あかつきのなきわらい

 夢から掬い出されるように、唐突に目をが覚めた。ふだん、睡眠中に起きることなど滅多にない仙道は、目を開けてあたりがまだ薄暗いことに驚き、まず、目だけで部屋を見渡した。特に変わったこともないと不思議に思うころ、隣で寝息を立てていた越野の身体がびくりと震えるのを感じた。背中を向けていたから、越野に向きなおして寝返りを打ち、深夜と早朝のあいだの闇の中に仄かに浮かび上がる越野の顔を見る。
「…越野…?」
「……っ、」
 白くぼんやりと視界に映る越野の顔に、ちらり、と光るものを見とめて手を伸ばせば、それは涙の白露だった。確かに眠っている、眠りながら涙を流しているのだ。
「どうしたの…」
 仙道は驚いて、眠ったままの越野の頬を手のひらで包み込んで涙を拭った。越野は泣かない。こうして一緒に眠るようになってまだ少し、仙道は越野の涙を見たことがない。全国への夢が絶たれたあの夏の日も、越野は涙を流してはいなかったのだ。
「なあ、どんな夢見てるの…?」
 鼻を擦り合わせるように静かに囁けば、越野の手がぴくりと震えて、仙道のTシャツを掴む。越野がこんなふうに自分に縋りつくことなんてなかったから、仙道はちょっと心臓が早くなる。越野は寝息を立てながら、未だに、ぽろぽろ、と涙を流し続けていた。仙道はそれをタオルケットの端で拭い、少し汗ばんだ越野の前髪を梳く。越野の手は相変わらずぎゅうと仙道の二の腕のTシャツを掴んで離さない。越野がどうしようもなく悲しい思いをしているのではないかと、そんなふうに思えて、仙道はその顔を覗き込んだ。泣いてはいたが穏やかだった顔が、途端に僅かに歪んで、越野がいちどしゃくり上げた。そうして目を閉じたまま、
「──仙道」
 と掠れた声で呼んだ。
「……」
 仙道は耐え切れず、越野を抱きしめる。突然目が覚めたことを不思議に思っていたけれど、この声で自分は夢から呼び戻されたのだと知った。掻き抱いた襟足もまた汗ばんでいて、仙道はそれを撫でながら頬に何度もキスをする。
「越野…」
 どうして人は同じ夢を見ることができないのだろう。どうして人は、誰かの夢に入り込むことができないのだろう。越野を追ってならどこにでも行けるという自信があるけれど、夜見る夢だけはその限りではないのだ。仙道は腕の中の越野を、ほとんど何かから隠すように覆い込んだ。夢の中でも自分を呼んでくれているのなら、せめてその一番近くに居たい。
 越野は泣かない。──自分の前では、決して。いつだって感情に正直な越野が、仙道の前だけでは涙を見せまいとしていること、それくらいは気付いている。気付いて知らない振りをしている。それでも仙道にすがりつく越野を見つめれば、痛いほどの愛情が、暁の寝覚めに仙道に押し寄せた。そうして、泣きたいほどの切なさも同時に仙道のこころに満ちていく。
 もっと近付きたい。いつでもそばにいたい。自分がここにいることを、越野に伝えたい。自分の知らないところで泣いていてほしくはないのに、どうしてもそれが叶わない。
 二人の身体が邪魔をして、距離をゼロにすることのできないもどかしさのまま、仙道は目を閉じた。

