Today's 76

 気分次第でつづる仙越ショートショートです

 09/24/2012 0:17 「Don't you bring me down, today」

 腰に手を回した。細く、柔らかく、柳のように頼りない女のその部位はこんなにも手になじむのに、越野はどうしてか熱を感じない。肩に置かれる栗色の髪からは花のようなかおりが漂うのに、思い出すのはあの汗と埃くさい部室の匂いだ。越野は苦笑する。女性を抱くのに都合の良くできている、この節だった大きな手。それでも、仙道の手と合わせると、女のように小さい。それが嬉しいと感じてしまったあの日から、自分はまるで男でも女でもないようだ。
 女性が顔をあげ、ふと笑った。朱のさした頬をふんわりと持ち上げて、そうして視界に入る越野以外のすべてを遮断するような熱視線を向けひとつ瞬きをした。グラスを持つ越野の左腕に、ひかえめにその白い右腕を絡ませる。肌と肌を擦り合せて初めて、あたたかな体温を感じた。
 彼女にとって、この瞬間の自分は男なのだ。だのに、自分はきっと悲しい思いをさせてしまう。それが越野の顔に出た瞬間、彼女の頬からさっと色が消えた。

 カランと氷が溶ける音がした。越野はかくりと頭が項垂れる感覚から覚めると、横の仙道はソファの背に頬杖をついて雑誌を読んでいた。コロン、と、汗をかいたウイスキーグラスを右手で遊ぶ音が涼やかに部屋に響く。
「あ、ごめん…起こした?」
「悪い、寝てたか…」
「俺がトイレ行ってる間にな。それでも五分くらいかな」
 ぶん、と頭を一振りすると、アルコールが少し回る。まだ飲み始めて時間が浅いのに、昨日の寝不足が効いているようだ。
「越野、仕事の都合つけて来てくれたんだろ? 眠いなら寝てもいいから」
「……。二年ぶりに会えたのに、寝ねえよ」
 寝起きだからだろうか、越野の本音の出た言葉の直線的な響きに、仙道が少しだけたじろいで息を飲むのが伝わってくる。かすかに空気を揺らすだけのその所作を、感じられるのは自分だけだと越野は思う。
「高校を卒業してから、会うのは二度目か」
「お前がアメリカに行く頃、見送りにな。それきり二年」
「越野は俺より忙しいんじゃねえ? 去年のオフにも帰国したのに」
「テレビでは何度も会ったぜ」
「それじゃ俺は越野に会えない」
 仙道がすこしおどけるように笑う。仙道が日本に滞在するためにとったホテルの居心地良い照明が、仙道の頬に長い睫毛の陰をつくる。
「俺に会えないと寂しいか。……おまえは、寂しかったか」
 その陰影だけを見つめながら、越野は言う。仙道がソファに預けた手が、わずかに動いて越野の肩に触れた。女の腰に回した自分の手を思い出す。男の手になじまないこの身体から、仙道は熱を感じているだろうか。越野はひとつ息を飲んで、グラスを持つ仙道の腕に、そっと指を絡ませた。自分の左腕にまわされた女性の腕があんなにも控えめだった理由を、越野は理解する。そうして、あの落胆の眼差しを思い出す。拒まれるのがこんなにも怖いのだ。越野は仙道の顔から視線を逸らして俯いた。
「…寂しかったよ。でも、悪くなかった」
 仙道が言った。顔を見なくても、微笑んでいるのが越野には分かった。仙道に触れた指先がすこし震えているのを、仙道もきっと分かっているのだろう。
「大事な感情に気付いたから」
 仙道の顔を見上げてもいいだろうか。自分の顔を一目見て、微笑みが消えてしまった女性の表情を思い出す。顔を上げられずにいた越野の頬を、仙道の手が包んだ。その手の温かさに、涙がひとつ溢れる。どうか、今夜は拒まないでほしい。空港で交わした別れの握手で、その熱に、手のひらの大きさに、触れたとき気付いてしまったこと。それきり二年を、仙道に会えずに過ごしたこと。記憶と感情を抑えきれず、う、と声をあげた。
「俺…男だよ、仙道…。女にはなれない。それでも…っ」
「それでも好きだ。越野が好きだよ」
 目を開けると、仙道の笑顔が目の前にある。目を閉じていても、仙道が優しく笑っていることを本当は分かっていた。頬を包むその両手に、越野も手のひらを寄せる。なつかしいその肌は、不思議とよく馴染んだ。

[end.]

