた。仙道がそれを見て少しだけ笑ったのを感じて、眉をひそめてまた向き直った。
「お前してやったと思ってるんだろ」
「思ってねえよ」
「嘘だ。絶対落ちると思ってやがる」
「落ちたらいい、とは思ってる」
「……」
両手を広げ肩をすくめて、仙道はまるで欧米人のようなジェスチャーをとった。悔しいくらいに似合うそんな余裕綽々なポーズを取る仙道を見て、越野はいよいよ悪態をつかずには居られなくなる。そもそも、始めたのは自分が先なのだ。一矢でも報いてやらなければ気がすまない。二の足を踏んでいる場合ではないのだった。
「あのさあ」
「ん?」
階段の一番上の段を椅子のようにして座りこんだ仙道に、ぶっきらぼうに声をかける。その相手はにこりとしたまま、越野の顔を覗きこんだ。
「仙道さ、少しは考えねえの?」
「…何を?」
「俺が、ほんとは全部全部、わざと受身のふりしてたとか」
「え?」
「俺が最初からそうで、お前がそうなるのを待ってた、とか」
「越野、ちょ待って。そう、って」
「はじめっから、俺は待ってた」
「……」
「俺は、お前が俺を好きになるのを、友達の顔してずっと待ってた」
「……」
越野の顔を覗きこんだそのままの姿勢で、仙道の動きがはたと止まった。目を丸くして、越野の顔を見つめている。
「そんなふうに、考えたことねえの?」
「……ねぇよ……」
「……もしそうだったら、どうする?」
「もしそうだったら…」
呆気にとられていた仙道の顔が、鼻の頭だけではなく、その頬もわずかに紅くなる。バスケでしか見せないようなその顔に、越野は自分があっけなく毒気を抜かれてしまうのを感じた。
「そうだったら、何なんだよ」
「…いや言わない、言えない、嬉しすぎて、あ」
「言ってんじゃん」
思わず越野は破顔したが、すぐに思い至る。一矢どころの話ではない。たったその一言にそれこそ矢のような襲撃を受けているのは自分だとそう気付いて、してやられた、とまたも思うのだった。
[end.]