 暖かさと、甘い圧迫感で越野は眠りから覚めて顔を起こした。遮光カーテンの奥からは白々とした早朝の光が鈍く差し込んでいる。越野はそれを、仙道の頭と腕の隙間から見た。触れるほどすぐ近くに、仙道の通った鼻筋や形のいい唇がすうすうと寝息を立てている。自分を抱き抱えるように、あるいは抱きつくようにして眠っている仙道の姿に、越野は起き抜けからどぎまぎして、しばらくは身を潜めてじっとしていた。陵南高校に入り、もう二年半、一緒に過ごしてきた。そのうち、こうして同じベッドで身を近付けて眠るようになってからは、数ヶ月。越野はまだ、仙道と抱き合えばいつも、心がどうしようもなく揺さぶられる。平気な顔を装って意地を張るのも、そんな自分を知られたくないからだ。
「仙道…」
 目の前の長い睫毛を眺めながらぽつり、と呟けば、いつもならそんな声ではその毛一本すら動かさない仙道の瞼が、ぱちりと開いて越野を見た。越野は心底驚いて、またその距離の近さを改めて意識して、思わず息を止める。
「おはよ、越野…いま、呼んだ?」
「……呼んだ、けど…」
 ようやく出るようになった声でしどろもどろにそう答えれば、仙道はにっこり笑って、越野の唇に触れるように口付けた。少しかさついた唇が触れると、仙道の右手が頬を撫でる。目元を擦るように親指の腹で確かめて、今度は泣き笑いのような顔をして越野を見た。急にそんな顔をするものだから、越野は何も言えずにただその顔を見つめる。そうしているうちに仙道は、もともと近かった距離をさらに縮め、越野の首筋に摺り寄せるように頭を埋めた。普段は上げている仙道の柔らかい髪の毛が襟足に触れてこそばゆく、甘い痺れが全身を伝う。猫のように丸まった仙道の背中を、仙道が自分にしていたように、掻き抱いた。それでもいま越野を見つめたその表情にちょっとした不安を感じて、越野は仙道の背中を撫でながら問いかける。
「なあ、どうしたんだよ…」
「……。越野、どんな夢見た?」
「え?」
「夢」
 ゆめ、と言われて初めて越野は遠い意識に思いを馳せた。埋没していくような感覚から、つい先ほどまで見ていた映像の欠片みたいなものを探り取ろうとしたが、思い出せない。心のすみに残っていた感覚の記憶だけが、波のように足元を掬うだけだ。
「なんだろ…ちょっと悲しい夢かな」
「…そっか」
「あ、でも」
「……」
「最後はいい感じで終わった気がする。なんとなく、嬉しいような…」
 ──幸せだったような。その感覚をぼんやりと思い出して、そこに仙道の面影があったこともまた思い出す。お前の夢を見ただなんて、仙道にはとても言えないけれど。
 越野のその言葉に、仙道がことさらぎゅうとしがみ付いた。すこし心配になった越野が、仙道、と名前を呼ぶと、埋めていた顔を越野へ向けた。額と額が触れ合い、見つめ合う。やっぱり越野は、真っ直ぐ見つめるその優しい眼にどぎまぎした。
「…本当に、どうしたんだ」
「なにが?」
 そんな震えを抑えて仙道に問いかければ、仙道はまたあの顔で言葉を返す。いつもの甘ったるい笑顔とはまた違う、まるで、泣く直前で笑っているような表情だ。
「悲しい?」
「……」
 越野の言葉に、仙道がその表情のままちょっと沈黙し、また笑みを深くした。そして、ほとんど触れそうな距離まで顔を近付けて、自分の鼻先で越野のそれをちょんちょんと擦り合わせる。こんなに近くに居るのだから、もっと他に触れる場所があるだろうとすこしだけ恨めしく思いながら、越野は仙道を見た。瞳に早朝の鈍い光と自分の顔とが映っては、ちかちかと揺れていた。しばらくは見つめたまま、
「違うよ」
 と、ほとんど吐息で、ふいに仙道が言った。
「…嬉しいんだよ。一緒に居られて」
 そう言うと、仙道が今度こそ越野の口唇に自分のそれを合わせた。深く深く入り込んで、何度も角度を変えた、長い長いキスだった。途中で眼を開ければ、仙道の睫毛が触れそうなほど近くにある。自分の手でその目元をそっと撫でれば、仙道も眼を開けて、口付けながらふと微笑んだ。額、鼻や首筋、襟足を確かめるように触れながら、仙道を感じる。確かにここに居て自分に触れているのだと感じると、ふと涙が零れてしまった。自分の髪を撫でる優しい手のひらに身を委ねながら唇を離すと、仙道が零れたその涙をじっと見つめていた。自分が泣けばこんな顔をさせてしまうことが分かっていたから、意地を張る。すぐに感情を乱される自分を知られたくないと、仙道の前では泣いたことがない。けれど。
「…嬉しいから泣いてんの。おれ、お前が好きだ。泣けるほど」
 大丈夫、とでも言うように、越野は泣きながら笑った。涙と微笑みは、相反するものではないと知る。そうして初めて、あの仙道の表情の理由が分かったのだった。明けて行く暁の空のようにこみ上げる愛しさで、泣き笑いのまま、越野は仙道の首筋に抱き付いた。暖かい体温と、同じくらいに高鳴った心音とが混ざり合う。ひとつにはなれないと分かっていても、少しでも距離を縮めたくて。好きだという思いの強さを、これ以上伝えることができなくて。越野は仙道をただ抱きしめた。ただただ、そうするほかなかった。



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