12/05/28 0:34 「鍵を掛けられていた君が笑った」(『恋はもうすぐ』お題 No.10)

 仙道のシュートが美しい弧を描いてゴールにおさまると、越野がコート外からひときわ大きい歓声をあげた。
「ナイッシュ!仙道!」
 紅白戦の終わりを告げるホイッスルの音と同時にその声を聞いた。キュ、バッシュの音を立てて、越野が仙道と入れ替わりに紅白戦に入る。
「…それだけ?」
 すれ違いざま、ちょうど仙道の口元に越野の耳が近づくころ、仙道は越野に小さく疑問の声を投げかける。それに急に振り向いた越野の髪がなびいて、汗が一滴、仙道の頬にかかった。
「――はあ?」
 訳が分からない、という顔で非難の声を上げる越野。仙道は2、3度首を振って微笑むと、「なんでもない」と言いながら右手を上げた。

 越野はよく笑う。たとえば仙道が遅れずに朝練に来た日に、相手チームのオフェンスを2人抜いてシュートを決めたときに。満面の笑みで笑いながら肩口をたたく越野の、しかし、その笑顔だけではもう飽き足らない。鍵のかかった別のドアの奥にしまってある、越野の他の顔が見たいと、仙道はもうずっとそう願っている。
 願っているだけでは、なにも起きない。それでも仙道には、その鍵の開け方がわからない。
 はじめは、困らせて気を引こうかと思っていた。飽きもせず毎朝迎えにくる越野を、わざとすこし怒らせてやろうか。自分のあまりに幼すぎる発想に辟易しながらも、仙道は越野の反応を頭のなかに思い浮かべる。
『――なあ、仙道。おれ』
 しかし、途端に飛び出したのは、入学して三ヶ月経った頃の越野の言葉だ。
『おれ、三年間、お前をサポートする。お前が良いプレイができるように、おれがやれることはなんでもやる。決めたんだ。お前がすげえ奴だからってだけじゃねえ。そのすげえ奴と一緒にプレイできる自分のために』
 まっすぐそう言った越野の言葉は、仙道の幼い思考を思い止まらせた。憧れや羨望だけではない、確かな意思がそこにあった。その言葉を、陵南に入って一年が経つ今までずっと、越野は忠実に守っている。
 ――そんな言葉をもらっておいて、それ以上のものが欲しいなんて。
 仙道はひとつ息を吐いて、体育館の外に出た。うしろではホイッスルの音が響く。この紅白戦を終えると、10分間の小休止だ。

「仙道」
 水道から少し離れた体育館裏、座って涼んでいる仙道に、越野が声をかける。仙道は投げ出した足をぶらつかせながら、わずかに湿気を含んだ五月の生温い風をTシャツの中にはたはたと送り込む。
「……。ああ、おつかれさん。勝った?」
 なにげなくそう返した。そう見えるように、視点をずらして微笑んだ。
「勝った。8点入れた」
「はは。福田が泣いてただろ」
 Tシャツの裾をはためかせながら、続けて軽口をたたく。平静を保つためにずらした視点を、合わせることができない。
「……それだけかよ」
 越野がふいに言った。
「……。え?」
 仙道はTシャツを動かす手を止めて、右後ろに立つ越野を見仰ぐ。見下ろす越野と眼が合った。木陰になっている体育館裏は薄暗く、その表情はよく見えない。
「……っ、なんでもねえっ」
 何かに気づいたように右腕で顔を隠してそう言い放つと、越野は背中を翻した。――翻そうとした。仙道が思わずその左手を掴まなければ、もう水道のあたりまで駆けていたかもしれない。逃げ腰になっている越野の腕をぐいと引っ張って、隣に無理矢理座らせる。すとん、と、越野は存外にすんなり仙道の右隣におさまった。
「……あのさ、越野」
「……。なんだよっ……」
 越野の顔が赤い。五月の風がますます湿気を含んだように生温く感じる。紅白試合が終わってだいぶ経つのに、仙道の背中にはじんわりと汗が滲んでいる。
「気づいてるかもしれねえけど、俺もさっき、同じ気持ちで言った」
「……」
「足りないから。『それだけ』じゃ」
 そう言った途端、休憩時間終了のホイッスルの騒がしい音がした。越野は弾かれたように肩をびくつかせると、立ち上がり、今度こそ翻って駆け出した。たった数秒間で何mも離れてしまった背中に、思わず仙道は、越野!と、その名前を呼ぶ。
 その声にくるり、と振り返ったその顔から、仙道は眼が離せない。どうしても見たいとそう願った笑顔が、一瞬だけ仙道を見つめて、体育館裏の角に消えた。五月の風が、開いたドアからさあっと吹き込むように、仙道の額を優しく撫でた。
 
(まるで鍵が開くような笑顔で笑った)

(その鍵の開け方は、笑えるほどに、簡単だった)


 [end.]

 *ずっとNo.9までしかなかった10のお題の最後の話をやっとかけました。やっぱり馴れ初めって好きです。
  後から収納する際、こちらは超短編の「恋はもうすぐ」カテゴリに移動させていただく予定です。

 12/05/17 23:39 「Home」

  ――「バスケットに心残りはありません」
 いつもどおりの曇りない笑顔でそう言った仙道、それは練習後の、あるいは試合前の、車から降りたすぐ後の何気ないインタビューと変わりなく。その眼の奥を何度推し量ろうとしただろう。何度分かりたいと願って、自分では無理だと諦めただろう。
 ソファの背もたれがじんわりと熱い。部屋がゆらゆらと揺れている。仙道は、この家に帰ってくるのだろうか。

 あおあおとした新緑がうつくしい五月のおわり、そろそろ故郷にある寺のあじさいが雨粒に照らされて光るころだろうと、越野はふと思う。仙道が右ひざに大きな怪我をしたのは、その新緑も冬枯れの、12月の頃だった。
『すっ転んで、ちょっと膝痛めた。参ったなあ…』
 長い長い会議を終えた仕事帰り、混み合う駅で聞いた留守番電話には、相も変わらず鷹揚とした声のメッセージが届いていた。白い息越しに、光る携帯電話の画面をただ眺めた。あんまりのどかなものだから、またアメリカの大きな選手に吹っ飛ばされたのだろうと。そう思いたかった越野の期待は、帰宅後に見た深夜のスポーツニュースの報道で掻き消された。
『仙道彰選手の怪我は、前十字じん帯および内側側副じん帯断裂、膝蓋腱部分断裂とのことです。全治1年。選手生命も危ぶまれます』
 仰々しいほどの文字列を念仏のように唱えるアナウンサーに、深刻そうな顔をして呟くコメンテーター。見慣れたはずの光景すべてが非現実的だった。日本とアメリカの距離は遠すぎて、仙道が、いま、何を思っているか分からない。――そう言えたら、どんなに楽だろうと越野は思う。鎌倉、陵南高校で仙道の隣にいた頃、暮れる海を一緒に眺めながら泣いた。どうしたの、という仙道の優しい声。自分ばかりが仙道を好きだった。あの頃だって、キャプテンと副キャプテンという間柄を得ていたあの頃だって、越野は仙道の気持ちを理解することができなかったのに。
『おれ…、俺には、お前は無理だよ…でも…っ』
 江ノ島を眺めながら絞り出した。仙道は何も言ってくれない、こんなときでさえも。長いまつげを伏せているから眼が見えないのだけれど、これは自分の涙で曇っているだけだったろうか。空と海のあいだをくぐるように差し込む紅い夕日を見ていた仙道の横顔がすこしうつむいて、その左手で越野の右手をただぎゅうと握る。そのあたたかさに、越野は歯を噛み締めた。
『それでも、ごめん…俺、やっぱり、おまえが好きなんだ…』
 仙道の顔は最後まで見られなかった。あれから15年も経った今、優しくされるたびに去来する胸の痛みにももう慣れてしまった越野は、いまだ仙道の手を離せないままでいる。
 
 ――「バスケットに心残りはありません。常にそういう気持ちでプレイしてきましたから」
 繰り返される報道を割るように、ガチャリ、と音を立てる玄関口。越野は、ソファからゆっくりと立ち上がって部屋を見渡した。明るい部屋は、いつもと同じように清潔で、仙道のかおりがした。玄関とリビングを仕切るドアノブがゆっくりと動く。

「…ただいま」

 ――「ただ、ひとつやり残したことがあるとすれば……まだ、感謝の気持ちを伝えていない人がいる」

 つけっぱなしの画面からは、シャッターを切る音と一緒に仙道の声が聞こえてくる。その体温に、気づけば包まれていた。あのとき繋がれた左手と同じくらい、仙道の身体はあたたかい。薄手のTシャツに、抱きしめる仙道の息がかかる。
 ありがとう、と。耳元で寄せられた仙道の声は、ほんの少しだけ震えていた。あの日、越野の左手を強く強く握ったとき、仙道は何を思っていたのだろう。自分には無理だと、そう弱音を吐いて仙道から逃げようとした越野に何も言ってくれなかった仙道は、今と同じように震える声を喉の奥に押し込めていたのではなかっただろうか。
 越野はひとつ息をついて、今度こそ仙道を仰ぎ見た。画面越しに見たばかりの仙道の眼は、思っていたよりずっと慕わしげに越野を見つめていた。そうして、今度は静かに息を整えて口を開いた。
「…ありがとう、越野。お前がいるから、帰って来る場所がある」
 やっと見られた仙道の顔が、けれどもまた、ゆらゆらと霞んでいく。15年間、分からないと思い続けた仙道は、15年間変わらずにずっと気持ちを伝えてくれていた。本当は、握った手の強さで気づいていたはずなのに。
 自分ばかりが好きでもいい。分からなくてもいい。越野を抱きしめる仙道の手にもうバスケットはない。それでも、仙道が帰ってくるのは自分のもとなのだ。


 [end.]